syuの日記・気まま旅

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国府台~下総台地の桜

2015-04-09 | 気まま旅

千葉県市川市は、県の北西、川を隔てて江戸川区と接し、市名は、江戸川の下流、市場が開かれていた所からなど諸説はいろいろ。
市川は、歴史の町とは知られていない。
下総台地の緑地には、古代の遺跡が多い、縄文の中~後期で、最も古いのに「姥山貝塚」、我が国の初の集落遺跡と云われている。
堀之内貝塚・曽谷貝塚・環状馬蹄形貝塚がある。
その後、大化の改新により、国府台には「下総国国府」が置かれ、国分寺・国分尼寺が建立され、政治と文化の中心地。
戦国時代に入ると、「安房里見氏」と「小田原北条氏」合戦場となる。その後、北条氏の支配を得て江戸時代、江戸幕府も市川国府台は、
幕府直轄の緒領地、寺社領地に。
「下総中山」は、日蓮宗五大本山の一つで法華経寺の門前町であった。行徳付近は、利根川水運の河港と成田参詣の拠点、昭和初期まで東京湾の最大塩田地帯である。

下総台地


第二次世界大戦時は、軍の下士官養成機関の教導団が設置され、終戦まで兵舎に野砲兵連隊があった。
国府台の桜並木は、その当時の老木巨木の桜木が今でも残されて、当時を偲ばせてくれる。

下総台地(4/4の桜)


国府台と云えば、万葉集伝説歌を収めた、真間の玉児奈橋
                「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈けむ手児奈し思ほう」、、、。

又、芭蕉・一茶も訪れており、勝海舟が別宅を構えている。
永井荷風や幸田露伴や谷崎潤一郎、慶応義塾鈴木恒男教授や歴史文学の中国の郭沫若が1928年から10年市川で波乱万丈の生活を、戦前まで兵舎であった所には、東京巣鴨商業専門学校(巣鴨商専)現在の単科大・千葉商大がある。

                弘法寺-山号・真間山「日蓮宗」


「弘法寺」ー三宝尊と伏姫桜ー
奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとれ、平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。
その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗。

大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受け、室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、徳川家康より朱印地30石を与えられる。
江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈られ、紅葉の名所として知られる。
諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されていると云う。
明治時代、火災のため諸堂は焼失し、その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、
伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。

市川真間からの階段           一茶の句碑               仁王門
    

仁王門            鐘楼                         樹齢400年の伏姫桜
    

境内の桜          朱雀門と呼ばれる「赤門」右に里見竜神 堂   太刀大黒尊天
    

千葉商大校庭の桜


千葉商大校庭の桜並木
    

国府台は、源頼朝より下総の守護に任ぜられたのが「千葉氏」の守護所が置かれている。
下総台地の西南端の位置と云う。戦国時代「太田道灌」により築城されたと云う。

千葉商大付近


国立国府台病院裏手に下総国分寺跡・下総国分尼寺跡・曽谷貝塚・松戸寄りに堀之内貝塚が。
桜の名所・里見公園(国府台城跡)は、江戸川方面に。

国府台運動公園入口


次回は、里見公園へ。