syuの日記・気まま旅

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大垣・奥の細道むすびの地

2014-08-05 | 気まま旅
明治時代、鉄道の計画を持ち上げ、東海道経由と中山道経由の2案があり、方向性が未決定であったため、まずは流動の多い
東京 - 横浜間を支線として先行開業させた。
1872年、に新橋駅(のちの汐留駅) - 横浜駅(現在の桜木町駅)間が日本で最初の鉄道として開業。
翌年9月15日からは貨物列車の運行も開始。
関西では1874年 大阪駅 - 神戸駅間の仮開業を経て、1877年に京都駅 - 神戸駅間の営業を開始。
1880年には逢坂山経由で大津駅(現在の浜大津駅付近)まで延伸され、大津駅 - 長浜駅間には太湖汽船による琵琶湖経由の鉄道連絡船が開設された。

1883年、政府はすでに東京 - 高崎間(現在の高崎線)の建設が決まっていたことに鑑み、東京 - 大阪間幹線鉄道を中山道経由で建設することを決定。
中部地区ではこの中山道線建設のための資材輸送を目的として、現在武豊線となっている区間を含めた武豊駅 - 木曽川駅間が1886年に開業。
1884年には中山道ルートの一部として大垣駅 - 関ヶ原駅 - 長浜駅間が開業。

1886年、政府は東京 - 大阪間鉄道の予定経路を、工期が半分に抑えられるとして、工事の難航が予想された中山道経由から東海道経由に変更した。
既存路線を積極的に活用して建設予算を低減する方針から、名古屋 - 草津間は江戸時代の東海道ではなく、美濃路と中山道に沿うルートでの敷設の 
一大プロジェクトとなり、一気に建設が進んでいった。
1887年には、木曽川駅 - 加納駅(現在の岐阜駅) - 大垣駅間、横浜駅 - 国府津駅間、浜松駅 - 大府駅間が開業。
武豊駅 - 大府駅間は支線化され、1889年・明治22年に国府津駅 - 浜松駅間(御殿場線経由)、そして関ヶ原駅 - 米原駅 - 大津駅間が開業し、こうして新橋駅 - 横浜駅間開業から17年の月日を経て、新橋駅から神戸駅までが鉄路で結ばれた。

           JR東海道本線・養老鉄道線駅「大垣」、新大橋通り・水門川の外堀


「第二代鉄道庁長官・松本荘一郎」、わが国最初の工学博士で日本鉄道界のリーダー。
明治から大正にかけて、日本は近代国家建設の途上にあって、鉄道輸送の発展に大きな期待がかかっていた。
こうした時代に郷土大垣からは、数多くの有能な鉄道人を輩出し「鉄道は大垣人」とまで言われ、そのリーダーとなったのが、「松本荘一郎」。

俊才とされた荘一郎は、学資がなく志半ばで勉学をあきらめようとしたが、明治元年、才能を惜しんだ大垣藩士「上田肇」は、大垣藩士に推挙。
大垣藩校に学んだ荘一郎は藩庁から学資を支給され、大学南校(後の東京大学)に入学。
その後アメリカへ留学した荘一郎は、土木工学を専攻。優秀な成績で学業を終えると帰国後には北海道開拓にも参画し、
幌内・手宮(小樽)間91.3キロメートルに北海道初の幌内鉄道を完成させた。
明治21年、日本初の工学博士の学位を与えられた荘一郎は、同26年第二代鉄道庁長官に任命され、鉄道事業発展に尽力した。

            第二代鉄道庁長官・松本荘一郎


「大垣の恵比寿大神」  (大黒様は水を吹き、恵比寿様は火を噴く)

1679年、戸田氏西公が恵比寿神を祭るにあたって、摂津の広田神社に祭られている西宮の蛭子神に人を派遣して祈願したと言われている。
戸田家は深く恵比寿神を崇敬しており、西宮の恵比寿神社の縁起によると、元和以来、尼崎城主戸田氏鉄より毎年米三十石を寄進されている。

恵比寿大神は、左甚五郎作と伝えられ、顔面の塗料が剥げていたので塗り師が塗り替えようと顔面に手を触れた途端、口から火を噴いた、、、、。
本楽の夜、夜の行事が全て終了後、各町の山車が曳きわかれした後、その年の恵比寿山車責任町から、次の年の責任町に恵比寿神のお頭を渡す儀式が
古来と同じ手順で今も行われていると云う。
祭礼に雨が降ると、恵比寿様が鼻を垂らすという伝説も残って、この山車は船町、伝馬町、岐阜町、宮町の四町内が、年々交代で曳いている。

人形神楽としては、330年ほどの歴史を持ち、舞台の下から人が直接棒で操るのは、全国的にも大変珍しい。

                大垣城外堀                    恵比寿大神
    

「大垣四季の路」
「水門川」は、大垣と桑名を結ぶ運河です。
1561年、大垣城主氏家直元が、城池改築のさい開削したと伝えられている。
水運の要路で、明治16年には大垣、桑名間に定期汽船が開通し、大いに栄え、今では美しい住吉燈台が往時のおもかげを偲ばせている。
水門川遊歩道は大垣駅前東の錦町愛宕神社から俳聖松尾芭蕉の「奥の細道むすびの地」を終点に総延長2,200メートルで花と緑の遊歩道に。
            
            大垣城西総門跡付近・京口門跡「四季の広場」
    

「奥の細道・風景地」
国指定名勝ー草加松原 埼玉県草加市・ガンマンガ淵(慈雲寺境内) 栃木県日光市・八幡宮(那須神社境内) 栃木県大田原市・殺生石 栃木県那須町
黒塚の岩屋 福島県二本松市 ・武隈の松 宮城県岩沼市・金鶏山 岩手県平泉町・高館 岩手県平泉町・象潟及び汐越 秋田県にかほ市
親しらず 新潟県糸魚川市・有磯海(女岩) 富山県高岡市・那谷寺境内(奇石) 石川県小松市・大垣船町川湊 岐阜県大垣市。
なぜか、宮城県・松島は、詠んでいない。

                         奥の細道むすびの地(船町)
    

1689年,芭蕉は、白河の関を越え、奥州に踏み入った。阿武隈川を渡る。左に会津磐梯山が高くそびえ右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地を国境として山が連なっている。
しかしこの日は、空曇っていて物影を見ることはできなかった。
福島県・ 須賀川の宿駅に入り、須賀川本町の相楽等躬宅を訪ねて、泊りを4日5日と引きとどめられた。
真っ先に、「白河の関をどのように越えましたか、句を詠んで来ましたか?)と尋ねられたので、
長旅の苦労で、心身ともに疲れ、一方で風景に心奪われ、昔の話に腸を切られる様な感動を受けて、しっかりとした発句を作る気持ちになりません、、。

この宿の傍に大きな栗の木陰頼りとして、俗世間を嫌い住まいする僧がいる。西行法師が「橡拾う」と詠んだ、深山もこのようであったかと思われて
紙に書き付けた。
栗と言う字は西の木と書き、西方浄土にゆかりが有ると行基菩薩さまが一生杖にも柱にも栗の木をお使いになった。

                        「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」
    

「高島・稲荷神社」
亀の池 かつて大垣駅前の池に川を伝ってやってきた数多くのカメがいて「亀の池」と呼ばれていました。
稲荷神社は、弥都波能売を水神としてお奉り,昭和御大典記念に建てられた灯籠が神前にある。
「水門川」は、市を流れる河川。木曽三川の木曽川水系の支流である。1653年、に作られた「川口村水門」に由来する。
県大垣市笠縫町付近に源を発し、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、市内の中之江川などの中小河川、排水路を合わせ、安八郡輪之内町塩喰で
「揖斐川」の支流である「牧田川」に合流。

1635年、大垣藩主として大垣城に入城した戸田氏鉄により大垣城の外堀として築かれた。
水門川は、大垣城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持ち、松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町であり、芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿へ向かい江戸に戻っている。
現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合があり、川湊であった船町港には住吉灯台も残っている。

                            高島・稲荷神社
    

松尾芭蕉。
「夏草や兵どもが夢の跡」
(奥州平泉にて。「平家物語」の木曽義仲フリークから義経の最後を想う)。碑が立っていた。
美濃路は、中山道・東海道を結び「大垣城下町」を抜け墨俣・尾張・熱田の宮・朝鮮通信使・お茶壺道中等の重要街道であった。

                        貴船神社
    

「美濃路大垣宿本陣跡」・歴史・文化ともに重要な宿場町
江戸時代、かつて大垣は大垣藩戸田家十万石の城下町として名を馳せていましたが、美濃路大垣宿の宿場町としても栄えた。
大垣宿の竹島町には本陣が建造された。
文化人の交流施設として遣われ、「大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡」として大垣市の史跡に指定。

                        大垣城大手門跡
    

「大垣城大手門跡」
大垣城の正門、大手口御門(東大手)の跡。
高麗門と櫓門を配置した枡形形式の門であったが、明治 ・1871年に取り壊された。
現在、廣嶺神社が鎮座、又、東側の水路がかつての内堀である。
惣郭には、大手門の他、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の各門があり、大垣城七口之門と称された。

    

「美濃路 塩田常夜燈」
美濃路(江戸時代、東海道宮宿と中山道垂井宿を結んだ脇街道)の大垣宿に入る手前で、杭瀬川を渡り、河畔には塩田港の常夜燈がある。
高さ約4.3mの銅板葺(当初は茅葺であった)で1880年に杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、伊勢両宮への献燈として
塩田港の西岸に建立。
赤坂港と桑名港の間で船の航行が盛んで、常に20~30隻の船が停泊し、船頭相手の米屋、銭湯、雑貨屋等の店が軒を連ねて大変賑やかであったと云う。
大垣宿の住吉燈台(船町)に近づくにつれ、細い路地が幾重にも重なる住宅の密集地が続きます。その一角に大垣宿を代表する酒蔵「三輪酒造」がある。

         町道標(錦町)石工の常夜燈が(1822年頃)・古井戸・港跡・大垣城の門跡が外堀川に沿っている城下町
    

次回は、水門川遊歩道を。