「持統天皇」645-702 冷酷な独裁女帝、41代天皇(天智天皇の皇后)、中央集権強化・律令を整える専制権力を握る。
持統天皇の子・草壁皇子は頼りにならず早く亡くなるため、孫の文武天皇が皇位を継ぐ。
「行信」奈良時代の僧。
738年律師に任じられ、この頃から法隆寺東院の復興に尽力する。
748年大僧都として諸寺資材帳に署名している。750年に没したという所伝があるが、その後も生存していたことを示す資料もあり、
754年 厭魅(まじないで呪い殺す)の罪により下野薬師寺に左遷された薬師寺の行信と同一人物と見る説もある。
没後に完成した神護景雲元年(=767年)九月の跋(あとがき)を持つ「行信発願経」が法隆寺に残されている。
現在の寺境内は、西院伽藍・東院伽藍に分けられ、周囲に10余りの塔頭がある。西院伽藍の建造物の多くは7世紀後半で、東院伽藍は、739年に僧「行信」によって斑鳩宮跡に建立された。
蘇我入鹿に焼かれた斑鳩宮跡の東院、太子の子孫「山背大兄王一族は最期を。



西院伽藍は、南大門・客殿・大湯屋・三経院・西室・西円堂・薬師坊・地蔵堂・中門・金堂・五重塔・回廊・経堂・大講堂
鐘楼・上御堂・東室・聖霊院・妻室・網封蔵・食堂・細殿・若草伽藍塔心礎・東門。
東院伽藍は、南門・礼堂・夢殿・回廊・舎利殿・絵殿・伝法堂・鐘楼・太子殿。
四脚門ー夢殿ー回廊ー伝法堂ー鐘楼ー表門ー中宮寺、「東院」


「藤ノ木古墳」は、寺の西南で、藤ノ木にある「後期古墳」で、直径40m・高さ8m大型円墳、石棺周辺から、大量の馬具類・武具類
出土している。石棺から成人男子二体の人骨を確認している。
太刀・剣・副装飾品と近くの「陵」から天皇か皇子と考えられていると云う。
「法隆寺」創建は、推古天皇7(599)・15・21年の記録がある。寺領も太子が605-622年政務をとった斑鳩宮の西にあったと云う説。
また、「日本書紀」に全焼したとある。再建設・非再建設の論争がある。
金堂礎石に焼けた跡が見られたことなどで再建設が有力になっている。元は、現在の伽藍やや南東で若草伽藍跡で、そこには、塔と金堂が
一直線上に並び四天王寺式伽藍配置が見られ、斑鳩宮跡の方位と一致。
木造建物はほぼ国宝、五重塔は日本最古・金堂の釈迦三尊像・薬師如来坐像・吉祥天立像・夢殿の本尊の救世観音・大宝蔵殿百済観音
玉虫厨子等の飛鳥美術が多数残されている。世界文化遺産リストに登録された。
夢殿最古の八角円堂(天平)・救世観音(飛鳥)東院本尊聖徳太子の等身像・伝法堂は奈良時代の住宅を改装したと云う。



「中宮寺」は、法隆寺東にある聖徳宗の門跡尼寺。山号 法興山、本尊ー木造菩薩半跏像・国宝 天寿国繍帳
596年聖徳太子が母穴穂部間人皇女「用明天皇皇后」の為に建てた中宮で、母、没後寺院に。元は、現在地の東方500mに、旧殿・夫台
赤門・西門などに「小字名」が残っている。
中宮寺池は変わっていない。斑鳩宮・岡本宮・葦垣宮の中央にあったと云う。ここも四天王寺式伽藍配置が明らかになった。
「行信僧都像」は、太子を思慕し、東院再興に力を尽くした僧・「道詮律師像」は、平安、行信が復興したがまた荒廃、それを又復興


3月22日―24日「お会式」は、米粉でつくる鳥・花を供え 聖徳太子を賛嘆する。5-8月 「夏安居」などがある。
「中宮寺」太子の御母「間入皇后」願いの尼寺、大和三門跡寺院の一つ、本尊弥勒菩薩(飛鳥)など。



これで奈良大和路は終了、次回は、紀ノ川和歌山へ。