syuの日記・気まま旅

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近江商人発祥の地「米原」   

2014-08-26 | 気まま旅
「琵琶湖」は、滋賀県中央部、県面積の約17%を占め、我が国最大の湖。
江戸時代から「琵琶湖」と呼ばれ、都に近い淡水湖「近つ淡海」・近江国の語源である。浜名湖を「遠つ淡海」・遠州国に対する呼称と云う。
琵琶湖の周辺には、縄文・志那湖底遺跡。赤野井河遺跡。湖南遺跡等沿岸に約80所の湖底遺跡がある。
葛籠尾崎湖遺跡は水面下60~80m深湖底の存在している。

伝説に、孝霊天皇5年に一夜にして湖と富士山が出来た云う。「帝王編年記」、地質学的のは、約500万年前、伊賀上野(三重県)地域で誕生し
地殻変動に伴い、北上し約120万年前今の湖になったと云われている。
近江盆地全域の水が流れ込み、自然排水路で、瀬田川―宇治川の峡谷をつくり、京都盆地で木津川・桂川と合流し淀川ー大阪湾へ
東岸は、姉川・犬上川・愛知川・日野川・野洲川などが流入、西岸に安曇川三角州に、東麓の比叡山地が連なり、北部は山地が迫りリアス式湖岸に、
湖中には沖島・多景島・竹生島がある。
豊かな魚貝類と近畿の水がめと我が国最初の国定公園指定になり観光面でも人気がある。
湖の周りは、平野が広がり、北は、福井県・東は、岐阜県・南は、三重県・西に京都府で古代から近江国の政治・文化・経済の中心である。

中山道を、ーで大垣城、「赤坂宿」-「国分寺」ー「垂井宿」-「関ヶ原宿」-「今須宿」-「柏原宿」-「醒ヶ井宿」ー滋賀県「近江・米原宿」で
    大津宿も近い。

            中世・南北朝「近江守護職 佐々木京極道誉」の歴史の町


「滋賀県坂田郡米原町(まいはら)」
琵琶湖の東岸の町、アシの茂る荒野で通行人が道に迷った為「迷原」と呼んでいる。東部は山地、西部は沖積平野の千拓地で、水陸交通の要衝として知られている。西岸の「朝妻筑摩」は、古代から皇室の御厨であった。近世には、南部の番場、北東部に中山道「醒ヶ井宿」で又、米原は北国街道の宿場でもある。1889年 明治22年、「湖東鉄道」で「米原駅」が出来ている。

「青岸寺」
曹洞宗、山号 汲湖山、本尊ー聖観音坐像、14世紀中期守護「佐々木導誉」創建、江戸初期再興している。

              「吸湖山・青岸寺」琵琶湖108霊場会53番札所・近江七福神札所
    

「佐々木 道誉・ 高氏」は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将、守護大名。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。
初めの主君である鎌倉幕府の執権・北条高時より1字を受けて名乗った名前であり、 鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、京極 道誉(導誉)・ 京極 高氏とも呼ばれる。

初めは執権・北条高時に御相供衆として仕えるが、のちに後醍醐天皇の綸旨を受け鎌倉幕府を倒すべく兵を挙げた足利尊氏に従い、武士の支持を得られなかった後醍醐天皇の建武の新政から尊氏と共に離れ、尊氏の開いた室町幕府において政所執事や6ヶ国の守護を兼ねた。

南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られ、「太平記」には謀を廻らし権威を嘲笑し粋に振舞う導誉の逸話を多く記している。

                   歴史を感じさせる見事な庭園(有料)
    

戦国時代に焼失したが、1650年、彦根藩主井伊直澄の命により彦根大雲寺の要津守三が入山し、敦賀の伊藤五郎助の寄進により再興。
1656年 伊藤五郎助が卒したことを悼み、彼の諡である青岸宗天に因んで寺号を青岸寺、山号を吸湖山に改めた。

寺は曹洞宗に改宗し、大雲寺の末寺となった。再興時に作られた庭園は彦根の玄宮園・楽々園築庭のために庭石が持ち出され、荒廃していたが、後に彦根藩士の香取氏により 1678年,に再築。

                        三尊石と枯滝石組
  

「庭園」
江戸時代前期の枯山水庭園。
三世住持の興欣により書かれた「築園記」によると、1678年、興欣の依頼で、玄宮園・楽々園築造に関わった井伊家家臣の香取氏が作庭したとされる。
座視式を基本とする庭園、面積2,717㎡と広大であるため回遊式も兼ねると云う。

背景となる太尾山山腹の斜面地に無数の石を用いた石組み群によって山を築き、巨石で組まれた力強い蓬莱島を前景の焦点としている。
枯池泉における水の流れは、一般的な白砂や土ではなく、杉苔を用いることに拠って柔らかく表現。
多量に用いられた石の白との色の対比を計算したものとされ、近代に建てられた書院「六湛庵」は庭園の風景に溶け込んでいる。

                      江戸時代前期の枯山水庭園
    

「文化財」青岸寺庭園 - 国の名勝(1934年指定)、延宝6年(1678年)再築、・木造聖観音菩薩坐像 - 滋賀県指定文化財、当寺本尊。室町時代永和2年(1376年)作・木造十一面観音菩薩立像 - 米原市指定文化財、鎌倉時代中期作・梅渓の襖絵など。

           琵琶湖108霊場53番札所・井伊家ゆかりの「ふく福めぐり札所」・近江七福神霊場札所。
    

「湯谷神社」
祭神-大己貴命・水門神・保食神
上古出雲国人が諸国を巡ってこの地に至り、里人に池を掘らせると、霊泉が湧き出、又荒地を開墾したところ、五穀がよく成育したので、出雲の祖神大己貴命を小谷の岩上に奉斎した。
温泉は万病に効くと伝えられ、崇敬者が多く、後に水門神、保食神を合祀したと伝えられている。輿地志略に「湯谷は昔此の地に温泉あり諸病を治す。或日葦毛の子を此の湯坪に洗いしより此の湯かるゝ」とある。後白河上皇の御代、日吉の社領となって、当社を山王権現社とも称せられた。今井備中守秀遠は、箕浦庄の地頭職として、当地を治めた故、当社を守護神と崇め、その一族米原氏も社殿を修理し、社領を献じた。文明3年米原山太尾城に激戦があり、当社は焼失したが、天文13年今井氏は、米原氏をして再興せしめ、大山咋命を勧請した。文禄4年岩脇氏は、社殿を修復し神門を寄進した。
享保17年彦根藩主井伊直惟は社殿を再興し、手水鉢、木造狛犬を献じ、明治22年には、三条実美が社号額を寄せている。
境内には明治11年明治天皇北陸巡幸の際小休止された北村邸の行在所がある。
大正7年村社に列し、同年神饌幣帛料供進指定。

例祭,10月第2日曜 ・ 曳山子ども狂言で知られている。
「湯谷は昔此の地に温泉あり諸病を治す。或日葦毛の子を此の湯坪に洗いしより此の湯かるゝ」とある。後白河上皇の御代、日吉の社領となって、
                    「山王権現社」とも称せられた
    

「太尾山城跡」
南北朝に遡るお城で、「佐々木氏」が近江の守護に任ぜられた時に築城したと伝えられている。
鎌倉時代に京極氏の居城となり、その後、京極・浅井氏と六角氏との勢力争いが繰り返され、1573年、織田信長に攻め落とされている。

            鎌倉時代に京極氏の居城「太尾山城跡」・湯谷神社裏山に城跡が)


海抜254mに位置し、北鈴鹿霊仙山系の最西端にある太尾山は、
JR米原駅の東側にある里山。城跡は堀切を挟んで北城と南城に分かれ、「別城一郭」とよばれる構えとなっている。
ハイキングコースが整備されており、山頂からは伊吹山が望める。

米原山太尾城に激戦、湯谷神社は焼失したが、今井氏は、米原氏をして再興せしめ、大山咋命を勧請したと云う。土塁堀部・曲輪・主郭跡が。
    

戦国時代には京極氏、佐々木六角氏、浅井氏、さらに織田信長を登場する戦乱の舞台となった「米原」。
佐々木京極氏が建立した青岸寺、太尾山城の守護神として敬われた 湯谷神社など、、。
古い宿場町の雰囲気を味わいながら、中世の歴史に 。

    

近畿・東海・北陸の結節点、「米原」、古来から交通の要衝として栄えてた。
1603年に、現在の「JR米原駅」のあたりに米原湊が開削され、琵琶湖水運の拠点として利用され、米原の発展の最初のきっかけ。
1611年には中山道の番場宿と米原湊を結ぶ連絡路が開通し、米原は物資の集散地として大きく発展し、明治に入ると鉄道が開通、
巨大な駅が設けられたことから米原は鉄道のまちともいわれた。が、駅の周辺はさほど発展が進まず、旧北国街道沿いも現在は忘れ去られたように
ひっそりとしている。

「米原駅」は、東海道線・新幹線・北陸線・近江鉄道線・中山道・国道8号線・北国街道が集結している町
     

「近江商人」
物資と人の流れの活発さは、「近江人」に多様な文化を生んでいる。近江商人と云えば行商、一定の販路を開き「資本」をつくり、出店を広げる方式で、
販路の行商の途中で「販売・仕入」をすると云う効率的商業活動、その先がある出店相互間で回転させ、各地の需要供給と価格差に注意を払ったと云う。
生活必需品を、時・所・機会に合わせたと云う。
行商は、単身赴任・独立採算制・地方出身採用現代的経営している。

琵琶湖の流れ込む「天野川」平安末期の朝妻の湊「舟遊女が朝妻に乗って、湖上を旅する、、、、、」
  

788年最澄、比叡山寺建てる・1184年源義経軍・義仲を粟津原に破る・1467年応仁の乱で東軍京極兵と西軍六角兵が戦う・1473年京極氏近江守護に
1568年織田信長、六角氏「箕作城」攻略・1571年信長、比叡山を焼き討ち・1574年羽柴秀吉、「長浜城」に入る。

現在の「JR米原駅」                        近江商人発の地碑
  

次回は、長浜へ。