syuの日記・気まま旅

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美濃路の大垣宿と石田三成本拠地

2014-08-07 | 気まま旅
大垣市は,城の復元、内外堀の一部現存し、住吉 燈台等が残り、芭蕉元禄の町・城下町。

岐阜県南西部、西美濃地方の中心都市(商工業都市)・揖斐川中流の低地で、支流の中小河川と井戸も多い「水都」と呼ばれている。
大きな柿を産するので古くは、「大柿」と書かれ、又、水害から守る為の堰堤を築いたことから大垣と書かれるようになったと云う。
古代から開け、美濃国分寺がある。江戸時代は、戸田氏10万石の城下町。
美濃路の宿場として栄え、北西部の「赤坂」は、中山道の宿場である。
俳人「松尾芭蕉」は、大垣に三回訪れ「奥の細道」の結びの地としている。
明治には、大理石・大正に繊維、化学機械などの産業が発達そいている。

水門川は、大垣城の外堀で、桑名方面への舟運に利用され、県史跡の「住吉灯台」で知られている。

 大垣東総門ー小原鉄心邸跡ー藩校敬教堂跡ー八幡神社―四季の広場ー奥の細道ー住吉燈台などが


「大垣の井戸」
上井戸'第一水槽・下井戸第二水槽に別けられ、下井戸は洗い場として使われ、ここの水は生水で飲まないように注意書きがある。

「船町公園の自噴水」
「奥の細道むすびの地」の船町周辺は、水都大垣を象徴する「井戸」の風景。
道路下にある自噴井戸、水の一部は公園内の水場や、噴水などに引かれていると云う。

               名水大手いこ井の泉(郭町)水温14度の地下水が
  

「水門川」
大垣市笠縫町付近に源を発し、大垣市街を大垣城に沿うように流れ、市内の中之江川などの中小河川、排水路を合わせ、輪之内町で揖斐川の支流である
牧田川に合流する。

水門川は、1635年大垣藩主として大垣城に入城した「戸田氏鉄」により城の外堀として築かれた。
城の外堀のみならず、揖斐川を介して大垣船町と桑名宿を結ぶ船運の運河の役割を持っている。
松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地は大垣船町であり、芭蕉は船町から水門川を船で下り、桑名宿へ向かい江戸に戻っていると云う。
現在でも水門川の一部を大垣運河と呼ぶ場合があり、川湊であった船町港には、有名な「住吉灯台」も残っている。

     住吉燈台・船町港跡  松尾芭蕉は、1689年秋、奥の細道の旅をここ大垣で「蛤のふたみに別行秋そ」
    

「住吉灯台」
水門川の岸のある常夜灯。桑名方面舟運に利用された港で、航行安全の為1685年に建てられている。
芭蕉は、ここから伊勢へ下り、「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」と詠んでいる。

                           桑名方面舟運に利用
    

水門川は、城の外堀であった。幾多の戦いで街並みも焼失したが、川の流れは変わっていない、「水門川遊歩道・四季の路」は、折々の草木が茂り、
道行く人を楽しませている。

「美濃路」は、徳川幕府を開き五街道整備を行い、美濃路は、中山道と東海道を結び、垂井から大垣の城下町を抜け、墨㑨から尾張へと入り名古屋
熱田の宮の宿で東海道に通じていた。
江戸時代の朝鮮通信使や茶壺道中等もこの街道を通る重要な道であったと云う。

                街の中央部に外堀川で架かる橋が20か所以上ある
    

「住吉神社」
住吉灯台の右隣に、住吉神社が。住吉と云えば船町港跡。住吉大社は、海の神様。ここ、川の町、海と同じように、物資や人を運ぶ、重要な川路。
その安全を祈願するのは、当然。信仰に、住吉神社は納得。

「左 江戸道 右 京道」の碑、
1826年の建立、この道標は、美濃路と竹鼻街道との分岐点に建てられたものと云う。
竹鼻街道は、宝暦治水工事の完成と、駒塚の渡しの開設により、美濃路の短絡道として盛んに利用され、その経路は、竹島から平の渡し、本郷の渡しを通り、竹鼻・駒塚の渡しを経て尾張の富田で美濃路に合流したと云う。

     左 江戸道 右 京                        道奥の細道むすびの地
    

1689年芭蕉46歳、深川を出て大垣「奥の細道」完成させ、5年後に出版し、芭蕉51歳。
大阪に客死し、柩は膳所義仲寺に運ばれ、14日境内に埋葬されたと云う。

「旅に病み夢は枯野をかけめぐる」 芭蕉は死ぬまで己の旅を続け、病床にあっても夢にでるのは枯野を駆け廻ることばかり。
古里の伊賀の里ではなく、また松島や姥捨の月や吉野の桜でもなく、どこにでもある枯野というのは最後まで芭蕉らしい風流な夢、詫びつくした枯野。

大垣の水門川、高橋の横、送別連句塚。             「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

           郷土館                                水門川
  

「有名人」は、梁川星巌(漢詩人)・南条文雄(仏教学者)・子安峻(読売新聞初代社長)・守屋多々志(日本画家)・後藤大秀(からくり人形師。大垣市教育功労賞・大垣市美術家協会理事・大垣市市展審査員)・水野利八 (ミズノ創業者)・矢橋賢吉(建築家)等が。

                       美濃路と水門川
    

「大垣城」は、南と東を大手門、北と西を要害堅固な城郭で、惣郭には、大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の「七口の門」があった。
第8代藩主戸田采女正氏康は、藩士の子弟を教育知るため1840年辰之口門外に学問所を創設、「致道館」。その後拡大し多くの文人・学者を生んでいる。

                水門川は大垣城の外堀、川の流れが往時を偲ばせてくれる
  

「秋菊神社」
大垣は、中世「大井荘」と呼ばれた東大寺領で「八幡神社」など、鎮守を勧請している。

                       秋菊神社
     

「八幡神社」(西外側町)
中世には、「大井荘」とよばれ「東大寺」領であった。東大寺の鎮守を勧請して建てられた神社。
「戸田左門氏鉄」が、神社を再建整備し、城下町町民が喜び、山車を曳いたのが始まりと云う「大垣祭り」は5月

                       拝殿


「飯沼 慾斎」1782年 -1865年は、江戸時代の医家で本草学者。
「リンネ」の植物分類法を最初に採用した草木図説を出版。三重県亀山市
名を長順、幼名本平。慾斎は、引退後の号。
小野蘭山について本草学を学んだ。後、宇田川榛斎に入門し蘭学を修め、大垣に帰り蘭方医を開業し名声を博した、
1828年には人体解剖もおこなっており、本業の医家としても先駆者であった。
60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、自ら慾斎と号したことでもその意欲を知ることが出来る。

飯沼 慾斎邸跡        次回は、石田三成の関ヶ原の戦い本拠地「大垣城」へ


次回は、大垣城。