syuの日記・気まま旅

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山の辺 万葉の歌碑 

2014-03-12 | 気まま旅
「三気大神神社」というのがあったので、参拝しようと正面に。
しかし門が閉まって、防犯カメラが睨む、一般的な神社らしい形もしていないように見えた。
横手に回りこむと拝所があったが、横手に回りこむと拝所があったが、これもまたまったく神社らしくない。

調べると、三気大神というのは、「清気精気正気 気ノ源ノ神様」、「純粋な心で自然十神に抱かれて金金満満と暮し、毒気嫌気貪気虚仮の行すまじきこと、まず其の心ずかいを修行いたせ」とある。参拝。

山の辺の道は、面白い                  立派な門構えだけの神社
  

「万葉集」は、奈良仁徳期~淳仁期に、皇族・貴族・遊女・乞食までの階層にわたり全国の4500首和歌が集められている。
特に、柿本人麻呂・額田王・山部赤人・山上憶良・大伴旅人・家持などが知られている。

うま酒三輪の山青丹よし奈良の山の山のまにい隠るまで道のくまいさかるまでに つばらにも見つつ行かむをしばしばも見さけむ山を心なく雲の隠さふべしや「巻1~17 額田王 中河 與一」

長歌 なつかしい三輪山よ。この山が奈良の山々の間に隠れてしまうまで、また行く道の曲がり角が幾つも幾つも後ろに積もり重なるまで、充分に眺めていきたい山であるものを、たびたび振り返っても見たい山であるものを、無情にもあんなに雲が隠してしまっていいものだろうか。
反歌 三輪山をしかもかくすか雲だにも心あらなむかくさふべしや 「巻1~18 額田王 中河 與一」
反歌 名残惜しい三輪山をどうして雲があんなに隠すのか。人はともかく、せめて雲だけでもやさしい情があってほしい。あんなに隠すべきであろうか。

古代の大和では、三輪山を自分たちの住む大和を代表する神がいる山として祀(まつ)っていた。邪馬台国の中心部ではないかといわれるようになってきた巻向(まきむく)遺跡も三輪山の麓(ふもと)にある。三輪山は奈良平野の南部(中和地域)に住む人びとにとって、故郷のシンボルだったといえる。

           井寺池や川端康成歌碑や古池、畑に万葉の歌碑が点在している。
  

「額田 王」女流歌人、6~7世紀、鏡王の娘、天武天皇(大海人皇子)の后の一人のなり十市皇女を生んでいる。
その後、天智天皇(中大兄皇子)の愛を受けたと云う。十市皇女は、大友皇子の妻になっている。持統朝初期まで生きていたと云う。
「万葉集」の額田王に関する記事は、「額田物語」として伝わるものと云う。
天智・天武天皇兄弟が争ったのは事実、額田王の孫は、天武天皇の元で育ち、官人として活躍したと云う。

「柿本人麻呂」7世紀末の「万葉集」代表歌人。春日氏の同族柿本氏と云う名門に産まれている。宮廷奉仕歌人皇子・皇女のために多くの
和歌を残している。八十八首、平安朝の歌人たちは人麻呂を和歌の神として祭った。
大友皇子に仕えて「壬申の乱」で失脚し、流されたのではないかと云う説がある。経歴は、ほとんど不明と云う。

額田王が、近江に下向するにあたって、この三輪山を歌った有名な歌が、「 味酒三輪の山あをによし奈良の山の.......(長歌)」
この歌は、奈良山から三輪山を見て歌った歌である。奈良山から見る三輪山は、小さくしか見えないうえに、背後の多武峰の山系が保護色となって、少しでも靄がかかると見えなくなる。
それでも、やはり三輪山を奈良山でもう一度見て旅立ちたいのだ。なぜならば、奈良山を越えて北に進めば、もう三輪山は見えないのである。

歌の大意は「あの三輪山を、奈良の山の向こうに隠れるまで、道の曲がり角が幾重にも重なるまで、心ゆくまで見つづけてゆきたいのに、何度も何度も眺めてゆきたいのに、つれなく雲が隠している」というものだ。雲よ退いてくれ、私は三輪山を見たい、と彼女は訴えているのである。
反歌では、その思いの深さがさらに凝縮される。「三輪山をそんなにも隠してしまうのか、せめて雲だけでも私の気持ちをくみとる心があってほしい、隠したりしてよいものかと額田王は叫ぶ。

これは、この奈良山を越えてしまうと、三輪山が見えなくなってしまうからである。人には、誰でも心にとどめておきたい景色というものがある。遠くに旅立つ日に、もう一度見ておきたいと思う景色がある。三輪山こそ、額田王の心のふるさとの山だったのであろう。
額田王の万葉歌碑は、山の辺の道の渋谷向山古墳(景行天皇陵に比定)の南から桜井方面に行く途中にある。

香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき。
    

あまくもに ちかくひかりて なるかみの  みればかしこ みねばかなしも
「天雲の近くで光って鳴る雷のように、あの方にお逢いすれば恐れ多くて近寄れず、お逢いしなければ悲しいのです。」作者不明
 
巻向 の桧原も未だ 雲いねば 小松が末ゆ 淡雪流る
「巻向の桧の原にもまだ雲がかかっていないのに松の枝先を沫(泡)雪が流れるように降っている。」柿本人麻呂

「大和は国のまほろばたたなづく青垣山ごもれる大和し美し」 古事記 倭建命 川端康成 ・桧原井寺池湖畔
  

あしひきの 山川の瀬の なるなべに 弓月が嶽に 雲立ち渡る
「山から流れ落ちてくる川の瀬の音が高くなりひびくにつれて、弓月嶽には一面に雲が立ち渡ってゆく。」柿本人麻呂 

あしひきの 山かも 高き 巻向の 岸の小松にみ 雪降りけり
「おや、巻向川の川岸の小松に雪が降ってくる。このあたりは巻向山の山裾で、平地に比べて高いせいなのだろう。」
 
十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の御作歌三首
三諸の.神の神杉.夢にだに.見むとすれども.寝ねぬ夜ぞ多き 。 三輪山の.山辺真麻木綿.短木綿.かくのみ故に.長しと思いき。
山振の.立ち儀ひたる.山清水.水酌みに行かめど.道の知らなく。

「三輪の山の神杉を見るように、夢にだけでもあなたを見ようとするのに、あなたを失った悲しみに眠れない夜が多い。」
「三輪山の山の辺にある真麻の木綿が短いように、あなたの生命も短かったのに、私は長いものだと思っていました。」
「黄色い山吹の花が彩る山の清水(=黄泉を指す)を汲みに行こう、黄泉の国にあなたを訪ねて行こうと思うが、道が分からない。」
  

三諸の その山なみに 子らが手を 巻向山は つぎの
「三輪山の山の並びに巻向山があるが、その並び方がまことによい。」柿本人麻呂 山の辺の道

所々に猪の檻の仕掛けが、
    

三輪山の  山辺真麻まそ木綿ゆふ 短木綿みじかゆふ かくのみ故に 長くと思ひき 高市皇子 
「三輪山の山辺にある真麻の木綿は短いものだ。そのように命も短いものなのに、いつまでも長くつづく命だと思っていた。」
十市皇女の死を悼んだもの。桧原神社付近石碑

山辺の道に迷い下る所を登ってしまい2~3kmで戻る。雨は、止まず
  

次回も古墳の。山辺の道を。