syuの日記・気まま旅

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山辺の道、景行・崇神天皇上陵

2014-03-16 | 気まま旅

大和朝廷は、3世紀末から奈良盆地の東南部に生まれ、それは、当初は、三輪山の神を祀り、亡くなった天皇を葬る「古墳」を神聖視する
神権政治を行った。地方の首長との間に主従関係を広めていった。
6世紀に入り「大和朝廷」の全国支配が確立してくる。

7世紀「聖徳太子」のもとで中央集権化がすすめられ「律令制度」に繋がっていく。
しかし、本格的な中央政権が地方把握し始めたのは、10世紀で「寄進地系荘園」となっていく。
奈良時代の記録は、大和朝廷で「古事記」「日本書紀」と伝説で、「続日本紀」になるとおおむね間違いない記録と評価されている。

「神武天皇」大和朝廷開祖天皇一代、長髄彦を討って朝廷を興す。
神武天皇が大和に入り豪族を討つが、興味深いのは、手足の長い土蜘蛛と呼ばれる賊で、天皇の軍勢は、カツラでつくった網で、賊を捕え
殺し、葛城氏が拠った「葛城」の地名がある。神武天皇は、「橿原神宮」に祀られている。

巨大古墳(墳丘長160m以上)、大和古墳群の西殿塚古墳(衾田陵)、柳本古墳群 の行燈山古墳(崇神陵)と渋谷向山古墳(景行陵)、箸中古墳群の箸墓古墳(大市墓)が、古代倭の大王・豪族は、三輪山山麓地帯に3世紀後半頃から、、、。
  

「景行天皇」伝説は多い、その一つ、「景行天皇のクマソ征伐」。
第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向に滞在したと記され、次の話が伝えられている。

~ある年、九州南部に住むクマソの一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しません、景行天皇はクマソを討つことを決め、みずから軍を引き連れ、九州へ向かい、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮」という仮の住まいを建てた。
天皇はクマソを討つ作戦を考え、「聞くところによると、クマソにはクマソタケルという強者がいるらしい。何かうまく倒す方法はないものか」すると一人の家来が進み出て言いました。
「クマソタケルには二人の娘がいます。この娘にたくさん贈り物をして味方につけましょう」、「それは良い考えだ」
天皇はそういうと、二人の娘のうち姉のイチフカヤを味方につけることに成功。 イチフカヤは言いました、「私に良い考えがあります」
イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父クマソタケルにそれを飲ませるとクマソタケルは酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。~景行天皇はミハカシヒメという美しい女性を妻に迎え、トヨクニワケノミコという名の男の子をもうけました。
トヨクニワケノミコは日向を支配した「国造」の先祖といわれています。
あるとき、天皇は児湯地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」
それでこの地方を名付けて「日向」というようになったと云う。
いろいろなことがあり、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎ、天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたという。

崇神天皇陵と考えられている行燈山古墳があり、そのすこし南側には景行天皇陵と考えられている渋谷向山古墳がある。
  

「渋谷向山古墳」古墳は、奈良県天理市渋谷町にある前方後円墳 。上の山古墳、「景行天皇陵」の陪塚い号。 全長140m・後円部径 84m・前方部の幅56mの前方後円墳 築造は古墳時代前期後半とされる。

現状の周濠・渡土堤は少なからず後世の改変を受けていると考えられるが、 渋谷向山古墳の渡土堤のうち、いくつかが古墳造営当初のものと調査の結果判明している。

  

「崇神天皇」生没年不詳 三輪山の祭りを始めた10代天皇。
この時代は大和朝廷勢力は大幅に伸び「四道将軍」と呼ばれ武将を四方に送り、朝廷の領域を広げたのは崇神天皇で、「三輪山の祭り」
が始まっている。
祭りの始まりは、大和に疫病が広まったと云われ、天皇が天地の神々を祭り、三輪山の神が神託を下した。自分を祭れは疫病を鎮めると云うのだ。神託に従うと、疫病は治まったと云う。三輪山の「大物主神」は、出雲の大国主命と同一の神であるとされている。
崇神天皇は、実在が確実な最初の大王ではないかと云う歴史家が多い。

  

「行燈山古墳」は、天理市柳本町に所在する古墳時代前期の前方後円墳。

古墳は、龍王山の斜面の先端を利用して造られており、平野の方に前方部を北西に向けている。
後円部がより高い山側にある。 三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。
その政治勢力は、三輪王朝とか初瀬王朝と呼ばれている。初期ヤマト政権の大王陵である。
幕末の文久の修陵の開始時には、本古墳が景行陵だったのが、修陵事業の完成直前の1865年に、崇神陵に取り替えられた。
宮内庁の管轄する古墳であるので、研究者や国民は、自由に立ち入りできない。

  

やまと集落と山辺の道

この道は奈良から石上・布留(天理市)を経て三輪(桜井市)に通じていたとみられる。
弥生時代後期には、布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道であったとも推測される。その全長は約35kmであるが、その南部に古道の痕跡や景観が残り、現在一般的にハイキングコースとして親しまれるのは天理市の石上神宮から桜井市の大神神社付近までの約15kmの行程で、その多くは東海自然歩道となっている。
山の辺の道は、山林、集落、田畑の間を縫うように通って、田畑の間を抜ける際にはその眼下に奈良盆地が大きく開けており、生駒山や二上山、葛城・金剛の連嶺を背景にした大和三山なども遠望できる。今は冬、数人の人とすれ違っただけで静かな歩道であった。

山の辺道を折れ「柳本駅」に向かった。雨は一段と強くなる。

  

「櫛山古墳」は、天理市の南部、柳本町から渋谷町にかけて行灯山古墳と渋谷向山古墳を中心に大型前方後円墳が多数造られている。
考古学ではこの地域の古墳を総称して、柳本古墳群と呼んでいる。
櫛山古墳は全長160mの大型古墳で、三角縁神獣鏡を多数出土した黒塚古墳とともに柳本古墳群を代表する古墳の一つに数えられている。

古墳が築かれた年代は、4世紀後半、すなわち古墳時代前期と推測されている。古墳の形は、埋葬設備を構築した中円部の西側に前方部、東側に後方部を築いた特徴ある墳形である。考古学では前方後円墳と区別し、双方中円形の古墳という。

1948年から復旧を兼ねて発掘調査が行われた。発掘の結果、中円部に竪穴式の石室、その中央に長持形石棺が置かれていて、石棺は、下半分が石室床面に穴を掘って埋められていたことがわかった。
さらに、後方部では、白い礫を敷き詰めた遺構が見つかった。
遺稿は、南北5m、東西3.4mの土坑で、礫の下に朱の砂が敷き詰めてあった。多数の鍬形石や車輪石、石釧、土製品や土師器片などがこの遺稿から出土したが、完全な形をしたものは一つもなかった。そのため遺構は古墳の墓前祭に使われ、祭式後に祭具などを壊して埋めたものと考えられている。

  

古墳の「柳本村」は、上街道沿いの村落で、古代・中世には楊本庄があり、楊本氏が柳本城を構えた。
大和でも有数の大村であった。

1600年 織田有楽斎の所領となり、1615年 有楽斎の所領三万石を分地し、一万石を四男長政(戒重藩)、一万石を五男尚長(柳本藩)に与えときから柳本村は尚長の所領とる。
尚長は初め大泉村(現桜井市)に住んだが、1624~44年に柳本城旧地を接収して陣屋を構えて本拠とした。
上街道の東、柳本小学校近くの伊射奈岐神社西北の地が城跡である。
中世には楊本氏が柳本城を構えたが、1573~92年に廃城になり、そこが「をくやしき」と呼ばれ、百姓が住みだしたが、その地を尚長が、住んでいた農民に街道筋の替地を与えて接収し、そこに陣屋を構え、柳本藩一万石の本拠地として、そのまま明治維新を迎えたと云う。

  

「黒塚古墳」は、天理市JR柳本駅に近く、3世紀末頃 前方後円墳。(33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名。)

古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群に属し、台地の縁辺部に立地している。
最初に発掘調査が行われたのは1961年の事前調査であり、後世に城郭として利用されたことがこの時分かった。
1989年、周囲の池の護岸工事の事前調査が行われ、1997年から翌年にかけて学術調査が奈良県立橿原考古学研究所によって行われ、
規模と墳形が明らかになった。

全長約130mの前方後円墳で、後円部径約72メートル、高さ約11メートル、前方部長さ約48メートル、高さや6メートル、後円部3段、前方部2段で前方部と後円部の落差が大きい。前方部正面にわずかな弧状のふくらみが見られ撥形であることが分かる。
これらは、前期古墳の特徴である。周濠を持っている。葺石や埴輪は確認されていない。

  

次回は、長岳寺・柳本町へ、山辺道は終わります。