本日は、syu散歩の約7kmのコースをご案内する。
普段は、4km程度で家から東(Aコース、阿佐ヶ谷方面)・南2コース(B・Cコース善福寺川緑地公園ー大宮神社)・西(Dの西荻コース)。
7kmコースは、Eコースで月2~3回歩いている。
家を出るのが、早い昼食の午前10時で、10時半には、スタートする。
方向は、Dコースで西に向かい宮前・体育館ー公園ー春日神社のバス通りを
五日市街道ー井の頭通りー宮前一丁目ー久我山小学校
京王井の頭線富士見が丘駅前から踏切を渡り神田川「月見橋」を
この辺は、高井戸の浴風園老人施設がある。住宅街を抜けると中央高速高井戸ICガード下に出る。
高井戸杉並区から世田谷区の南烏山の「京王帝都、芦花公園駅」
「世田谷文学館」
文学館は、都世田谷区南烏山にある博物館、
1995年に東京23区初の近代総合文学館として開館。運営は、公益財団法人せたがや文化財団。
東京都道311号環状八号線と蘆花恒春園の近くに位置し、隣には、ウテナ創設者「久保政吉」の旧邸宅がある。
「世田谷・粕谷」
江戸時代には天領となり、ちゃんとした村が形成されたのは1648年頃と推測、天領のため開墾が積極的に進むことなく、明治。
明治40年には文筆家の徳冨蘆花が青山から引っ越し、
当時の様子を「みみずのたはこと」に書いていますが、人家はまばらで、四方が寂しく、色々な物音が響くと表現しています。
大正九年の国勢調査でも33世帯、235人となっているので納得です。この「みみずのたはこと」は大正時代の粕谷の貴重な記録となっている。
蘆花が暮らした家は蘆花の死後に遺族が都に寄付し、現在の「蘆花恒春園」として公開されている。
「粕谷・八幡神社」
蘆花恒春園の隣地に鎮座する旧粕谷村の鎮守。 地名から、粕谷八幡神社とも呼ばれる。
祭神ー誉田別命(応神天皇)・創建は不明。鎌倉時代、当地は粕谷氏の所領であったことから、粕谷氏が勧請したとする説
2,000m2を超える敷地、本殿は1959年(昭和34年)に放火により焼失、再建。
境内社に御所神社がある。祭神は、厳島姫命、宇迦御魂命、日本武命、淤母陀琉命、疽神。
「別れの杉」-徳富蘆花が客人をこの杉の下で見送ったとされ、名づけられた杉。太平洋戦争後に枯れ、二代目が植えられている。
祭は10月11日。
「徳冨健次郎(蘆花)」1868ー1927 トルストイに傾倒した自然派作家・蘇峰の弟・熊本生まれ、同志社入学、89年兄の民友社に入る。
「国民の友・不如帰」連載し小説家に、1903年黒潮社設立「黒潮」刊行、兄と訣別、エルサレム聖地巡礼の旅に、後トルストイを訪問
帰国後世田谷粕谷二居を移す。15年ぶりに兄蘇峰と和解し、世を去っている。
「蘆花恒春園」
明治・大正期の文豪、徳冨蘆花(健次郎)と愛子夫人が、後半生を過ごした住まいと庭、それに蘆花夫妻の墓地を中心とした公園。
「徳冨蘆花旧宅」として、昭和61年3月東京都の史跡に指定。
蘆花が愛した武蔵野の面影をしのばせる竹林や邸地とともに寄贈された身辺具、作品などの遺品を収めるために昭和34年に建設した蘆花記念館
夫妻の墓なども園内に点在する。
「トルストイ」の「われら何をなすべきや」に感動し、トルストイ人道主義に共鳴し、訪問を決意したと云う。
トルストイは、「トクトミ、君は、農業で生活することは出来ないかね」と云われ、蘆花は、自然の中で農業生活を決心している。
当時は、府下北多摩郡千歳村粕谷と云う農村地であった。
蘆花は、ここの地を永住の地とした。
自らを美的百姓と称し「晴耕雨読」の生活を送りーみみずのたはこと・黒い眼と茶色の眼・新春・冨士、、。作品を書いている。
昭和11年の蘆花没後10周年忌に際し、愛子夫人から当時の家屋、耕地など旧邸地の一切が東京市に寄贈され、市では昭和13年、夫人の意向に沿って、武 蔵野の風景を保存し、公園として公開を開始しました。これらの建物は老朽化により昭和58年~60年度にかけて改修を行い、「徳冨蘆花旧宅」として、昭和 61年3月10日東京都の史跡に指定されました。 【見どころ】 蘆花が晴耕雨読の田園生活を送った恒春園区域内では執筆活動等往時の生活の様子を伺い知ることができます。 花の丘区域では公園友の会、地域の小学生達と協働して育てあげた季節の花が咲き揃います。(蘆花が好んで育てた花々も園内に彩りを添えます)