箱根登山鉄道は、箱根湯本駅ー入生田ーかぜまつりー板橋ー小田原駅
入生田駅下車、長興山に向かうと駅から約8分で「紹太寺」(稲葉一族・春日局の墓)その奥に鉄牛和尚の寿塔と長興山のしだれ桜。(数回掲載済み)
「稲葉正成」-義父とともに豊臣秀吉に仕えたが、やがて、 秀吉の命を受けて小早川氏に入った秀秋の家臣(家老・5万石)となる。
四国・小笠原征伐で活躍し、朝鮮出兵(慶長の役)では秀秋に従軍した。1600年の関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、
小早川秀秋を東軍に寝返らせることに成功する。
林政秀の次男。母は安藤氏。 正室は美濃の稲葉重通の娘であり、婿となり姓を林から稲葉と改め,稲葉正次など2子をもうけたあと重通の娘に先立たれ、
継室として稲葉重通の養女である福(春日局、斎藤利三の娘)を迎えると、 稲葉正勝(次男)、稲葉正定(三男)、稲葉正利(五男)をもうける。
しかし、継室の福が1604年、 家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母として志願し、 京都所司代板倉勝重によって採用されると、妻である福と離縁した。その後は継々室として山内康豊の娘を妻に迎え、間に稲葉正吉(十男)をもうける。 他に養子として稲葉政貞がある。
「春日局」1549-1643 明智光秀重臣「斉藤利三」の娘、辛い生活後、「稲葉正成」に嫁して四男をも受け離婚。三代将軍徳川家光乳母。信任を集めて
大奥の実力者に、実子「稲葉正勝」養子「堀田正俊」は、春日局のコネで老中まで出世している。
小田原箱根道路を渡り、地球博物館・早川(太閤橋)・石垣山(261.1m)の山越えをする。(石垣山を越えるとJR東海道本線早川駅)
「早川石丁場群」
発掘調査が行われ、一夜城・江戸城築城の、切り出した石を運んだ道や石丁場で多数の石が発見され、当時の作業工程が判ると云う。
石垣山の名は、小田原北条氏を包囲するための本営として広大な石垣積みの城が築かれたことによる。
豊臣秀吉の策略により、一夜で築城したようにみせかけ途ことから「太閤の一夜城ともよばれている。
昭和62年「歴史公園」として整備され、公園内では往時の石垣が見られる。(国指定史跡)
「笠懸山」
1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれる。
面積ー面積7500m2.
豊臣秀吉軍が天正18年の1590年、「小田原征伐」。
小田原城の西3kmにある「笠懸山」の山頂に構築した石垣山一夜城は、小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、
北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる(一夜城の名もそれに由来)
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城、約3~4万人を動員し、80日で構築されたと云う。
豊臣秀吉は、この城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えている。天守があったかは不明であるが、天守台跡は残っている。
関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて残っている。1959年に国の史跡に指定、
現在は石垣山一夜城歴史公園として整備。
城郭構造ー悌郭式山城
石垣の野面積みは、加工されていない石を用いたもので、築城に際しては、近江の石工集団「穴太衆」が呼ばれたと。
遺構-石垣、曲輪、堀切、井戸
二の丸北東の谷地の周囲に石垣を積み上げて造られ、底には井戸が掘られている。この井戸は淀殿が化粧に使ったということから「淀殿化粧井戸」、
井戸曲輪がさざえのような石垣であることから「さざえの井戸」と呼ばれている。
井戸曲輪の石垣は関東大震災にも耐え、石垣山城の中でも当時の面影を残している。
1923年(大正12年)関東大震災で大部分の石垣が崩壊。
長期戦に備えた城構えで、小田原攻めの本営としてだけではなく、秀吉の威信を示すものだった.
滞在100日の間、淀殿や千利休が呼ばれ茶会が催され、天皇の勅使を迎えたり、能役者や猿楽師も呼ばれたという。
小田原落城後、秀吉は家康の駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を召し上げ、後北条氏の旧領、武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野の一部・常陸の一部の関八州へ移封した。
「豊臣秀吉」 1537-98 尾張国中村・木下藤吉郎、織田信長に従い近江国長浜を領す。明智光秀・柴田勝家を滅ぼし、徳川家康と戦い講和
島津氏を下し、小田原北条氏を滅ばし「天下統一」関白・豊臣姓を与えられた。
築城の材木を筏に組み川を下る・家康に妹、74才の実母を人質に送る・降伏した者は許している・晩年「秀頼」が生まれると後継者関白秀次を殺し
・五大老に「秀頼」を最後までお願いしている。最下層から天下人に。
「淀殿」近江小谷城主「浅井長政」の娘、幼名茶々、母信長の妹、お市の方。秀吉の側室、淀城を与えられ「淀殿」と呼ばれた。ここ小田原に
諸大名の妻たちも呼んで、自ら「淀殿」呼び寄せている。大阪城落城と共に生涯を終えている。
「天利休」織田信長の茶頭の一人、朝廷から「利休」の名を授かる。小田原合戦に同行している。陣中で茶会をも催した。
動員兵力北条氏政・氏直軍54000・秀吉軍21万~22万の大軍
「羽柴(豊臣)秀次」近江八幡43万石城主、小田原合戦では、先鋒として、山中城を攻め落とし、韮山城・小田原城包囲に加わる。後秀吉の養子に
なり関白に就任
「徳川家康」織田信長と同盟し、東海中部一帯勢力拡大、娘「督姫」北条氏直に嫁いでおり、氏直にも秀吉に従う事を進めている。小田原攻めが決まると
大軍を率い先鋒として出陣、酒匂川に陣をしいた。
「宇喜多秀家」岡山城主、秀吉の養女となった前田利家の娘を妻とし、両家と姻戚関係に50万石を治めた。北条氏房に酒と肴を贈っている。
氏房も伊豆の酒を返礼したとも。
相模湾水軍毛利・九鬼・長宗等と石垣山海から木村・長谷川・堀・池田・細川・宇喜多・羽柴・黒田・蒲生、、、。全戦後に豊臣秀吉
「伊達正宗」米沢城主伊達輝宗の子、小田原合戦に、則、参戦せず、遅れを責められ領地一部没収されている。家康に近ずき伊達62万石を
仙台城を築いている。
「堀秀政」信長の伊賀攻めで近江長浜城主となっている。秀吉紀州攻めで活躍で、越前・加賀18万石を、「北庄城」に入る。石垣山の前衛に陣。
山王川には、海側から羽柴秀長・榊原・大久保・奥平・酒井・織田信雄、、。その後に徳川家康が
次回は、早川へ。