気まま旅に戻ります。
「関ヶ原の戦い」で、徳川家康は、1600年9月11日 江戸から尾張の清洲城へ入り、 14日に岐阜を経由して長良川の船橋を渡り、河渡を通ってその正午
には、赤坂に到着している。即、岡山と呼ばれた高地の頂上に置いた本営へと入っている。
其処は、大垣城の約5.5km。
鎌倉時代、源頼朝の父、義朝は、東国へ落ち延びる途中に、垂井・赤坂に泊っていると平家物語に記されていると云う。
関ケ原の岡山を、東軍が勝った所から「御勝山」と改名したと云う。
東軍は、一部兵力を残し、大垣城を監視させ、他全軍、近江を抜け、石田三成本拠地「佐和山城」を急襲し、大阪を目指している。
情報を知った三成は、大垣城を出て「関ヶ原」へ向かう、家康の戦略に乗ってしまったとも云う。
9月15日決戦の幕となる。
西軍の先頭を行く石田三成隊が、この関ヶ原の地に到着したのが9月15日の午前1時ごろ、笹尾山に陣をとった。三成の家老である島左近と蒲生郷舎が、それぞれ一隊を率いて前衛部隊となった。島津義弘隊は午前4時ごろに到着、三成隊の1町半南にある小池村に布陣し、甥の島津豊久はその前方に備え、石田隊と島津隊で北国街道を抑える形をとったのである。続いて小西行長が着陣、島津隊の右側へと落ち着いた。最後に到着したのが宇喜多秀家の隊で、天満山の前に布陣した。兵を前隊と本隊の二つに分割し、これを東南の方角へ備えた。北陸地方の平定を担当していた大谷吉継は、大垣城には入らず山中村に布陣していたが、西軍の基本戦略が「関ヶ原に進出して東軍を迎撃」という方向に定まるや、関ヶ原方面へと進軍し藤川を前にして陣取った。その左側には戸田重政の部隊が、そして中山道を挟んだ右側には共に北陸平定戦を戦ってきた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4部隊が陣取ったのである。さらにその南、松尾山には小早川秀秋の軍勢8千があり、東側の南宮山付近には毛利秀元や吉川広家、安国寺恵瓊ら、そして栗原山に長曾我部盛親の部隊が鎮座していた。西軍の布陣を見てみると、西から東へぐるりと東軍を包囲するような陣形、すなわち図らずも鶴翼の陣形となっており、その総数はおよそ8万という大軍。
金生山の大理石・石灰と化石の美濃「赤坂宿」
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「赤坂」岐阜県大垣市、元不破郡赤坂町、江戸時代は、中山道の宿場と本陣跡・お茶屋敷跡・杭瀬川の河岸跡・南に勝山・北に金生山(石灰山地)
大理石加工場広がる地域。
中山道69次道主の宿場町、江戸板橋ー埼玉ー群馬ー長野ー木曽馬籠ー岐阜中津川落合ー可児郡伏見ー樽見線美江寺ー大垣城赤坂ー垂井ー関ヶ原ー関所ー
滋賀県愛知川ー大津、69次ある。
歌川広重「木曽街道六十九次・赤坂」
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「赤坂宿」は、中山道江戸から数えて56番目の宿場。
大垣藩領(1843年)・人口、1129人・家数、292軒・本陣、1軒・脇本陣、1軒・旅籠、17軒と云う。
西国33霊場最後の地・谷汲街道の起点「赤坂」
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この一帯には「二つ塚古墳」「車塚古墳」「鉄砲塚古墳」「長塚古墳」「粉糠山古墳」など多くの古墳が存在している。
「照手姫水汲みの井戸」
昔,武蔵・相模の横山郡代の娘で照手姫と言う絶世の美女がいて,「小栗判官正清」と相思相愛となる。
判官は、横山家の家来に毒を盛られた。彼女は悲しんで放浪の末,人さらいに遭いこの地の青墓長者の元へ売られてきたという。
長者は、照手姫の美貌を見て身分の高い人の相手をさせようとするが姫は拒み続けたと云う。そこで長者は照手姫にざるの籠をもたせ十八町(約2km)も離れた井戸から風呂の水を満たせとなどと嫌がらせをしたと云う。その井戸が「照手姫水汲み井戸」。
一方判官は,遊行寺14代上人である大空によって助けられ,紀州の熊野にある湯ノ峰温泉に密かに送られて霊泉につかり蘇生して,照手姫を探し出して妻に迎え幸福な生活を送り、 判官が亡くなった後,照手姫は長生院に住み尼となって終生判官の菩提を弔いながら余生を送ったと云う。
この伝説は色々な内容に変わって行き,話の筋も幾種類もある。
藤沢市遊行寺や横浜市金沢区,神奈川県相模湖町,和歌山県湯の峰温泉などにも小栗判官照手姫伝説に関する史跡や伝承が残っている。
「青墓のよしたけ庵跡」・「小篠竹の塚」
平治の乱(1159)で源氏が敗れた後,、父義朝は知多半島で討たれ兄頼朝とも離ればなれになり,隠れ住む鞍馬山も危うくなった牛若丸が,奥州の「金売り吉次」一行に隠れての「東山道」逃避行の際,当地「青墓」で休息し、 持っていた杖代わりの葦(あし)を地面に差し
「差し置くも 形見となれや 後の世に 源氏栄えて葦竹となれ」
と読んだ場所と伝えられている。
その葦から見事な竹が芽をふき杖から竹が成長したと云う。そこでこの珍しい竹は「よし竹」と呼ばれここを「よし竹庵」と呼ばれるようになったと云う。ここは「円願寺廃寺跡」である。
敷地の街道側の,玉垣の中に五輪塔がいくつも集められている。ここは「小篠竹の塚」と呼ばれ,照手姫の墓と伝わっている。これも「小栗判官と照手姫」の伝説の一つである。
青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)
一夜見し 人の情に たちかえる 心に残る 青墓の里 慈円(後の慈鎮、天台宗座主、愚管抄の作者でもある)。
「照手姫水汲み井戸」と書かれた案内標識があり左折し,県道216号線の手前にその井戸がある。
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「圓興寺城」
「美濃雑事記」などによれば、円興寺城は里見氏の居城。
しかし、円興寺城はもともと伝教大師最澄に帰依した青墓の大炊氏が建立した山岳寺院で、盛時には末寺百ヶ寺、寺領5千俵を有していたと伝えられる。円興寺城は、1574年、織田信長の兵火にいよって伽藍すべてが焼失した。里見氏と円興寺との関係はよくわかっていない。
「白髭神社」琵琶湖の西側にある白髭神社の末社と云う。
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圓興寺 山門 鐘楼 本殿
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「お茶屋屋敷跡」
慶長10年(1605),関ヶ原の合戦に勝利し天下統一を果たした徳川家康は,中山道や東海道に「将軍専用の宿泊施設」として「御茶屋屋敷」を造ったうちの一つで,徳川家開運の地であるお勝山の北方のこの地に設けた。
邸内に,信長ゆかりの「岐阜城千畳敷御殿」を移築させたと云われ,家康や二代将軍秀忠及び千姫も泊った。
寛永年間(1624-44)に建物は取り壊され,土地は明治維新廃藩置県の時,赤坂村名主矢橋宗太郎氏に払い下げられた。創建時は61もの建物があった小さな城郭造りで,当時を偲ぶ土塁や空濠の一部を残す貴重な遺構である。
現在は矢橋グループの私有地ながら東海一の「牡丹園」として無料公開されている。残念ながら既に牡丹は盛りを過ぎていた。
鴻巣宿にも将軍の狩り専用宿泊施設があったことを思い出したが,そちらはその遺構は全く消えてしまっていたと記憶している。
街道に戻って西へ進む。
「如来寺」
1195年 僧定尊が村東の花崗岩の上に三尊仏を安置し如来寺とした。
後年信長の兵火に遭い当地に遷り秘仏となる。長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻した仏像であることから,「善光寺式阿弥陀三尊仏」と呼ばれている。
鎌倉時代の作と伝えられ,法身は中央の阿弥陀如来像が49cm,脇侍の「観音菩薩像」と「勢至菩薩像」が共に33cmの三尊が一つの光背に納まっている一光三尊仏であり,善光寺の分身物にふさわしい浄土来迎を思わせる紋様も彫刻されていると言う。
如来寺
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「昼飯町」の由来が書いてある。
「むかし,善光寺如来という仏像が大坂の海から拾い上げられ,長野の善光寺へ納められることに、その仏像を運ぶ人びとが青墓の近くまで来た時は
5月の中頃。近くの山々は新緑におおわれ,つつじの花が咲き乱れ素晴らしい景色。
善光寺如来を運ぶ一行も小さな池のそばで,ゆっくり休み美しい景色にみとれ、一行は、ここで昼飯をとりました。
それからこの付近を昼飯と言うようになり、その名が下品であると言うので,その後飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが「いい」は言いにくいので一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになったと云う。
又ここの池は一行が手を洗ったので「善光寺井戸」と云われ記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたと云う。」
粉糠山古墳の宿場
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「粉糠山古墳」
全長約100mの前方後円墳で築造年代は4世紀から5世紀とされている。 東海地方でも有数の規模を誇り有力豪族の墓と推定。
「粉糠山」の名は,青墓宿の遊女たちが化粧に使った粉糠を捨てたのが積もり積もって小山になったという伝説による。
また青墓と云う名もこの古墳にちなんだものと思われる。
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関ケ原本陣跡に神社 街道に戻り町並みを進む。時折地区の名家らしい長屋門を構えた古い家が散見される。
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「脇本陣跡」
建て坪155坪。1751-63年以後,飯沼家が代々に亘り務め問屋。
年寄役を兼務して明治維新まで及び,その後榎屋の屋号にて現在まで旅館を営んでいると云う。
今も当時の座敷や賊の侵入を防止する珍しい紙張りの天井が残っていると云う。一軒置いた先に「五七処」、赤坂宿が日本橋を含めて57番目の宿場なので五七。お休み処。
脇本陣跡
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「戸田三弥」像,
幕末維新の際に,大垣藩論を勤皇に統一するのに尽力し,戊辰戦争では大垣藩の軍事総裁として東北各地を転戦し軍功をあげ,
明治新政府の要職を歴任した。
「史跡 お茶屋敷跡」1604年徳川家康が織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構え、
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街道の向かい側の奥まったところに「妙心寺」。「所郁太郎の墓」と「戸田三弥の墓」がある。
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文久元年・1861年10月25日,皇女和宮が赤坂宿に泊られ、見苦しい家があっては失礼だと54軒もの家が建て替えられたと云う。
短期間での建築工事であったため,街道沿いの表側だけ二階建てという珍しい家で,現在も数軒残っている。
幕府から10年返済の助成金が出たが,幕府がすぐに崩壊したので返済金は3年程度でうやむやになって宿の人びとは得したというおまけ話もある 。
皇女和宮之碑・赤坂宿に泊まる
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「美濃赤坂駅」は、東海旅客鉄道(JR東海)と日本貨物鉄道(JR貨物)・西濃鉄道の駅。
JR東海・JR貨物の東海道本線支線(通称、美濃赤坂支線)と、西濃鉄道の市橋線(貨物線)が乗り入れる。
付近の金生山が石灰石を産出するため、石灰石輸送の中継地点となっており、1日2 - 3往復の貨物列車が発着すると云う。
美濃赤坂駅
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次回は、琵琶湖・滋賀県坂田「米原」へ。
「関ヶ原の戦い」で、徳川家康は、1600年9月11日 江戸から尾張の清洲城へ入り、 14日に岐阜を経由して長良川の船橋を渡り、河渡を通ってその正午
には、赤坂に到着している。即、岡山と呼ばれた高地の頂上に置いた本営へと入っている。
其処は、大垣城の約5.5km。
鎌倉時代、源頼朝の父、義朝は、東国へ落ち延びる途中に、垂井・赤坂に泊っていると平家物語に記されていると云う。
関ケ原の岡山を、東軍が勝った所から「御勝山」と改名したと云う。
東軍は、一部兵力を残し、大垣城を監視させ、他全軍、近江を抜け、石田三成本拠地「佐和山城」を急襲し、大阪を目指している。
情報を知った三成は、大垣城を出て「関ヶ原」へ向かう、家康の戦略に乗ってしまったとも云う。
9月15日決戦の幕となる。
西軍の先頭を行く石田三成隊が、この関ヶ原の地に到着したのが9月15日の午前1時ごろ、笹尾山に陣をとった。三成の家老である島左近と蒲生郷舎が、それぞれ一隊を率いて前衛部隊となった。島津義弘隊は午前4時ごろに到着、三成隊の1町半南にある小池村に布陣し、甥の島津豊久はその前方に備え、石田隊と島津隊で北国街道を抑える形をとったのである。続いて小西行長が着陣、島津隊の右側へと落ち着いた。最後に到着したのが宇喜多秀家の隊で、天満山の前に布陣した。兵を前隊と本隊の二つに分割し、これを東南の方角へ備えた。北陸地方の平定を担当していた大谷吉継は、大垣城には入らず山中村に布陣していたが、西軍の基本戦略が「関ヶ原に進出して東軍を迎撃」という方向に定まるや、関ヶ原方面へと進軍し藤川を前にして陣取った。その左側には戸田重政の部隊が、そして中山道を挟んだ右側には共に北陸平定戦を戦ってきた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の4部隊が陣取ったのである。さらにその南、松尾山には小早川秀秋の軍勢8千があり、東側の南宮山付近には毛利秀元や吉川広家、安国寺恵瓊ら、そして栗原山に長曾我部盛親の部隊が鎮座していた。西軍の布陣を見てみると、西から東へぐるりと東軍を包囲するような陣形、すなわち図らずも鶴翼の陣形となっており、その総数はおよそ8万という大軍。
金生山の大理石・石灰と化石の美濃「赤坂宿」
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「赤坂」岐阜県大垣市、元不破郡赤坂町、江戸時代は、中山道の宿場と本陣跡・お茶屋敷跡・杭瀬川の河岸跡・南に勝山・北に金生山(石灰山地)
大理石加工場広がる地域。
中山道69次道主の宿場町、江戸板橋ー埼玉ー群馬ー長野ー木曽馬籠ー岐阜中津川落合ー可児郡伏見ー樽見線美江寺ー大垣城赤坂ー垂井ー関ヶ原ー関所ー
滋賀県愛知川ー大津、69次ある。
歌川広重「木曽街道六十九次・赤坂」
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「赤坂宿」は、中山道江戸から数えて56番目の宿場。
大垣藩領(1843年)・人口、1129人・家数、292軒・本陣、1軒・脇本陣、1軒・旅籠、17軒と云う。
西国33霊場最後の地・谷汲街道の起点「赤坂」
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この一帯には「二つ塚古墳」「車塚古墳」「鉄砲塚古墳」「長塚古墳」「粉糠山古墳」など多くの古墳が存在している。
「照手姫水汲みの井戸」
昔,武蔵・相模の横山郡代の娘で照手姫と言う絶世の美女がいて,「小栗判官正清」と相思相愛となる。
判官は、横山家の家来に毒を盛られた。彼女は悲しんで放浪の末,人さらいに遭いこの地の青墓長者の元へ売られてきたという。
長者は、照手姫の美貌を見て身分の高い人の相手をさせようとするが姫は拒み続けたと云う。そこで長者は照手姫にざるの籠をもたせ十八町(約2km)も離れた井戸から風呂の水を満たせとなどと嫌がらせをしたと云う。その井戸が「照手姫水汲み井戸」。
一方判官は,遊行寺14代上人である大空によって助けられ,紀州の熊野にある湯ノ峰温泉に密かに送られて霊泉につかり蘇生して,照手姫を探し出して妻に迎え幸福な生活を送り、 判官が亡くなった後,照手姫は長生院に住み尼となって終生判官の菩提を弔いながら余生を送ったと云う。
この伝説は色々な内容に変わって行き,話の筋も幾種類もある。
藤沢市遊行寺や横浜市金沢区,神奈川県相模湖町,和歌山県湯の峰温泉などにも小栗判官照手姫伝説に関する史跡や伝承が残っている。
「青墓のよしたけ庵跡」・「小篠竹の塚」
平治の乱(1159)で源氏が敗れた後,、父義朝は知多半島で討たれ兄頼朝とも離ればなれになり,隠れ住む鞍馬山も危うくなった牛若丸が,奥州の「金売り吉次」一行に隠れての「東山道」逃避行の際,当地「青墓」で休息し、 持っていた杖代わりの葦(あし)を地面に差し
「差し置くも 形見となれや 後の世に 源氏栄えて葦竹となれ」
と読んだ場所と伝えられている。
その葦から見事な竹が芽をふき杖から竹が成長したと云う。そこでこの珍しい竹は「よし竹」と呼ばれここを「よし竹庵」と呼ばれるようになったと云う。ここは「円願寺廃寺跡」である。
敷地の街道側の,玉垣の中に五輪塔がいくつも集められている。ここは「小篠竹の塚」と呼ばれ,照手姫の墓と伝わっている。これも「小栗判官と照手姫」の伝説の一つである。
青墓にむかし照手姫という遊女あり。この墓なりとぞ。照手姫は東海道藤沢にも出せり。その頃両人ありし候や詳ならず。(木曽路名所図会より)
一夜見し 人の情に たちかえる 心に残る 青墓の里 慈円(後の慈鎮、天台宗座主、愚管抄の作者でもある)。
「照手姫水汲み井戸」と書かれた案内標識があり左折し,県道216号線の手前にその井戸がある。
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「圓興寺城」
「美濃雑事記」などによれば、円興寺城は里見氏の居城。
しかし、円興寺城はもともと伝教大師最澄に帰依した青墓の大炊氏が建立した山岳寺院で、盛時には末寺百ヶ寺、寺領5千俵を有していたと伝えられる。円興寺城は、1574年、織田信長の兵火にいよって伽藍すべてが焼失した。里見氏と円興寺との関係はよくわかっていない。
「白髭神社」琵琶湖の西側にある白髭神社の末社と云う。
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圓興寺 山門 鐘楼 本殿
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「お茶屋屋敷跡」
慶長10年(1605),関ヶ原の合戦に勝利し天下統一を果たした徳川家康は,中山道や東海道に「将軍専用の宿泊施設」として「御茶屋屋敷」を造ったうちの一つで,徳川家開運の地であるお勝山の北方のこの地に設けた。
邸内に,信長ゆかりの「岐阜城千畳敷御殿」を移築させたと云われ,家康や二代将軍秀忠及び千姫も泊った。
寛永年間(1624-44)に建物は取り壊され,土地は明治維新廃藩置県の時,赤坂村名主矢橋宗太郎氏に払い下げられた。創建時は61もの建物があった小さな城郭造りで,当時を偲ぶ土塁や空濠の一部を残す貴重な遺構である。
現在は矢橋グループの私有地ながら東海一の「牡丹園」として無料公開されている。残念ながら既に牡丹は盛りを過ぎていた。
鴻巣宿にも将軍の狩り専用宿泊施設があったことを思い出したが,そちらはその遺構は全く消えてしまっていたと記憶している。
街道に戻って西へ進む。
「如来寺」
1195年 僧定尊が村東の花崗岩の上に三尊仏を安置し如来寺とした。
後年信長の兵火に遭い当地に遷り秘仏となる。長野善光寺の三尊仏の尊影を模刻した仏像であることから,「善光寺式阿弥陀三尊仏」と呼ばれている。
鎌倉時代の作と伝えられ,法身は中央の阿弥陀如来像が49cm,脇侍の「観音菩薩像」と「勢至菩薩像」が共に33cmの三尊が一つの光背に納まっている一光三尊仏であり,善光寺の分身物にふさわしい浄土来迎を思わせる紋様も彫刻されていると言う。
如来寺
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「昼飯町」の由来が書いてある。
「むかし,善光寺如来という仏像が大坂の海から拾い上げられ,長野の善光寺へ納められることに、その仏像を運ぶ人びとが青墓の近くまで来た時は
5月の中頃。近くの山々は新緑におおわれ,つつじの花が咲き乱れ素晴らしい景色。
善光寺如来を運ぶ一行も小さな池のそばで,ゆっくり休み美しい景色にみとれ、一行は、ここで昼飯をとりました。
それからこの付近を昼飯と言うようになり、その名が下品であると言うので,その後飯の字を「いい」と音読みにして「ひるいい」と呼ばれるようになりましたが「いい」は言いにくいので一字を略して「ひるい」と呼ばれるようになったと云う。
又ここの池は一行が手を洗ったので「善光寺井戸」と云われ記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたと云う。」
粉糠山古墳の宿場
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「粉糠山古墳」
全長約100mの前方後円墳で築造年代は4世紀から5世紀とされている。 東海地方でも有数の規模を誇り有力豪族の墓と推定。
「粉糠山」の名は,青墓宿の遊女たちが化粧に使った粉糠を捨てたのが積もり積もって小山になったという伝説による。
また青墓と云う名もこの古墳にちなんだものと思われる。
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関ケ原本陣跡に神社 街道に戻り町並みを進む。時折地区の名家らしい長屋門を構えた古い家が散見される。
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「脇本陣跡」
建て坪155坪。1751-63年以後,飯沼家が代々に亘り務め問屋。
年寄役を兼務して明治維新まで及び,その後榎屋の屋号にて現在まで旅館を営んでいると云う。
今も当時の座敷や賊の侵入を防止する珍しい紙張りの天井が残っていると云う。一軒置いた先に「五七処」、赤坂宿が日本橋を含めて57番目の宿場なので五七。お休み処。
脇本陣跡
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「戸田三弥」像,
幕末維新の際に,大垣藩論を勤皇に統一するのに尽力し,戊辰戦争では大垣藩の軍事総裁として東北各地を転戦し軍功をあげ,
明治新政府の要職を歴任した。
「史跡 お茶屋敷跡」1604年徳川家康が織田信長の造営した岐阜城御殿を移築させた将軍専用の休泊所跡である。
お茶屋屋敷は中仙道の道中四里毎に造営され、周囲には土塁、空濠をめぐらしその内廓を本丸といい厳然とした城郭の構え、
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街道の向かい側の奥まったところに「妙心寺」。「所郁太郎の墓」と「戸田三弥の墓」がある。
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文久元年・1861年10月25日,皇女和宮が赤坂宿に泊られ、見苦しい家があっては失礼だと54軒もの家が建て替えられたと云う。
短期間での建築工事であったため,街道沿いの表側だけ二階建てという珍しい家で,現在も数軒残っている。
幕府から10年返済の助成金が出たが,幕府がすぐに崩壊したので返済金は3年程度でうやむやになって宿の人びとは得したというおまけ話もある 。
皇女和宮之碑・赤坂宿に泊まる
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「美濃赤坂駅」は、東海旅客鉄道(JR東海)と日本貨物鉄道(JR貨物)・西濃鉄道の駅。
JR東海・JR貨物の東海道本線支線(通称、美濃赤坂支線)と、西濃鉄道の市橋線(貨物線)が乗り入れる。
付近の金生山が石灰石を産出するため、石灰石輸送の中継地点となっており、1日2 - 3往復の貨物列車が発着すると云う。
美濃赤坂駅
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次回は、琵琶湖・滋賀県坂田「米原」へ。