syuの日記・気まま旅

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国府台城跡と矢切りの渡し

2015-04-11 | 気まま旅
「安藤(歌川)広重」1797-1858-江戸八代洲河岸生まれ。

歌川豊国は、歌川豊春の門下生・役者絵が得意の門を叩いたが満員ー歌川豊広の門人、印象派西洋芸術に影響を受けている。
代表作ー東海道53次・60余州名所図会・江戸名所百景。

歌川広重画「名所江戸百景・鴻の台利根川風景」、今の国府台付近。


「古河公方・足利成氏」
1447年に足利持氏の子、「成氏」が幕府から鎌倉公方就任を許されて復活。
後に幕府と対立した成氏が、1455年に下総国古河を本拠として「古河公方」と名乗るようになった(享徳の乱)。
この乱によって鎌倉府は消滅し、古河公方は公方と近習(鎌倉府奉公衆の後身)が政務を行う体制に規模を縮小させたものの、享徳の乱終結後は関東管領とともに関東地方を支配する形態(「公方-管領体制」)を曲がりなりにも1570年代まで継続した。
(ただし、最末期は北条氏が関東管領の権限を事実上掌握)させており、引き続き関東地方の支配者としての権威を保ち続けていたと云う。

鎌倉公方ー足利義詮ー基氏ー氏満ーー氏兼ー持氏・ー古河公方「成氏」、室町時代の幕府は、鎌倉府「関東官僚」設置、上杉氏は、その、執事であったが、いずれ、執事であった上杉氏が取って代わり「関東官僚」に。

「里見公園」は、市立公園。春の花見の名所 、面積8.2haと広い。江戸川の流れを見下ろす高台、15世紀、太田道灌が仮陣を建設


「里見義弘」 1530-78  庶民の落首を重視した善政の南総の武将。
安房国の戦国大名・佐貫城主・上総国制圧後、下総国へ進出すべく、上杉扇谷定正の執事太田道灌が仮城を国府台に築城。後里見氏が城を築城する。
小田原北条二代目(早雲の子)北条氏綱が、(鎌倉時代の執権北条氏の名で改姓した)扇谷上杉朝興を破り武蔵国制圧し、1538年北条氏綱と激突、
足利古河公方・里見軍は大敗する。
上杉謙信、武田信玄と同盟を結びながら、一貫として北条氏を敵対したと云う。
1564年、北条三代目氏綱の長男(武蔵国日本三大夜戦で河越城を破る)とも戦っている。
最後は、里見氏は、講和している。(館山に北条海岸の名が残っている)

「里見義弘」は、領民を大事にした大名で、落書に自由に申し出て良いと云う法律・公認している。他に例が無い。
また、実際に、代官の福原信濃守を批判する狂歌を取り上げ解任させている。
義弘ほど領内を巡視した大名は珍しいと云う。人々の意見を取り入れ善政に生かした大名の姿勢を知ることができる。
また、大酒飲みで臓腑が破れ没したとある。

公園入口の桜並木 満開時は桜のトンネル                     桜祭り
    

「北条軍の反撃」足利・里見軍は、一時勝利に気をよくし、里見義弘は、出陣が正月早々であった事を配慮して兵士たちに酒を振舞う。
だが、遠山・富永の早い段階での潰走によって主力を結果的に温存する事になった北条軍は、撤退したと見せかけて、翌8日未明に再度江戸川を渡って
里見軍に夜襲をかけたのである。
酒宴の後の里見軍は大混乱に陥った。更に北条軍の工作で里見軍の主力である土岐為頼(一説には義弘の外祖父ともいう)が義弘を裏切って戦場を離反、筆頭重臣正木信茂は戦死し、義弘は同じく重臣の安西実元が身代わりとなり、合戦直前に里見側に寝返ったために戦場に遅参してきた土気城主酒井胤治に救出されてやっとのことで戦場を脱出したと云う。(第二次国府台の合戦から)

国府台城址の碑


「近年の再検証」で、合戦の経過記録は永禄6年1月の戦いと翌永禄7年1月の戦いが混同されて出来上がったものであるとの考えが有力視されている。
6年にも本格的な戦闘があったとする史料の存在が明らかになり、従来は7年のものの誤記と考えられてきた記録も、単純に誤記と信じるわけには行かなくなり、 1月8日未明の奇襲については永禄6年とする記録があることに加えて、現存する北条氏による発給文書において永禄7年の戦いで里見軍を潰走させた日付を2月18日としているものが存在すると云う。
戦後、永禄7年の戦いの後、北条軍は一気に上総にまで進出して、土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させている。
だが、苦境に立った里見軍は却って積極的な軍事行動によって北条軍を牽制し、三船山の合戦での勝利により北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、両氏の戦況は再び膠着するとある。
小田原北条氏と里見氏の確執の場、数次に渡る激しい戦いは激しく、 国府台は江戸という肥沃で広大な平野を一望に見渡せる重要な戦略拠点。
この台地をめぐって何度も血腥い争いが繰り広げられた。
中でも有名な戦いが、天文7年(1538年)の第一次国府台の合戦、永禄7年(1564年)の第二次国府台の合戦である。

第二次国府台の戦いは、里見義弘(義尭の子)・太田資正の連合軍と、北条氏康(早雲の孫)の間で繰り広げられた。


公園内は、花見客で混雑


「北原白秋」 (旧宅の紫苑草舎が)1885-1942 与謝野鉄幹に不満で「明星」を退き、「パンの会」結成、「邪宗門」「思い出」
        「桐の花」抒情詩人と云われ民衆に親しまれて。「赤い鳥」で詩と音楽に著作200冊に上る。福岡出身。

白秋の旧家が展示


僅かに残る土塁・堀跡 郭跡
    

この2回の戦いで多くの将兵が討死にした。
今でも土を掘り返すと茶碗のかけらや、武具の切れ端が見つかることがある。
里見公園内には戦死した将兵の霊を鎮める江戸時代の石碑が建っている。
江戸川を見渡す崖のあたりは樹木がうっそうと繁り、今にも箙に矢を立てた血まみれの鎧武者が現れそうだ。
夜中になると泣き声が聞こえるという言い伝えの石もある。

「羅漢の井戸」 国府台城の飲み水場 里見軍は、5000人以上の戦死者が 夜泣きの石
    
太田道灌が築城工事中、出土したと伝わる「明戸古墳跡と石棺」

里見公園から見る江戸川と東京葛飾方面


里見広次・正木内膳らを始め5千の戦死者を出し、里見義弘 は安房に敗走。以後、この地域は北条氏の支配を受け、1590年に 徳川家康が関東を治めると国府台城は廃城

    

「松戸、江戸川と佐藤左千夫」 1864-1913 歌人・小説家
15歳の政夫と二つ年上の民子との悲恋を描いた「野菊の墓」は、初めての小説,明治39年、夏目漱石も感激して左千夫宛に絶賛の手紙を送ったという。
田園風景とゆったりと水をたたえた江戸川、私は勝手に「江戸川を哲学の川」呼んでいる。

江戸川には、今も残る一艘の渡し船「矢切の渡し船」がある。川に橋を架けることを堅く禁じられていた江戸時代、地元民の人々のみ「渡し」を使い、生活の足としていたと云う。
松戸市域にはほかに2つの渡しがあり明治期まで続いていたが、常磐線の開通や葛飾橋(木製)の開設などによって利用者が激減、今は矢切の渡しを残すだけとなっている。

    

左千夫は,茶道にも通じており、子規から「茶博士」と呼ばれたほどで、自宅に一戸建ての茶室を欲しており、友人である蕨真の助けを借りて、自邸内に茶室「唯真閣」を建立したと云う。(現在では生家に移築)

「北総線」の陸橋、葛飾京成高砂駅と千葉県印西市の印旛日本医大駅を結ぶ、北総鉄道。


「江戸川」は、東北地方や北関東からの物資を涸沼・霞ヶ浦・銚子から利根川経由で江戸へと運ぶ流通幹線。
房総半島を周回する海路よりも距離が短く安全性も高かった。江戸川周辺からも、野田の醤油、流山のみりんなどが産物として江戸に運ばれ、
重要な川。歴史もあり、古くは、太日川・太日河と呼ばれ、渡良瀬川の下流部で、利根川とは別に江戸湾へと流れている。
更級日記、吾妻鏡、義経記などにも「太日川」を渡ると云う述が見られる。



「矢切りの渡し」ー船村徹作曲ー

      ついて逃げてよ、、、 ついておいでよ、、、夕暮れの雨が降る 矢切りの渡し
      
                      親の心に そむいてまでも 恋に生きたい ふたりですー

舟で渡れば東京葛飾


「矢切りの渡し」付近は、「国府台合戦」の戦場となった場所,この付近から国府台付近にかけて、伝説や史跡が多く伝わっている。
    

矢切りの渡し船で、    静かな江戸川を        葛飾柴又へ柴又公園は、さくら祭り
    

次回は柴又帝釈天へ。