「長浜城」
長浜駅西前、現在「豊公園」、「京極導誉」(米原・太尾山城)が13世紀に築いたのが前身と云う。
浅井氏滅亡後、「豊臣秀吉がこの地に築城して本拠地とした。
後、豊、山内一豊らが城主と続く。
1573年浅井長政滅亡後、羽柴(豊臣)秀吉、翌年築城開始、木材竹生島から
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秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得した柴田勝家の甥の柴田勝豊が入城するも、まもなく勝家と対立した秀吉に攻められ落城した。
賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が6年間在城し、内藤信成・信正が城主になるが1615年に廃城になり資材の大半は彦根城の築城に流用。
彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。
その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができると云う。
市内にある知善院の表門も、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
現在の天守は、1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元、「市立長浜城歴史博物館」が運営。
秀吉一国一城の主となった最初の拠点に
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「豊臣秀吉」 1537-98 下層から天下人に、尾張国中村出身、初名(藤吉郎)、信長から近江国長浜を領す。
信長の仇「明智光秀」を討ち、「柴田勝家」を滅ぼし、「小牧・長久手」で徳川家康と対戦するが講和し、長宗我部氏・島津氏を下し、
天正18年「小田原・北条氏」を滅ぼして天下統一する。
出世は、墨俣城築城にあると云う。秀吉一人進んで命を引き受け、築城の大量の材料は「筏」に組んで川を下るなど、奇抜な発想で完成させた。
家康には、上亰を拒んだ祭、自分の妹を差し出す、それも拒む家康に実母を人質に送っている。
秀吉の戦略は、策略を好まずで、降伏してきた者は許し、城主一人の切腹で城兵を助けている。
後継の「関白秀次」殺している。
駅前に石田三成出会いの像がある。 三成1560ー1600 豊臣政権の吏僚として活躍・秀吉亡き後家康打倒を画策し敗れる。
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「北 政所」 1549-1624 秀吉の正室、杉原定利の娘、「おね」「ねね」とも、
従一位に、朝廷から「豊臣吉子」の名を賜る。秀吉亡き後、隠居し「高台院」と名乗っている。
秀吉の浮気に悩み信長に愚痴ると、信長「禿げ鼠には勿体ない妻、奥方らしく寛大に構えよ、焼き餅など焼いてはいけぬ、、」柔和慈悲深い女性になったと云う。秀吉なき後、子飼井の武将には、徳川方につくよう一貫して説いたと云う。
国友鉄砲鍛冶・堺と並ぶ火縄銃の二大生産地に、
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「柴田勝家」 ~1583 信長の勇将 信長の弟「信行」に仕え、北陸攻略に活躍して越前国を与えられる。北庄城を築いた。
六角義賢に包囲され極度の水不足に陥り、勝家は、水はフンダンにあるよう欺き油断させ、味方の前では最後の水瓶を槍でたたき割って、兵士に死の覚悟を促しと云う。「瓶割りの柴田」の異名をえている。
秀吉軍に「賎ケ岳の戦い」大敗死、勝家は、北庄城(福井県)で妻「お市」と共に自害している。
賎ケ岳の戦いで大敗した柴田勝家は、北庄城(福井県)で妻「お市」と共に自害
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「淀殿」 1567-1615 秀吉の側室、浅井長政の娘で母「お市の方」名は「茶々」、秀吉の間に鶴松と豊臣秀頼を生む、秀吉亡き後、大阪城入り
豊臣家の実権を掌握する。秀吉側室十数人いたが、子を成したのは淀殿だけという。
自ら主戦論展開させ「大坂の役」を誘発したと云う。
「当主 浅井長政」 は、その将来を有望視され、織田信長 にも気に入られたという若武者でしたが、「朝倉家」 と 信長 の板挟みに
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京極導誉家臣「今浜六郎左衛門」が築城し、その後、上坂氏守将が在城した。南北朝時代から天正の始め一国一城となり、羽柴秀吉が城を築き
地名を「長浜」と改め、城下町を造営、約7年間居城する。
天正11年「賎ケ岳の戦い」で、長浜城根拠地として大勝、天下にとどろかせた。
天正13年~18年「山内一豊」在城、1606年内藤信成が入城、その子信正が1615年摂津・高槻城に移り「廃城」となっている。
建築物は、大半「彦根城」に移されている。
北に小谷城・賤ヶ岳合戦場・竹生島が 西に安土城
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天守閣からー「東」
関ケ原古戦場・石田三成出生地・1377mの伊吹山・小堀遠州出生地・姉川合戦場・鉄砲の町国友町等
「小堀遠州」
小堀 政一は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。
備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。
南に三成の佐和山城 東に関ケ原・姉川合戦場・国友鉄砲の里・伊吹山
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西側は、比良山山地・沖島・安土城址・太閤井戸・琵琶湖等
「鉄砲の町国友町」
「国友鍛冶・一貫斎」
国友鉄砲鍛冶集団の町、近世、堺と並ぶ火縄銃の二大生産地の一つ、重要な役割を果たした。
我が国で初めて「反射望遠鏡」を作り、月面や太陽黒点の観測を行った。
日本初、反射望遠鏡を作り、月面や太陽黒点の観測をおこなった。江戸後期「国友鍛冶・一貫斎」が注目されてきた。
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南側は、彦根城・佐和山城址・雲仙山など。
「姉川合戦場」
上洛を目指す織田信長は、北近江の領主・浅井長政に妹のお市を娶らせて同盟を結ぶ。
信長は、1568年に、越前朝倉氏の元から足利義昭を迎え、上洛戦を開始。
浅井軍と共同して南近江の六角氏を破って上洛を果たし、足利義昭を将軍に据えた。
1570年、信長は将軍・足利義昭の名の下、諸大名に上洛を命じる。
しかし、信長を敵対視していた朝倉義景がこれを無視したため、越前へと軍勢を進めた,,,.。
「海北友松」絵師で東福寺で禅修業にだされ、中央で才能開花させた
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北側は、金糞岳・小谷城址・虎御前山・山本山(賎ケ岳合戦場)・竹生島等。
「小谷城址」
日本五大山城の一つに数えられる。
標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、「浅井長政とお市の方」との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
城主は、浅井長政・豊臣秀吉。
「小堀遠州」は、大名・茶人・建築家・作庭家・遠州は、武家官位遠州守の唐名・近江小室初代藩主(江戸中期)
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「黒田官兵衛と長浜」
黒田家の祖先は近江国伊香郡黒田村の荘園領主で、黒田判官と呼ばれたといわれている。
屋敷跡とされる場所には、黒田判官を祀る石碑があると云う。
館内には、長浜文化展・国友鉄砲と郷土史・湖北等が、展示。博物館が設置されている。入館料400・
黒田家の祖先は近江国伊香郡黒田村の荘園領主
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「君が代も わが世も共に 長浜の 真砂のか須の つき屋らむまで」 (竹中半兵衛)
秀吉は、1573年浅井氏を滅ぼして小谷城主になったが、山の雪と寒気に悩まされ翌春より今浜城(後の長浜城)の建築に着手した。
地名を長浜と改め、小谷城下や近郷から寺院や商家を移し、 楽市楽座の制度と三百万石の地租免除の恩典を与え、商工業の発展に力を尽くす。
豊臣秀吉出世城「長浜」
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「豊国神社」
長浜市に鎮座する神社。 「豊国大明神」こと豊臣秀吉のほか、事代主大神、加藤清正、木村重成を祭神とする。
近江長浜6瓢箪巡りの第一番札所。
江戸時代に入ると、幕府の命により秀吉信仰が禁じられ、社殿も取り壊されたが、町民によって祭神は町年寄の家へ移され、その後、恵比須神を祀る神社の奥社で密かに祀っていた(現在の豊国神社で事代主が一緒に祀られているのはこのため)と云う。
明治維新後には「豊国神社」の名が復活し、秀吉の三百回忌に当たる明治31年(1898年)に拝殿が再建。
明治14年に村社、大正9年に郷社、大正11年に県社に。
秀吉公の遺徳を偲んで町衆が建立した神社
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長浜城は、周知の通り模擬天守で、本来の城は、江戸時代初期に廃城となっ たため、往時の姿・形は、無い。
往時の城郭は、現在の湖岸よりも琵琶湖 に張り出し、湖面と繋がった広い内堀と、二重の外堀に囲まれ、さながら湖上の城であっ たと想像。
秀吉・三成出会いの地、半兵衛・官兵衛の家臣など,ここで、「天下統一」を
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次回は、長浜城下町を。