syuの日記・気まま旅

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旧鎌倉街道  国分寺 尼寺

2014-04-29 | syu散歩

「国分寺」は、武蔵野台地南西部。武蔵国分寺に由来している。多摩川段丘武蔵面と一部立川面に立地、段丘の間には、国分寺崖線の「ハケ」が東西
の走る。湧水の多く、崖付近は、先土器縄文遺跡が多い所。平安律令制下で国分寺建立の地と定められた地域。
江戸時代は、湧水で新田開発が進み、緑多い田園地帯であった。
1889年には、甲武鉄道(中央線)開通、国分寺駅が開設している。1897年西武電鉄も埼玉川越を結んでいる。
戦時中は、大規模な研究施設・教育機関などが出来、昭和30年頃から東京ベットタウン都市化が進んでいった。



1922年史跡に指定された「武蔵国分寺跡」は、国分寺駅から1.2km西元町にある。
寺域は、僧寺と南西500m・尼寺東西約900m・南北約550mと推定されている。

1333年新田義貞軍鎌倉攻めの際に焼失。

    

「鎌倉街道」相模国鎌倉と各地を結んだ街道。
12世紀に鎌倉幕府の開設に伴い、関東各地と結んだ道が何本か整備されている。主に鎌倉から「北に通じる上道」「中道」「下道」の三道。

上道は、町田・府中・埼玉県入間(狭山)・嵐山ー上州へ。中道は、横浜緑区・世田谷・埼玉県鳩ケ谷・岩槻・茨城県古河ー奥州方面へ(途中で府中)
下道は、横浜南区・品川・江戸・浅草・常陸―下総方面(現在の府中街道から町田街道なども鎌倉街道といっている)

鎌倉街道
    

「関東地方の僧寺・国分寺」

常陸國 僧寺 浄瑠璃山 國分寺・茨城県石岡市府中 。下野國 僧寺 國分寺 栃木県下野市国分寺町国分。
上野國 僧寺 國分寺 群馬県高崎市東国分。 武蔵國 僧寺 國分寺 東京都国分寺市西元町 。下総國 僧寺 國分山 國分寺 千葉県市川市国分
上総國  僧寺 真言宗 國分寺 千葉県市原市惣社町。安房國 増寺 日色山 國分寺 千葉県館山市国分 。
相模國 僧寺 東光山 國分寺 神奈川県海老名市国分南。

国分寺・国分尼寺は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院である。
正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺、国分尼寺が法華滅罪之寺。なお、壱岐や対馬には「島分寺」が建てられた。

武蔵国・国分尼寺跡
    

「続日本紀・類聚三代格」によれば、天平13年(741年)、聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出され、その内容は、
各国に七重塔を建て、金光明最勝王経と妙法蓮華経(法華経)を写経すること、自らも金字の金光明最勝王経を写し、塔ごとに納めること、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、僧寺の名は金光明四天王護国之寺、尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。
寺の財源として、僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。

国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、国庁とともにその国の最大の建築物で、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、
全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。

奈良平城京は、奈良7代70年の帝都


内裏・朝堂院(公的儀式)・官庁街・東院と4ブロック


尼寺伽藍の中枢部を構成する中門・金堂・尼坊など主要建物や区画施設である掘立柱塀を、埋没保存されているその位置で建物平面などを復元的に表示。

尼坊は柱位置が判明し、新たに石を配置してある。 
このほか、中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)もある。
金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設がある。
尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられ保存したまま、広場としいる。

出土品瓦・土器・銅などが
  

東山道は都と各国府を結ぶ古代交通路である七道の1つで、武蔵路は武蔵国府に至る往還路(東山道の支路)で、古代道路跡として学術上価値が高い。

奈良と地方のつながりが
  

全国の国分寺の中でも規模が大きく、歴史的にも重要、国指定史跡に指定されている。

  

金堂の礎や塀を見る事が出来る。

    

尼坊は柱位置が判明し、新たに石を配置してある。 
中門と金堂の間で発見された幢竿遺構(儀式などの際、周囲を荘厳するための旗などを掲げる柱跡)もある。

  

金堂では、版築という大陸伝来の工法で、周囲より一段と高く築かれた基壇の土層断面標本を観察できる施設がある。
尼坊の北側一帯の平坦部には、尼寺関連の遺構群が埋没していると考えられ保存したまま、広場としいる。
さらに北側の崖線には、伝鎌倉街道の切通しが貫通しが残り、その西側に中世の伝祥応寺跡、東側に塚跡がある。

  

8世紀の国内は、餓死、千害、地震など災害、疫病で人々は苦しんでいた時代。朝廷は、仏教の力を借りていた。

    

    

尼寺はここまで、
   

次回は、JR武蔵野線ガードを潜った「武蔵野国分寺」へ