「法隆寺駅」は、奈良県生駒郡斑鳩町興留にある、JR西日本・関西本線の駅。
大和路線の愛称区間に含まれ、斑鳩町の代表駅で、「世界遺産」の1つである「法隆寺」の玄関にあたる駅を下車。
「斑鳩の里」は、日本仏教発祥地、聖徳太子ゆかりの地でもある。日本人の聖地でもある。時間があれば法隆寺から旧道を西へ出て
竜田神社の街並みと予定していたが悪天候で雪。
日本人の聖地「斑鳩の里」・聖徳太子ゆかりの地・古道滝田越え・JR関西本線「法隆寺駅」下車
聖武天皇の729~749年に、最も繁栄した文化、「天平文化」の特色は、 唐の文化の影響を受けた国際色豊かな文化である。
鎮護国家思想に基づく仏教文化で、国史の 「古事記」・「日本書紀」。地誌の「風土記」、諸国の地理・伝説・産物を記述。
文学 「万葉集」、東歌や防人の歌を含め約4,500首を収めた歌集。 万葉がなを使用。歌人は,山上憶良・山部赤人・大伴家持など。
建築は、 東大寺法華堂(三月堂)・正倉院(校倉造)・唐招提寺金堂・法隆寺夢殿 ・ 正倉院の宝物の中國・東ロ-マ・イスラム・インドの影響
した時代であった。
「聖徳宗・法隆寺」日本初の世界遺産。
国道25号線から南大門への松並木、ナゾの寺創建・建築年代・聖徳太子などなど、が、最古の木造建築と古代寺院「法隆寺」。
「用明天皇」587年没、31代天皇、欽明天皇庶子・母蘇我稲目、蘇我氏後ろ楯によって王位の為、物部氏や中臣が反発していた。
「聖徳太子」574-622用明天皇の皇子、推古朝の摂政、大王補佐役、太子の伯父崇峻天皇暗殺、日本最古の女帝「推古天皇誕生」
「推古天皇」554-628 33代天皇欽明天皇の王女、聖徳太子と仏教復興に努める、夫敏達天皇とは、墓が別(夫婦仲悪かったと云う)
聖徳太子の謎・時期天皇の最有力候補なのに即位は、推古天皇。その間は空白がある。(修業期間説が定説)、崇峻天皇暗殺の黒幕は、
推古女帝の陰謀、太子の汚名を着せた説、太子はノイローゼ・伊予温泉療養説。推古天皇75歳の長寿・太子49歳で世を去っている。
太子の死亡は、自殺説・他殺説・病死説いろいろ言われているが。
太子の霊は、慰められることなく怨霊、その鎮魂のために「法隆寺」が再建されたと云う。「夢殿」は太子が仏典の勉強した堂。
役人の身分を色分けそいた「冠位十二階」制定。「憲法十七条、和ヲ以テ貴シト為ス、、、」をつくる。
「年代」
701 大宝元年 702 大宝2年 ・703 大宝3年 704 大宝4年/慶雲元年 ・705 慶雲2年 706 慶雲3年・707 慶雲4年 708 慶雲5年/和銅元年
709 和銅2年 710 和銅3年・711 和銅4年 712 和銅5年・713 和銅6年 714 和銅7年・715 和銅8年/霊亀元年 716 霊亀2年
717 霊亀3年/養老元年 718 養老2年・719 養老3年 720 養老4年・721 養老5年 722 養老6年・723 養老7年 724 養老8年/神亀元年
725 神亀2年 726 神亀3年 ・727 神亀4年 728 神亀5年・729 神亀6年/天平元年 730 天平2年・731 天平3年、、、、、。
中門・塔・金堂・講堂・経堂・上御堂・地蔵堂・鐘楼・僧坊湯屋とその配置・学問寺の機能、、、、。拝観料¥500.
現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。
太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。
太子の実在・非実在によらず、7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。
607年推古天皇・聖徳太子の創建。法学問寺・仏法研究の道場「法隆寺」、伽藍は、五重塔・金堂のある西院を法隆寺
法隆寺の創建が7世紀前半の太子在世時に遡ることは、発掘調査の結果等からも明らか、643年、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に斑鳩宮は焼失したが、法隆寺はこの時は無事だったと考えられると云う。
日本書紀に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という記事がある。この記事の真偽をめぐって、現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子創建時のものであるとする説と、670年に全焼した後、再建したものであるとする説とが鋭く対立し、いわゆる「再建・非再建論争」が起きた。
発掘調査や建築用材の伐採年代の科学的調査などの裏付けから、現存する法隆寺西院伽藍は一度焼失した後に再建されたものであるということは定説となっている。
643年の上宮王家(聖徳太子の家)滅亡後、誰が西院伽藍を再建したのかなど、再建の正確な時期や経緯については謎も多い。
焼失前の旧伽藍(いわゆる「若草伽藍」)は、現存の西院伽藍の位置ではなく、かなり南東寄りに位置していた。また、現存の西院伽藍がほぼ南北方向の中軸線に沿って建てられているのに対し、旧伽藍の中軸線はかなり北西方向に傾斜している。
現・西院伽藍の建つ土地は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地したものであることがわかっており、なぜ、大規模な土木工事を行ってまで伽藍の位置や方位を変更したのかは定かでないと云う。
夢殿のある東院は、聖徳太子斑鳩宮で天平時代のもの、総門南大門と左右の築地塀は、室町時代で、中門は、飛鳥時代。
西院伽藍の建築を見ると、細部の様式などから、金堂がもっとも年代が上がり、五重塔がそれに続き、中門、回廊はやや遅れての建築。
「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」によれば、中門の仁王像や五重塔初層安置の塑造彫刻群は、711年の製作とあり、この頃には西院伽藍全体が完成していたと考えられる。
平安時代に書かれた「七大寺年表」には和銅年間に法隆寺が建てられた、とある。
一方、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、738年頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものであると云う。
塔・金堂の柱は、安定感と美がある卍くずし組勾欄は、中国北魏にさかのぼる古式で、中央に釈迦三尊右に本尊薬師如来が。
1950年、 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く。1985年(昭和60年) 昭和の大修理完成。 1993年(平成5年) ユネスコの世界遺産に登録。
五重塔飛鳥時代で最古、中に釈迦の物語四面像が、百済観音飛鳥時代は、美しい長身の仏像で知られている。
「法隆寺」は、仏教美術の集大成と言え、我が国において、飛鳥時代から鎌倉時代にかけて、美術と言えば仏教に関するものが多く、埴輪から仏像、古墳から寺院、ことに掘っ建て柱に茅葺きの家屋が一般的だった建物の時代に、五重塔の建立などの大変革は仏教の力なくしては不可能。 しかも寺院に納められている仏像・仏具の殆どが、飛鳥・白鳳・天平時代の作だけでは世界最古の建築群である七堂伽藍のすべてが、国宝に指定されており、古建築のすべてが学べる東南アジアで唯一の殿堂である。日本の国宝の数多くを、この法隆寺が所蔵しており、文化財の比類なき宝庫の寺院。
現在では、建物・仏像・仏具など彩色の退色やメッキの剥落によりかえって落ち着いた、奥ゆかしさが感じられ、無彩色の埴輪や素木の文化を好む我々日本人には、やすらぎと感動を与えてくれます。
約1300年もの風雪に耐えて聳え立つ五重塔をヒントにして、現代の超高層ビルが柔構造で建築されていることを考えますと、古代人の偉大さには驚かされます。
南大門ー中門ー金堂・五重塔・大講堂・回廊ー聖霊院ー大宝蔵院ー東大門ー四脚門へ。
法隆寺、南門・五重塔・西院伽藍から東門へ中宮寺へ。