和歌浦の時を超える万葉集の歌、万葉集の中には和歌山を旅した歌が107首あり、和歌浦を始め万葉和歌に詠まれた地名が今に伝わっています。数ある県内の万葉ゆかりの地で、特に歌人や多くの旅人に景勝の地として、親しまれ、愛されてきた和歌浦。
国定文化財「名勝、養翠園・湊御殿」
養翠園は、文政元年(1818)から8年かけて、10代藩主徳川治宝が造営した西浜御殿の別邸で、 徳川中期の代表的な武家庭園ともいわれる
池泉回遊式庭園となっている。
数寄屋造りの養翠亭や表千家の茶室も風情があり、菖蒲の季節は特に彩りが鮮やか。
国指定名勝・元紀州徳川家庭園 「養翆園」
「徳川 治宝」
紀伊国紀州藩主・紀州徳川家、父 徳川重倫、母 澄清院、養父 徳川治貞、兄弟ー彌之助、治宝、妻ー正室:種姫(将軍徳川家治養女、徳川宗武の娘)、-鍇姫(初め徳川虎千代、後に伊達斉宗正室)、喬姫、某、佶姫、 鶴樹院(徳川斉順正室)、鎗姫、富姫、万須姫
養子 徳川虎千代、徳川斉順
1771年、第8代藩主・徳川重倫の次男として生まれ、1775年に重倫が隠居すると、子である岩千代(治宝)はまだ幼少であったため、成長するまでの中継ぎとして、重倫の叔父(岩千代の大叔父)である松平頼淳改め徳川治貞が第9代藩主に、1777年には治貞の養嗣子という形をとって次の藩主になることを約束され、1782年には元服、治貞同様、将軍徳川家治の偏諱を賜って治宝(治寶)に改名し、
従四位下常陸介に叙任。1783年には、従三位に昇叙し、右近衛権中将に転任。
1789年、治貞が亡くなったのに伴って第10代目の藩主に就任した。
植え込み樹木と松を主に約33000m2大名庭園海水を取り入れている「汐入の池」珍しい。
学問好きで知られた「治宝」は、紀州藩士の子弟の教育を義務化し、藩都和歌山城下には医学館を、江戸赤坂紀州藩邸には明教館を、松坂城下には学問所を開設するなどした。
これら藩校の蔵書は現在は紀州藩文庫に保管されている。
「治宝」の祖母清信院は、賀茂真淵の門人であり、本居宣長は、清信院の屋敷であった吹上御殿で講釈も行なっている。
国学者・本居宣長を召し出し、松坂城下に住まわせたことは有名である。
あやめ池・四季折々の花木 守護神・茶屋・廊下貴重な遺構 整備された遊歩道
嘉永5年(1852年)12月7日、逝去した。享年82(満81歳没)。
紀州藩主としての治世は34年6か月であり、この間の江戸参府13回、紀州帰国14回、紀州在国の通算は15年10か月であった。
更に隠居期間が28年6か月あり、この間の江戸参府と紀州帰国はなかったと云う。
55・5万石の大藩 大浦湾に通じてる船蔵、治宝公は船で出入、 良く保存された 「養翆亭」
NHK大河ドラマ「吉宗」は、ここが舞台に使われている。
治宝の家臣達、文政元年の武鑑家臣は、「家老」など、 安藤帯刀、水野飛騨守、三浦長門守、久野伊織、水野対馬守、村上伊予守、伊達但馬守、加納大隅守、水野太郎作、村松郷右衛門、金森孫右衛門、山本理左衛門、下条伊兵衛、山高庄右衛門、山中作右衛門、渡辺主水等の名が。
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この狭日鹿の浦は、現在の和歌山市街の南部、天神山北方の西浜一帯から、雑賀崎にかけての海のことをさしている。
その雑賀崎から西、鼻のように突き出て見えるのが、文字通り「番所ノ鼻」。
藩政時代、黒船の見張り番所が置かれていたところ。予定したが回れず残念である。
奈良・和歌山市の旅も残す一つ、竈山神社で終了します。