「七草」
年初に雪の間から芽を出した草を摘む「若菜摘み」、古くから風習が、「七草」の原点。
六朝時代の中国の「荊楚歳時記」に「人日」(人を殺さない日)である旧暦1月7日に、「七種菜羹」という7種類の野菜を入れた「羹」
(あつもの、とろみのある汁物)を食べて無病を祈る習慣が記載されており、「四季物語」には「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば
一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」とある。
このことから今日行われている七草粥の風習は、中国の「七種菜羹」が日本において日本文化・日本の植生と習合することで生まれたものと考えられ、
古くから七草を食す習慣が行われていた。
特に古代において「七草」の詳細については記録によって違いが大きい。
「延喜式」には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・ひえ・みの・胡麻・小豆の七種の穀物、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていたようだ。
この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。
餅がゆの由来については不明な点が多いが、
「小野宮年中行事」には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(宇多天皇宸記、寛平2年2月30日条)。この風習は、「土佐日記・枕草子」にも登場。
旧暦の正月(現在の1月~2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた。
現在の7種は、1362年頃に書かれた「河海抄」(四辻善成による「源氏物語」の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。
これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている。
江戸時代頃には武家や庶民にも定着し、幕府では公式行事として、将軍以下全ての武士が七種がゆを食べる儀礼を行っていた。
「秋の七草」-おみなえし(女郎花)・ おばな(尾花)・ ききょう(桔梗)・ なでしこ(撫子)・ ふじばかま(藤袴)・ くず(葛)・はぎ(萩)
覚え方ー「おすきなふくは」・「おきなはすくふ」・「ハスキーなクフ王」
「春の七草」-せり(セリ科)・ なずな(薺)(ぺんぺん草)・ ごぎょう(御形)・ はこべら(繁縷)・ ほとけのざ(仏の座)・ すずな(菘・蕪)
すずしろ(蘿蔔・大根)
[京王線]
ー京王八王子ー北野ー長沼ー平山城址公園ー南平ー高幡不動ー「百草園」ー聖跡桜ヶ丘ー中河原ー分倍河原ー府中・・・・新宿
高尾山口ー高尾/
百草園駅(駅前通りは、川崎街道)

「川崎街道」
神奈川県川崎市川崎区から都稲城市を経て府中市に至る主要地方道。接続線国道1・15・246・132・409号線。
府中街道の起点を示す標識は、西行き車線では南河原架道橋へ下る坂の途中に、東行き車線では幸町交差点附近に建てられている。このほか、架道橋南側で西行きと東行きの車線が分離する地点に建つ柱にも「府中街道」の表示がある。
高尾山ー八王子ー日野の「浅川」・この先で多摩川に合流。

「七生丘陵」
日野市の南側、多摩丘陵が。丘陵地を日野では、旧七生村にちなんで「七生丘陵」と呼んでいる。
七生丘陵は、京王百草園から平山城址公園までの散策路を、「七生丘陵散策コース」として設定。
百草園、多摩動物公園、多摩テック、そして高幡不動尊があり、また、住宅開発によって失われた部分もあるが、まだまだ多くの緑が残り、
里山の雰囲気を味わえるなだらかな道が続いている。
街道から百草園入口の急坂は、厳しい。やっと登りきり見ると「本日休園」でした。

「丘陵」
なだらかな起伏や小山(丘)の続く地形、地形学では高度や起伏が山より小さく、台地より大きいものを指す。
およそ100万年前から30万年前に生じ、山地よりも小さな規模のもので、日本では概ね海抜300m以下程度のものをいうと云う。
日本国外では1,000m以下のものを指す場合もある。日本では、宮城県の松島丘陵、千葉県の房総丘陵、埼玉県の狭山丘陵などが知られている。
ここ、多摩丘陵は、土地利用の進んでいる丘陵地帯が数多く見られる。
百草園のある「七生丘陵」
「京王・百草園」
江戸時代の享保年間の1716 年~、小田原城主大久保候の室であった寿昌院慈岳元長尼が徳川家康の長男・信康追悼のため当地に「松連寺」を再建。
その後、時代を経て作られたのがー京王百草園。
園内の有名な「寿昌梅」は、寿昌院自ら植樹したと伝えられている。
梅の開花の季節には約50 種500 本の梅たちが咲くと云う。
豊かな自然を残す多摩丘陵。
園内の見晴台からは付近の自然が楽しめるほか、晴天であれば新宿新都心、東京スカイツリー、そして松連庵前広場からは筑波山も望めるとも云う。
入園料¥300
百草園近在に、鎌倉時代、関東御祈祷所「幻の真慈悲寺」が。
「吾妻鏡」-一部欠落・削除なども見られるが、その「吾妻鏡」に。
文治2年の1186年、 「真慈悲寺はご祈祷の霊場なのに荘園を寄進する者もなく荒れ果てている」、当時幕府のあった鎌倉まで足を運んだ「僧・有尋」
は、復興を願い出ている。
それから8年後の、1192年、には、後白河法皇の四十九日法要として、あの有名な「浅草寺」と並んで僧三名が送られたという記述がある。
鎌倉時代以前には「真慈悲寺」というご祈祷の霊場が・鎌倉時代になると、荒れ果てていた・有尋という僧がを幕府に願い出て、真慈悲寺を復興祈願
浅草「浅草寺」と同格な位置づけであったと云う。
「百草八幡宮」-祭神 誉田別命・ 気長足姫命・ 武内宿禰・ 源 義家ー
百草園に隣接する八幡神社創建の年代は不詳。
古くは古八幡宮と称され、社宝の石造狛犬に天平の文字がある古刹。
康平5年の1062年、源頼義が奥州征伐の折、この地をよぎられ再建されたといわれている。
1192年、「源頼朝」武運長久を祈願した太刀一振の奉納が。

銅造阿弥陀如来座像(国指定重要文化財)
神社奉安殿に安置されている。
鎌倉幕府の御祈祷寺で百草にあったと伝えれている真慈悲寺の僧慶祐の発願により、建長2年の1250年、に造られたもの。
真慈悲寺は廃寺になった後、八幡神社の本地仏として伝えられ、年に一度、祭礼の時に公開されると云う。

「小島善太郎」 1892-1984 洋画家
新宿、小島鎌太郎の六男。父親の事業の失敗から生活苦となり小学校を中退し丁稚奉公、御用聞きをして一家を支えている。
青年時代は兄が行方不明、妹のすぎが殺害され、翌年両親が相次いで没している。
極貧の中、不遇の時期を過ごし、 絵が得意で、偶然の出会いから陸軍大将の中村覚氏のの書生となる。
本格的に画家を志し、大久保の中村邸から、太平洋画会研究所に通いデッサンの勉強をし、仲間に中村彝もいた。
日本美術院、葵橋洋画研究所でも学び、安井曾太郎に師事。1918年、二科展に入選。
野村證券社長の野村徳七の支援によりフランスに留学して、ゲランに学び、16世紀ヴェネツィア派の古典絵画に惹かれる。
サロン-ドートンヌに入選。
1925年、帰国。里見勝蔵、前田寛治、佐伯祐三、木下孝則らと「1930年協会」を結成し、里見の離脱、前田、佐伯の死により発展的解消となり、
新しく独立美術協会を設立し、「独立展」を開催、画壇に新風を巻き起こしたと云う。
1932年、南多摩郡加住村に移り住み、多摩・武蔵野の風景画を多く描いた。
1971年、百草園にアトリエを構える。梅林、桃園、桜並木などを描く。
代表作に「林中小春日」「三多摩の秋景」「百草梅林春の団欒」「滝山城趾・多摩川を望む(滝山展望)」など多数。
八王子市内で子供たちに絵の指導を行い、小島善太郎を囲む会「愛善会」で地域との交流も深めた。

小島善太郎記念館・庭園(有料)

「武相9番・百草観音札所」
武相観音霊場開始の頃は、松蓮寺にある千手観音が札所となっていた。
松蓮寺が廃寺になったことに伴い、地元の人々は、同寺の庵である祐照庵のあった現在の地に聖観音他諸仏を移し、新たな観音堂とする。
その後、地元の人々により護られてきています。
聖観音像は、並んで厨子に納められている金色の十一面観音像とは対照的に黒色で、いくつかの痛みがあるものの、精緻な宝冠がかぶせられていと云う。平安時代の作と考えられており、(日野市文化財指定)

百草観音堂境内

「湯殿川」 浅川の支流ー長さ8.9km
農業用水などに利用され由井村の発展に大きく貢献したが、蛇行し川幅も狭かったためたびたび洪水が発生し、現在、川幅を広げる改修工事が。
京王線、百草園ー聖跡桜ヶ丘駅・付近に「聖跡記念館」がある。
「旧多摩聖蹟記念館」
開館ー1930年・多摩市連光寺にある歴史的建造物・展示施設。
多摩市指定文化財及び東京都景観上重要な歴史的建造物。
丘陵を流れる湯殿川

次回は、立川駅・武蔵野線で多摩川へ。
年初に雪の間から芽を出した草を摘む「若菜摘み」、古くから風習が、「七草」の原点。
六朝時代の中国の「荊楚歳時記」に「人日」(人を殺さない日)である旧暦1月7日に、「七種菜羹」という7種類の野菜を入れた「羹」
(あつもの、とろみのある汁物)を食べて無病を祈る習慣が記載されており、「四季物語」には「七種のみくさ集むること人日菜羹を和すれば
一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや」とある。
このことから今日行われている七草粥の風習は、中国の「七種菜羹」が日本において日本文化・日本の植生と習合することで生まれたものと考えられ、
古くから七草を食す習慣が行われていた。
特に古代において「七草」の詳細については記録によって違いが大きい。
「延喜式」には餅がゆ(望がゆ)という名称で「七種粥」が登場し、かゆに入れていたのは米・粟・黍(きび)・ひえ・みの・胡麻・小豆の七種の穀物、これとは別に一般官人には、米に小豆を入れただけの「御粥」が振舞われていたようだ。
この餅がゆは毎年1月15日に行われ、これを食すれば邪気を払えると考えられていた。
餅がゆの由来については不明な点が多いが、
「小野宮年中行事」には弘仁主水式に既に記載されていたと記され、宇多天皇は自らが寛平年間に民間の風習を取り入れて宮中に導入したと記している(宇多天皇宸記、寛平2年2月30日条)。この風習は、「土佐日記・枕草子」にも登場。
旧暦の正月(現在の1月~2月初旬ころ)に採れる野菜を入れるようになったが、その種類は諸説あり、また地方によっても異なっていた。
現在の7種は、1362年頃に書かれた「河海抄」(四辻善成による「源氏物語」の注釈書)の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見とされる(ただし、歌の作者は不詳とされている)。
これらは水田雑草ないし畑に出現するものばかりであり、今日における七種類の定義は日本の米作文化が遠因となっている。
江戸時代頃には武家や庶民にも定着し、幕府では公式行事として、将軍以下全ての武士が七種がゆを食べる儀礼を行っていた。
「秋の七草」-おみなえし(女郎花)・ おばな(尾花)・ ききょう(桔梗)・ なでしこ(撫子)・ ふじばかま(藤袴)・ くず(葛)・はぎ(萩)
覚え方ー「おすきなふくは」・「おきなはすくふ」・「ハスキーなクフ王」
「春の七草」-せり(セリ科)・ なずな(薺)(ぺんぺん草)・ ごぎょう(御形)・ はこべら(繁縷)・ ほとけのざ(仏の座)・ すずな(菘・蕪)
すずしろ(蘿蔔・大根)
[京王線]
ー京王八王子ー北野ー長沼ー平山城址公園ー南平ー高幡不動ー「百草園」ー聖跡桜ヶ丘ー中河原ー分倍河原ー府中・・・・新宿
高尾山口ー高尾/
百草園駅(駅前通りは、川崎街道)

「川崎街道」
神奈川県川崎市川崎区から都稲城市を経て府中市に至る主要地方道。接続線国道1・15・246・132・409号線。
府中街道の起点を示す標識は、西行き車線では南河原架道橋へ下る坂の途中に、東行き車線では幸町交差点附近に建てられている。このほか、架道橋南側で西行きと東行きの車線が分離する地点に建つ柱にも「府中街道」の表示がある。
高尾山ー八王子ー日野の「浅川」・この先で多摩川に合流。



「七生丘陵」
日野市の南側、多摩丘陵が。丘陵地を日野では、旧七生村にちなんで「七生丘陵」と呼んでいる。
七生丘陵は、京王百草園から平山城址公園までの散策路を、「七生丘陵散策コース」として設定。
百草園、多摩動物公園、多摩テック、そして高幡不動尊があり、また、住宅開発によって失われた部分もあるが、まだまだ多くの緑が残り、
里山の雰囲気を味わえるなだらかな道が続いている。
街道から百草園入口の急坂は、厳しい。やっと登りきり見ると「本日休園」でした。



「丘陵」
なだらかな起伏や小山(丘)の続く地形、地形学では高度や起伏が山より小さく、台地より大きいものを指す。
およそ100万年前から30万年前に生じ、山地よりも小さな規模のもので、日本では概ね海抜300m以下程度のものをいうと云う。
日本国外では1,000m以下のものを指す場合もある。日本では、宮城県の松島丘陵、千葉県の房総丘陵、埼玉県の狭山丘陵などが知られている。
ここ、多摩丘陵は、土地利用の進んでいる丘陵地帯が数多く見られる。
百草園のある「七生丘陵」

「京王・百草園」
江戸時代の享保年間の1716 年~、小田原城主大久保候の室であった寿昌院慈岳元長尼が徳川家康の長男・信康追悼のため当地に「松連寺」を再建。
その後、時代を経て作られたのがー京王百草園。
園内の有名な「寿昌梅」は、寿昌院自ら植樹したと伝えられている。
梅の開花の季節には約50 種500 本の梅たちが咲くと云う。
豊かな自然を残す多摩丘陵。
園内の見晴台からは付近の自然が楽しめるほか、晴天であれば新宿新都心、東京スカイツリー、そして松連庵前広場からは筑波山も望めるとも云う。
入園料¥300


百草園近在に、鎌倉時代、関東御祈祷所「幻の真慈悲寺」が。
「吾妻鏡」-一部欠落・削除なども見られるが、その「吾妻鏡」に。
文治2年の1186年、 「真慈悲寺はご祈祷の霊場なのに荘園を寄進する者もなく荒れ果てている」、当時幕府のあった鎌倉まで足を運んだ「僧・有尋」
は、復興を願い出ている。
それから8年後の、1192年、には、後白河法皇の四十九日法要として、あの有名な「浅草寺」と並んで僧三名が送られたという記述がある。
鎌倉時代以前には「真慈悲寺」というご祈祷の霊場が・鎌倉時代になると、荒れ果てていた・有尋という僧がを幕府に願い出て、真慈悲寺を復興祈願
浅草「浅草寺」と同格な位置づけであったと云う。
「百草八幡宮」-祭神 誉田別命・ 気長足姫命・ 武内宿禰・ 源 義家ー
百草園に隣接する八幡神社創建の年代は不詳。
古くは古八幡宮と称され、社宝の石造狛犬に天平の文字がある古刹。
康平5年の1062年、源頼義が奥州征伐の折、この地をよぎられ再建されたといわれている。
1192年、「源頼朝」武運長久を祈願した太刀一振の奉納が。



銅造阿弥陀如来座像(国指定重要文化財)
神社奉安殿に安置されている。
鎌倉幕府の御祈祷寺で百草にあったと伝えれている真慈悲寺の僧慶祐の発願により、建長2年の1250年、に造られたもの。
真慈悲寺は廃寺になった後、八幡神社の本地仏として伝えられ、年に一度、祭礼の時に公開されると云う。


「小島善太郎」 1892-1984 洋画家
新宿、小島鎌太郎の六男。父親の事業の失敗から生活苦となり小学校を中退し丁稚奉公、御用聞きをして一家を支えている。
青年時代は兄が行方不明、妹のすぎが殺害され、翌年両親が相次いで没している。
極貧の中、不遇の時期を過ごし、 絵が得意で、偶然の出会いから陸軍大将の中村覚氏のの書生となる。
本格的に画家を志し、大久保の中村邸から、太平洋画会研究所に通いデッサンの勉強をし、仲間に中村彝もいた。
日本美術院、葵橋洋画研究所でも学び、安井曾太郎に師事。1918年、二科展に入選。
野村證券社長の野村徳七の支援によりフランスに留学して、ゲランに学び、16世紀ヴェネツィア派の古典絵画に惹かれる。
サロン-ドートンヌに入選。
1925年、帰国。里見勝蔵、前田寛治、佐伯祐三、木下孝則らと「1930年協会」を結成し、里見の離脱、前田、佐伯の死により発展的解消となり、
新しく独立美術協会を設立し、「独立展」を開催、画壇に新風を巻き起こしたと云う。
1932年、南多摩郡加住村に移り住み、多摩・武蔵野の風景画を多く描いた。
1971年、百草園にアトリエを構える。梅林、桃園、桜並木などを描く。
代表作に「林中小春日」「三多摩の秋景」「百草梅林春の団欒」「滝山城趾・多摩川を望む(滝山展望)」など多数。
八王子市内で子供たちに絵の指導を行い、小島善太郎を囲む会「愛善会」で地域との交流も深めた。



小島善太郎記念館・庭園(有料)



「武相9番・百草観音札所」
武相観音霊場開始の頃は、松蓮寺にある千手観音が札所となっていた。
松蓮寺が廃寺になったことに伴い、地元の人々は、同寺の庵である祐照庵のあった現在の地に聖観音他諸仏を移し、新たな観音堂とする。
その後、地元の人々により護られてきています。
聖観音像は、並んで厨子に納められている金色の十一面観音像とは対照的に黒色で、いくつかの痛みがあるものの、精緻な宝冠がかぶせられていと云う。平安時代の作と考えられており、(日野市文化財指定)



百草観音堂境内


「湯殿川」 浅川の支流ー長さ8.9km
農業用水などに利用され由井村の発展に大きく貢献したが、蛇行し川幅も狭かったためたびたび洪水が発生し、現在、川幅を広げる改修工事が。
京王線、百草園ー聖跡桜ヶ丘駅・付近に「聖跡記念館」がある。
「旧多摩聖蹟記念館」
開館ー1930年・多摩市連光寺にある歴史的建造物・展示施設。
多摩市指定文化財及び東京都景観上重要な歴史的建造物。
丘陵を流れる湯殿川



次回は、立川駅・武蔵野線で多摩川へ。