戦国時代の末期、1560年に「松永久秀」が多聞城を築城したことで、奈良は初めて他国の武将の支配をうけることになる。
その後は、織田信長の支配下に置かれ、興福寺の大和守護職は終わりを告げた。さらに、1585年には、豊臣秀吉の弟「秀長」が、郡山城
に入いる。秀長は、社寺領削減や奈良での商業活動の抑制などにより、興福寺などの領主的性格を弱めていく。
奈良における社寺と町人の結びつきを分断することを目指した。
「観音をただ一筋に頼みつつ不退の寺に急ぎまいらん」大和北部八十八ヶ所御詠歌。
真言律宗「不退寺」
仁明天皇御勅願所・在原朝臣業平公建立・平城天皇旧萱御所・阿保親王御菩提所。れんぎょう南都花の古寺
仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守「在原業平朝臣」の建立になる「不退寺」は、809年平城天皇御譲位の後に平城京の北東の地に
萱葺きの御殿造営した。「萱の御所」と呼称、825-880年皇子阿保親王・第五子業平朝臣が住んでいる。
在原業平朝臣建立の不退寺 南門(重文)桃山建築様式 多宝塔開扉は業平忌は、5月下旬
業平朝臣伊勢参宮のみぎり「天神大神」より御神鏡を賜り
「我れつねになんじを譲る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち御鏡なり。」
との御神勅を得て霊宝と為し、847年旧居を精舎とし自ら聖観音像を作り本尊として安置している。
父親王の菩薩をと共に、衆生済度の為に「法輪を転じて退かず」と発が願し、不退転法輪寺と号し、仁明天皇勅願所となった。
「在原業平」825-880 歌人。六歌仙三十六歌仙の一人、平城天皇の孫、官界では右近衛権中将にすぎない。
美男・放縦、恋愛の心情を和歌に詠み「伊勢物語」は、業平の行状の物語と考えられるようになった。
小野小町と好一対とされる、紀貫之は、「心あまりてことば足らず」と評している。
「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ 我身ひとつはもとの身にして」多恨の恋を歌い
「おきもせずめもせでとるをあかしては 春のものとてながめくらしつ」恋に酔って全てを忘れ去ろうとする、前者は去った女を想い、後者は
共寝の女のけだるい恋である。業平を題材に説話・謠曲・舞踊・絵画・浮世絵と多い。
大和北部88ヶ所 御詠歌ー観音をただ一筋に頼みつつ・不退の寺に急ぎまいらん
南門-鎌倉時代末期、1317年の建立で、切妻造・本瓦葺。冠木上には笈形調の装飾が見られる。1934年の修理時、多くの墨書銘が確認された。
本堂-南北朝時代から室町時代前期の建立。
正面5間、側面4間。寄棟造・本瓦葺。正面3間、側面2間の身舎の周囲に1間の庇をめぐらした(三間四面)古代以来の平面形式をもつが、堂内に入ると、奥の内陣と手前の外陣(礼堂)に区画された中世仏堂に一般的な形式となっている。
正面と背面の頭貫は、中央の柱間の部分のみ、ゆるいカーブを付けて虹梁形としており、この形式の早い例とされる。
多宝塔-鎌倉時代のもの。現状は宝形造単層の仏堂にみえるが、元は二層の多宝塔であった。「大和名所図会」によれば、寛政年間には檜皮葺きの上層部があったが、江戸時代末期か明治時代初期に取り払われ、現在は初層のみが残っている。
木造聖観世音菩薩立像-本堂安置。
寺伝に在原業平の作というが、様式的には平安時代中期、11世紀頃の作と思われる。
一木彫で、胡粉地に極彩装飾を施す。右腕、左腕の肘から先、足先などは後補である。
木造五大明王像-本堂安置。不動明王像と他の四明王像(降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)とでは作風が異なり、前者は鎌倉時代後期、後者は平安時代後期の作である。
五大明王像は激しい忿怒の相を表すのが一般的だが、不退寺像は表情、ポーズともに穏やかにつくられている。
舎利厨子-奈良国立博物館に寄託。厨子内に安置されていた五輪塔形舎利容器は1952年に盗難に遭って行方不明。
阿保親王坐像-奈良県指定文化財。鎌倉時代作。 石棺-5世紀のもの。ウワナベ古墳付近にて発掘されたもの。庫裏北側に置かれている。
多宝塔(重要文化財) 石棺「5世紀・石材砂岩の一種で草刈の鎌を研伊だと云う」
「狭岡神社」
狭穂姫の母は、沙本之大闇見戸売、父は日子坐王。狭穂姫は、母の所領が狭穂の丘陵にあったので、幼少から成人するまで母と住んでいた。
若い垂仁天皇と、この泉のほとりで恋のロマンスが生まれて垂仁天皇の皇后狭穂姫は反逆の兄上に殉じられた故か、陵碑はどこにも現存しない。狭岡神社の「洗濯池」「鏡池」の伝説は、貴重な存在で、碑は現在常陸神社にある。
佐保、狭岡の地名の起因は、万葉集に「佐保・佐保山・佐保川・佐保の内・佐保道・佐保風」等の語が出ており、
「佐保」は、法蓮から法華寺に至る一条通り一帯を指している。
この地名の起因は、「開化天皇の皇女、狭穂比売(第十一代垂仁天皇の皇后)の住んでいた土地なり」との伝説もある。
その狭穂比売は、古事記に佐波遅比売・沙本毘売、日本書紀では狭穂姫と表されている。
これが万葉仮名になおされた時は狭穂姫となし、現在の「佐保」の地名になったといわれている。
又一説では、「狭岡」とは、「佐保の丘」という語から『ホ』が欠落し、「サオカ」となったとも云われている。
雑木林に囲まれた静かな「狭岡神社」 万葉時代の人々が
祭神ー若山咋ノ神 若年ノ神 若沙那賣ノ神 彌豆麻岐ノ神 夏高津日ノ神 秋比賣ノ神 久久年ノ神 久久紀若室葛根ノ神。
狭岡神社は、715年 藤原不比等(淡海公)が、国家鎮護、藤原氏繁栄のため勅許により己のが邸宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀し崇拝。これが佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神となって、今の「狭岡神社」になった。
地元では、「菅原天神の隠居」と呼ぶ。藤原氏鎮座地で、715年 藤原不比等自分の邸宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀途し、藤原房前の邸宅があつたとされる「今昔物語」。
舞舞台 狛犬
「漢国神社」
祭神、園神として大物主命、韓神として大己貴命・少彦名命を祀る。
延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝えている。
歴史は、推古天皇元年(593年)、勅命により大神君白堤が園神を祀ったのに始まると伝える。
その後、養老元年(717年)、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したという。
かつては春日率川坂岡社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える。
859年、平安京内の宮内省に、漢国神社の祭神を勧請し、皇室の守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾していると云う。
冬のつるべ落とし、まだ16時。
尼寺「興福院」、山号 法蓮山、浄土宗、本尊ー阿弥陀如来。
創建は複数の説、(中世以前の沿革はあまり明らかでないという。)
添上郡興福院村(平城京の右京四条二坊、現在の近鉄尼ヶ辻駅近く)にあり、現在地に移ったのは近世。
創建について、寺伝では、749 - 757年、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したという。
「七大寺日記」1106年には、藤原百川が創建した興福尼院が前身とされ、護国寺本「諸寺縁起集」には、770年、藤原広嗣の妻・輪立氏の発願で創建されたとある。
本尊は薬師如来であった。前述の和気清麻呂を開基とする説は、和気氏が設立した学問所を弘文院と称したことから出たものと推測。
寺は、衰退していたが、安土桃山時代に大和大納言豊臣秀長から寺領200石の寄進を受け、復興した。寛永13年には 徳川家光から再び寺領200石を寄進される。
現在残る本堂、客殿、大門はこの頃の建立である。徳川家綱代の(1665年)に現在地の法蓮町に移転した。
第2世の尼僧は、元大和郡山城主豊臣秀長の未亡人。3代徳川家光から14代徳川家茂までの将軍の位牌をまつっていると云う。
尼寺「興福院」
文化財は、本堂・南門の他、 客殿・ 木心乾漆阿弥陀三尊像 - 当寺の本尊。奈良時代の作。ただし、表面の漆箔は新しいもの。
中尊の印相は奈良時代の阿弥陀像に多くみられる説法印であり、脇侍の観音菩薩像・勢至菩薩像はそれぞれ片脚(本尊から見て外側の脚)を踏み下げるが、これも奈良時代の三尊像に多くみられる形式である。
この三尊像は、近世の復興時に当院の本尊として迎えられたものと推定され、当初どこの寺院にあったものかは明らかでない。
刺繍袱紗31枚 -徳川綱吉の側室・瑞春院の寄進。縦横とも50cmほどの大きさがあり、盆などに掛ける掛袱紗である。
絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図・ 古葉略類聚鈔等多数。
尼寺の為、中には入れない。
城塀と風格ある楼門 (市内バスで奈良駅へ)
次回は、JR桜井線で三輪方面へ。