千葉県鋸南町「勝山」は、江戸時代城下町であった。
県南西部内房海岸、1959年鋸南町に、江戸時代は、酒井氏(12000石)の城下町、浮島周辺は、「南房総国定公園」の一部でハマチの養殖と漁業基地でもある。
JR勝山駅は、上り、君津・木更津・五井・蘇我・千葉・東京方面と下り、館山・千倉・安房鴨川方面で千葉駅から74・6Kmの位置にある。
参考までに、東京駅ー館山 高速バスは、約2時間少々、館山から千葉駅までJR内房線は、約2時間で、ほぼ同じ。
源平合戦の頃の1180年、対岸の小田原で「石橋山の戦い」があり、源頼朝は大敗し、船で安房まで逃げてきて、たどり着いたのがこの地
その上陸したところの近くにあった城が「勝山城」で、そこの城主を頼ったという。(大黒山展望台では?)
勝山駅前 駅前から見る 大黒山展望台
浦賀水道に面した勝山は良港地。
戦国時代、港を見下ろす八幡山に内房正木氏の勝山城が築かれており、戦国大名里見氏のもとで水軍の拠点となっている。
1590年の小田原征伐ののち、里見義康に安房一国9万2000石が安堵され、1600年の関ヶ原の戦いで義康は東軍に与し、12万2000石まで加増されている(館山藩)。
1614年、義康の子・里見忠義は大久保長安事件に連座して安房国を没収され、伯耆倉吉藩に移封(実質的に流罪)され、以後、安房国は小藩や旗本領、他国の藩の飛地領によって細分化、勝山の地は、館山藩領の接収に従事した「上総国佐貫藩主内藤政長」に与えられ、
4万5000石の所領の一部となった。
1622年、内藤政長が磐城平藩に移るとその所領は分割され、内藤清政(内藤政長とは同族だが別系統)が3万石を与えられた。
清政はかつての勝山城の麓に陣屋を構え、安房勝山藩が立藩する。
しかし、清政は嗣子の無いまま1623年に早世した。弟の正勝は16歳であったが、幼少であるとして安房勝山藩は一時的に除封された。
1626年、正勝が兄の遺領のうち2万石を継承し、再度勝山に入封するが、1629年に22歳で早世する。
嫡子の重頼はまだ2歳であったために5000石に減封され、安房勝山藩は廃藩となる。
旗本となった重頼はのちに昇進して若年寄・大坂城・京都所司代の重職を歴任、大名として復帰し(摂津富田林藩)、最終的には3万3000石を領している。重頼の養子清枚は信濃高遠藩に移され、以後内藤家は幕末まで高遠藩主として続く。
「酒井家時代」内藤氏改易後、勝山一帯は若狭小浜藩主「酒井忠勝」(雅楽頭系酒井氏)の所領となる。
忠勝の長男「忠朝」は、若年寄まで務め、将来を嘱望された人物であったが、廃嫡の処分を受け、酒井家所領の市部村(現・南房総市市部)に蟄居して、この地で没している。
1668年、小浜藩主酒井忠直(忠朝の弟)は甥の忠国(忠朝の子)に対して1万石(安房国平郡内4500石、越前国敦賀郡内5500石)を分知。
忠国は安房国勝山に陣屋を構えて居所とし、ここに再び「安房勝山藩」が立藩される。
街の中の極楽寺 本堂 縁起の良い寺名
酒井家は、1万石→1万2000石。譜代ー酒井忠国、大和守。酒井忠胤、備前守。酒井忠篤、越前守。酒井忠大、大和守。酒井忠鄰、越前守。
酒井忠和、大和守。酒井忠嗣、越前守。酒井忠一、安芸守。酒井忠美、大和守。で終わり。
石橋山の戦いで敗れ、源頼朝が神奈川真鶴から逃げてここに上陸(吾妻鏡より)
海岸近くの神社、頼朝の足取りは残念ながら残されていない。
JR内房線は、海岸線を千葉方面に、館山湾、那古寺(坂東33番結寺惣納所)の船形、大房崎から富浦海岸から、夏目漱石が愛した保田海岸の間「勝山駅下車」して、源頼朝が上陸した、竜島の勝山漁港と海水浴場方面に向かう。(徒歩15分ほど)
漁村(なり手がいなく困っている) 取りたてのワカメの天日干し
「石橋山の戦い」
1180年、相模国石橋山(小田原市南西部)で、平氏方の大庭景親らが源頼朝の軍を破った戦闘である。
伊豆北条に挙兵し、同国目代の山木兼隆を討った頼朝は、ついで三浦氏の軍との合流を望み相模に進出、石橋山に布陣した。
大庭景親勢がこれを強襲、伊東祐親も背後をうかがった。
三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義、梶原景時など、景親の手に属しながらも内応する者があり、彼らの計らいで絶命の危機を逃れた頼朝は、箱根山中を経て土肥郷(湯河原町、真鶴町)に脱出、28日には真鶴岬から海上を安房(千葉県)に渡り、再挙を図ることになる。(小田原・真鶴編に掲載しました)
数か月前掲載(神奈川小田原・真鶴・湯河原で) 真鶴岩海岸
「吾妻鏡」は、(現代語)
治承四年(1180)九月大一日庚戌。頼朝様が上総介廣常の屋敷に行こうと言い出しました。北條時政殿始め面々はそうすべきだと云いました。安房国の安西景益は頼朝様の子供の頃に特に仲良くしていた人なので、最初に手紙を出しました。その内容は、「令旨は間違いなく従うべきなので、国衙に勤める在庁官人を同行して参上しなさい。又安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来なさい。」と
ある。
1180年、「石橋山の戦い」に敗れた源頼朝は箱根別当にかくまわれた後、真鶴町から出航。安房国平北郡猟島、ここ「竜島付近」に到着。
ここから再起を図った。頼朝上陸の碑が、竜島海岸に建立され、同地は、県の史跡に指定。
最初に頼朝のもとに参じた「安西景益」は、安房国の住人で、幼少時の頼朝に仕えていたという。
道路と砂浜の間に「源頼朝上陸の碑」が
「竜島」は、昔、島。北端の富津市との境に霊場で知られる鋸山がある。
南端には浦賀水道に突き出た西ヶ崎、海岸線は起伏に富んでおり、保田、勝山などの漁港、又勝山沖には浮島などの島、岩礁も多い。
内陸の山間部は房総丘陵の一部を形作っている。
勝山海水浴場は、入り江の奥にある静かな砂浜と小さな島が並ん人気がある。
昔は「竜島」で小さな島であった。
次回は、鋸山山頂と日本寺へ。
県南西部内房海岸、1959年鋸南町に、江戸時代は、酒井氏(12000石)の城下町、浮島周辺は、「南房総国定公園」の一部でハマチの養殖と漁業基地でもある。
JR勝山駅は、上り、君津・木更津・五井・蘇我・千葉・東京方面と下り、館山・千倉・安房鴨川方面で千葉駅から74・6Kmの位置にある。
参考までに、東京駅ー館山 高速バスは、約2時間少々、館山から千葉駅までJR内房線は、約2時間で、ほぼ同じ。
源平合戦の頃の1180年、対岸の小田原で「石橋山の戦い」があり、源頼朝は大敗し、船で安房まで逃げてきて、たどり着いたのがこの地
その上陸したところの近くにあった城が「勝山城」で、そこの城主を頼ったという。(大黒山展望台では?)
勝山駅前 駅前から見る 大黒山展望台
浦賀水道に面した勝山は良港地。
戦国時代、港を見下ろす八幡山に内房正木氏の勝山城が築かれており、戦国大名里見氏のもとで水軍の拠点となっている。
1590年の小田原征伐ののち、里見義康に安房一国9万2000石が安堵され、1600年の関ヶ原の戦いで義康は東軍に与し、12万2000石まで加増されている(館山藩)。
1614年、義康の子・里見忠義は大久保長安事件に連座して安房国を没収され、伯耆倉吉藩に移封(実質的に流罪)され、以後、安房国は小藩や旗本領、他国の藩の飛地領によって細分化、勝山の地は、館山藩領の接収に従事した「上総国佐貫藩主内藤政長」に与えられ、
4万5000石の所領の一部となった。
1622年、内藤政長が磐城平藩に移るとその所領は分割され、内藤清政(内藤政長とは同族だが別系統)が3万石を与えられた。
清政はかつての勝山城の麓に陣屋を構え、安房勝山藩が立藩する。
しかし、清政は嗣子の無いまま1623年に早世した。弟の正勝は16歳であったが、幼少であるとして安房勝山藩は一時的に除封された。
1626年、正勝が兄の遺領のうち2万石を継承し、再度勝山に入封するが、1629年に22歳で早世する。
嫡子の重頼はまだ2歳であったために5000石に減封され、安房勝山藩は廃藩となる。
旗本となった重頼はのちに昇進して若年寄・大坂城・京都所司代の重職を歴任、大名として復帰し(摂津富田林藩)、最終的には3万3000石を領している。重頼の養子清枚は信濃高遠藩に移され、以後内藤家は幕末まで高遠藩主として続く。
「酒井家時代」内藤氏改易後、勝山一帯は若狭小浜藩主「酒井忠勝」(雅楽頭系酒井氏)の所領となる。
忠勝の長男「忠朝」は、若年寄まで務め、将来を嘱望された人物であったが、廃嫡の処分を受け、酒井家所領の市部村(現・南房総市市部)に蟄居して、この地で没している。
1668年、小浜藩主酒井忠直(忠朝の弟)は甥の忠国(忠朝の子)に対して1万石(安房国平郡内4500石、越前国敦賀郡内5500石)を分知。
忠国は安房国勝山に陣屋を構えて居所とし、ここに再び「安房勝山藩」が立藩される。
街の中の極楽寺 本堂 縁起の良い寺名
酒井家は、1万石→1万2000石。譜代ー酒井忠国、大和守。酒井忠胤、備前守。酒井忠篤、越前守。酒井忠大、大和守。酒井忠鄰、越前守。
酒井忠和、大和守。酒井忠嗣、越前守。酒井忠一、安芸守。酒井忠美、大和守。で終わり。
石橋山の戦いで敗れ、源頼朝が神奈川真鶴から逃げてここに上陸(吾妻鏡より)
海岸近くの神社、頼朝の足取りは残念ながら残されていない。
JR内房線は、海岸線を千葉方面に、館山湾、那古寺(坂東33番結寺惣納所)の船形、大房崎から富浦海岸から、夏目漱石が愛した保田海岸の間「勝山駅下車」して、源頼朝が上陸した、竜島の勝山漁港と海水浴場方面に向かう。(徒歩15分ほど)
漁村(なり手がいなく困っている) 取りたてのワカメの天日干し
「石橋山の戦い」
1180年、相模国石橋山(小田原市南西部)で、平氏方の大庭景親らが源頼朝の軍を破った戦闘である。
伊豆北条に挙兵し、同国目代の山木兼隆を討った頼朝は、ついで三浦氏の軍との合流を望み相模に進出、石橋山に布陣した。
大庭景親勢がこれを強襲、伊東祐親も背後をうかがった。
三浦の大軍との合流を阻止された頼朝勢は大敗したが、飯田家義、梶原景時など、景親の手に属しながらも内応する者があり、彼らの計らいで絶命の危機を逃れた頼朝は、箱根山中を経て土肥郷(湯河原町、真鶴町)に脱出、28日には真鶴岬から海上を安房(千葉県)に渡り、再挙を図ることになる。(小田原・真鶴編に掲載しました)
数か月前掲載(神奈川小田原・真鶴・湯河原で) 真鶴岩海岸
「吾妻鏡」は、(現代語)
治承四年(1180)九月大一日庚戌。頼朝様が上総介廣常の屋敷に行こうと言い出しました。北條時政殿始め面々はそうすべきだと云いました。安房国の安西景益は頼朝様の子供の頃に特に仲良くしていた人なので、最初に手紙を出しました。その内容は、「令旨は間違いなく従うべきなので、国衙に勤める在庁官人を同行して参上しなさい。又安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来なさい。」と
ある。
1180年、「石橋山の戦い」に敗れた源頼朝は箱根別当にかくまわれた後、真鶴町から出航。安房国平北郡猟島、ここ「竜島付近」に到着。
ここから再起を図った。頼朝上陸の碑が、竜島海岸に建立され、同地は、県の史跡に指定。
最初に頼朝のもとに参じた「安西景益」は、安房国の住人で、幼少時の頼朝に仕えていたという。
道路と砂浜の間に「源頼朝上陸の碑」が
「竜島」は、昔、島。北端の富津市との境に霊場で知られる鋸山がある。
南端には浦賀水道に突き出た西ヶ崎、海岸線は起伏に富んでおり、保田、勝山などの漁港、又勝山沖には浮島などの島、岩礁も多い。
内陸の山間部は房総丘陵の一部を形作っている。
勝山海水浴場は、入り江の奥にある静かな砂浜と小さな島が並ん人気がある。
昔は「竜島」で小さな島であった。
次回は、鋸山山頂と日本寺へ。