syuの日記・気まま旅

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元首相・鈴木貫太郎邸跡へ

2015-04-15 | 気まま旅

埼玉県栗橋・茨城県五霞・千葉県野田と利根川・江戸川の分離地点。ここは、千葉県野田市利根川と江戸川の間、「関宿」に来ている。
「野田市」千葉県の北西端・下総台地上「野田右馬介」の所領であったとも云う。
野田と云え、醤油の町で知られている。江戸川水運で江戸時代に、豪農・豪商が相次いで製造に参入し、江戸中期には、上方の下り醤油を駆遂し、
銚子をしのぐ勢いとなった。1781~1887年仲買から醤油醸造組合を結成、現在全国の3分の1を占めている。
「利根川」上流の利根郡の本流沿いをー利根入り・支流の赤谷川沿いをー利根西入り・片品川沿いを利根東入りと云っている。
我が国代表する大河として「坂東太郎」の称がある。筑後川の筑紫次郎・吉野川の四国三郎と共に兄弟の名を持っている。又、関東平野を潤す母の川
でもある。現在も、首都圏の水需要の大半を供給し、千葉県は、6割以上利根川に頼っている。
江戸時代から「関宿城・関所」は重要地とされた。

「日光に通じる道」
日本橋から宇都宮で奥州街道から分かれる本街道に対し、専ら将軍の参宮に使われた日光御成街道、中山道から直行する日光例幣使街道、本街道の小山から近回りする壬生通り、奥州街道大田原から西進する日光北街道、会津とを結ぶ会津西街道、そして水戸街道から分岐し日光街道の石橋宿・雀宮宿の中間地点に合流する日光東往還などの脇往還があった。
「日光東往還」は、山崎、中里、・関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10宿が置かれた。約80kmの街道である。

道路拡張で「庚申塚・塔」は、消えていく。


「葛飾坂東観音霊場」は、茨城県古河市・五霞町・八千代町、栃木県野木町にある観音霊場の総称。
1714年、33ヵ寺の霊場にて開創。のちに追加されて、現在は 41ヵ寺からなる。その一番寺。

「実相寺」
1 番札ー山号・宝篋山、本尊ー 千手観世音菩薩、 真言宗豊山派 。
五霞町元栗橋ー 観音堂は明治11年に古河・長谷寺から移築 されたと云う。

    

「光岳寺」-納谷首切り塚・関宿城旧藩主居住地に近い、住所は関宿新町
徳川家ゆかりの寺院、1602年将軍徳川家康公の異父弟「松平康元」・母「於大の方(伝通院)の為に創建された寺院、当初は「弘経寺」と云った。
後に、家康公の命により改名された。

    

山道沿いに金仏様「地蔵菩薩」は、

本堂             地蔵菩薩・松平康元建立        江戸川方面に関宿城址が見える
    

関宿藩の城下町として栄えた町。
1871年(明治4年)の廃藩と昭和以降の水運の衰退・消滅によって小都市としての独自性は失われた地域。
関宿城の遺構は利根川や江戸川等の合分流点付近に位置し明治以降に行われた河川改修のために保存状態が極めて悪く、元の武家屋敷等もあまり残されていない。
「城下町」としての景観はない。この神社も、下総国なりし中世の頃、その一宮香取神宮の御祭神経津主命を奉斉し爾来神統守り伝えているのであろう
1912年 稲荷雷電の神々を合祀して現在に至っていると思う。

                   光岳寺前に鎮座する「香取・稲荷神社」
    

「鈴木貫太郎」  1867-1948(昭和23年) ポツダム宣言受諾の途を開いた元首相・海軍軍人・大阪生まれ
1887年海軍兵学校・大学校卒、海軍大学校教官・ドイツ駐在武官・日露戦争第二駆逐隊司令として日本海海戦参加・海軍次官・海軍大将・連合艦隊司令長官・1929年予備役編入・待従長兼枢密顧問官で、昭和天皇の信任厚い・2.26事件で襲撃を受け重傷を負う。
小磯内閣の後を受け首相ー米内光政・東郷茂徳らと協力し「ポツダム宣言」を受諾し太平洋戦争終結に導いた。敗戦直後辞職引退。

    

明治4年、本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。明治10年、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、
明治17年、に海軍兵学校に入学(14期)。
日清戦争に従軍。明治31年、海軍大学校を卒業。鈴木は生涯に2度の暗殺未遂を経験している。
幼い頃から何度も死にそうな目にあったと云う。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かっている。
明治21年に、会津藩士の大沼親誠の娘、「とよ」と結婚。とよの姉は出羽重遠夫人。
当時の海軍では旧薩摩藩出身者が優遇され、鈴木のような旧幕府系の者は進級が遅かったと云う。
ドイツ駐在中の1903年(明治36年)、

「鈴木貫太郎記念館」
大日本帝国海軍軍人で第42代内閣総理大臣を務めた「鈴木貫太郎」ゆかりの品を展示。(野田市立記念館)無料

  

館内には、 貫太郎氏が愛用していた海軍時代や侍従長時代の礼服、当時を偲ばせる遺品が 数多く展示。
白川一郎画伯の描いた「最後の御前会議」の油絵が、

    

「利根川流域の洪水史」より
江戸時代初期、幕府は江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川の本流を、流路の締め切りや開削を繰り返しながら銚子河口へ流す大工事、いわゆる利根川東遷事業を実施するとともに、関宿から分流させる江戸川の開削され、以後も洪水対策を主体とした改修工事が行われ、その過程で築堤や護岸水制など様々な改修技術が創案されてきた。が、数多くの洪水が人々を恐怖と苦難におとしめた。

全長約322km・我が国最大の河川「利根川」 
「蛇籠」河川の護岸工事の際、籠の中に玉石や割石を詰めて、水の流れを抑えるために用いた物、多くは応急工事、暫定工事に使われ、蛇籠の並べ方は、「立て籠」が一般的ですが、まれに「複籠」として並べることも。蛇籠に利用された素材としては、竹の他、柳、そだ、鉄線など。


〔寛保2年(1742)の洪水〕
江戸時代最大の洪水と言われ、利根川上流部の舞木・赤岩・北河原及び新川通が破堤し、関宿城も大破。
荒川でも各所で破堤したため、埼玉平野で甚大な被害が発生し、江戸市中も浸水したと云う。

〔天明6年(1786)の洪水〕
7月の浅間山大噴火によって降灰や火砕流、溶岩流が発生し、数多くの人命や家屋、馬などの家畜を失い、その後の天明の飢饉の要因にもなる。
この噴火で大量の火山灰が吾妻川から利根川へ流れ込み、利根川上流部を中心に河床が急激に上昇。
このことが3年後の洪水の被害を拡大させることとなり、江戸市中も浸水し、永代橋や両国橋が流失した。

先人たちがコツコツ築堤工事を、「土羽打唄」が各地の残っている。「浚渫工事」川底の土砂を取り除く
    

安政の大洪水〕
江戸幕府が鎖国から開国へと政策を転換させましたが、他方洪水や地震、コレラの流行など数多くの災害が発生。
安政3年(1858)の洪水では利根川や渡良瀬川の各所で破堤し、数多くの人命が。

〔明治23年の洪水〕
8月上旬から雨が続き、22日には暴風となり、利根川は「9合水」「10合水」に達し、千カ所余りで堤防が決壊破損し、関宿では約30戸の家屋が流失するなど、流域各地で大きな被害を。

関宿水閘門・水位の調節する水閘門・明治33年利根運河(野田ー流山ー柏)は、水堰橋など壊れ運河の役割は終えている。
  

これらの経験をもとに国土交通省などでは、
洪水予防の治水対策及び貴重な水資源を確保するための利水対策を現在も行い、近年では、単に川を氾濫させないという治水対策から考え方を変換し、
流域全体の町づくりとともに洪水対策を行う総合的治水対策の推進に力が入れられていると云う。
人々に潤いと安らぎを与えてくれる河川は私たちの貴重な財産であり、自然と人間が共存できることを目的とした整備が進められている。

明治43年・昭和22年(カスリーン台風)が。                     浚渫船が展示
  

次回は、関宿城址へ。