syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

鋸山と日本寺大仏 

2013-06-09 | 気まま旅

室町時代、安房里見氏の出城(鋸城)にて、柱のツカ石として使用されたのが始まりで、江戸時代の安政の頃、伊豆の石切り職人が渡来し
鋸山周辺で建築用に 石切りを始める。
土丹岩、更に万延、元治、慶応の頃になると それまでの悪い石から、質の良い石の採石が盛んになり、石切り場も鋸山本峰に移った。1995年には横浜港開港に伴い、護岸工事用材、土木工事材として優秀性が認められ生産性も拡大そいた。
明治時代に入り、文明開化にともない、房州石の需要もますますふえ、京浜地方、特に横浜市横須賀市の公共事業指定石材にもなり、
金谷地区の総人口の80%が石材産業に従事していたと言う。
大正・昭和時代は、12年関東大震災で多くの護岸が崩れ、石積の時代からセメント工法に移行、セメント進出で衰退、軍国主義の中で登山禁止、戦後は一時パン焼きカマドなどに使われたがそれも終り、その奇岩、怪石とともにその景観美は、観光で国定公園に指定される。

鋸山ロープウェイ十州展望台から               向かいは三浦半島


房総の山並み、東京湾・対岸の三浦半島と三浦水道・冨士山などが見渡せると云う。彫られた百尺観音・江戸時代の名工「大野甚五郎英令」
らによって造られた。千五百羅漢(昭和44年に復元)巨大な仏像群が有る。
山は、可なりきつい登り降りの岩山である。駆け足でも2~3時間はかかる。

鋸山山頂展望台から


鋸山ロ-プウェ-の入り口に、「金谷神社」横の社の中に、「鉄尊権現」巨大な鉄の円板が祭られている。
社伝によると、1469年、沖の「金谷神社」西方0.55kの所に、不思議な光を放つ物体を発見。
金谷の人々が舟で近寄ってみると、海の底に異常に光る円板が沈んでいた、円板を引き上げようとしたが、重すぎて動かないので、
神に祈ると雷が鳴り響いて、この円板を二つに割ってくれたので、何とか引き上げることが出来たと言い伝わっている。
この神社も無人で、二重ガラスで撮影できなかった。
直径が1m60cm。厚さ11cm 重量1.571T。里見氏との関係が?。

登山道入り口の金谷神社                    国道127号線から見上げると
    

空気が澄んでいると富士山が見えると云う、今日は駄目。十州一覧台は、関東十国を見渡すことからその名がついた。
神奈川県三浦半島から伊豆半島、浦賀水路、東京湾フエりーの南房総玄関口「金谷港」と広がる。

百尺観音は、石を切り出した壁面に掘られている100尺の大観音石像で神秘的である。

                         山頂の岩肌           百尺観音
    

「地獄のぞき」は、最も標高の高い所で、突き出した岩山でスリルがある。
「東海千五百羅漢道」は、大野勘五郎が20年間、門弟と1553体の石仏が並んでいた。同じ石仏は無いという。

「大仏広場」昭和44年、復元された日本最大の大仏である。奈良東大寺の約1.8倍とある。

岩間から                          百体観音石仏          大仏


「日本寺」は、曹洞宗、山号乾坤山、725年聖武天皇の勅願で行基が開いたと伝えられている。
巻頭最古の曹洞宗修練場、1969年復元した本尊「薬師瑠璃光如来坐像」は日本一である。

                      日本一大仏31m           行基により開山
    


時間の関係で、日本寺の法堂、不動滝、護摩窟、通天窟、達磨石、観音堂、などは回る事が出来なっかった。
まだまだ、貴重な文化財が多く、残念であるが又の日にする。
山道は、整備されてはいるが小石などで滑りやすい。

                 ロープウェイ停止時間に           急いで逆戻り
  

鋸南町は、東西に沿って保田川と佐久間川の小河川が、浦賀水路の注ぐ、保田は加工の港町として栄えた町で、カーネーションの生産は日本一
竪穴住居の田子台遺跡も知られている。

日没の浜金谷             トンビがクルリと                     美しい砂浜で
    

次回は、千葉城へ。