syuの日記・気まま旅

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国立博物館平成館から鶯谷

2016-03-29 | syu散歩
「アジアの古代文明」中国(黄河)文明・ 殷 紀元前16 世紀ごろ,黄河流域でおこり、青銅器,甲骨文字,占い、周ー紀元前11 世紀ごろ殷を滅ぼし紀元前8 世紀ごろ勢力はおとろえた。 春秋・戦国時代 紀元前8 世紀ごろから戦乱の時代に入り、鉄製の農具や武器の使用→農業や商業の発達。
孔子が儒教(儒学)を、 秦 紀元前221 年,始皇帝による厳しい政治。万里の長城を、 漢 中国を統一して大帝国を築いた。シルクロード,紙
朝鮮半島 紀元前後,北部に高句麗がおこる。
インダス文明 インダス川流域でおこった。住居や上下水道,大浴場の遺跡もみつかり計画性のある都市づくりがされている。
仏 教  紀元前5 世紀ごろ,シャカが教えを説いた。インドから中国・朝鮮半島を経て,日本にも伝わる。
メソポタミア文明ー紀元前3500 年ごろに現在のイラクを流れる2つの大河にはさまれた地域でおこる。くさび形文字,太陰暦,60 進法が。
中國ー占いによる政治が行われ,漢字のもととなった甲骨文字が使われ、甲骨文字は,亀の甲羅や牛の骨に刻まれた象形文字である。
孔子は儒教のもとになる教えを説き,秦の始皇帝は遊牧民の侵入を防ぐため,万里の長城を整備した。
その後,西方との交通路としてシルクロードが開かれ,中国の絹がローマ帝国へ運ばれたている。

「秦」ー紀元前778年 - 紀元前206年ー
中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。
統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。
国姓は嬴(えい)。もしくは趙。統一時の首都は咸陽。なお、中国では、4世紀頃まで朝鮮半島南部にあった三韓の一つの辰韓も、
「秦」と表記することがある。
統一王朝ー紀元前247年に13歳で即位し政を、商人の身から先代王の宰相になっていた呂不韋が相国として実質的な権力を握ると、
紀元前241年には蕞の戦い(中国語版)で、趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を撃退した。紀元前238年に呂不韋が失脚して「政」が実権を掌握した。
やがて韓の公子韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。
しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献し、韓・魏・趙を滅ぼした。
紀元前223年に王翦が楚を滅亡させ、燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一した。
政は自ら皇帝(始めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものと云う。
南方地方へと、、、、、。



「国立博物館・平成館」
1階の考古展示室は、考古遺物で石器時代から近代まで日本の歴史をたどり、縄文時代の土偶や、弥生時代の銅鐸、古墳時代の埴輪など作品が、
講演会やさまざまな催しのための講堂、およびガイダンスルームがありる。

       「中国始皇帝と大兵馬俑」は、2階特別展示専用の展示室で開催入館料¥1600
    

泰の始皇帝陵には、7000体の等身大の兵士(陶器で形作られた人形)・馬の「兵馬俑坑」。
秦は、中国七つの国の争う戦国時代で、「秦」は西の位置していた。
最古の王朝ー殷きょう後の漢武帝も泰山で儀式を行っている。
神に捧げたにんげん、大量の人骨(皆首を切り取られている。甲骨文字・青銅器発掘・神に捧げた食べ物「鼎」・「青銅器は、王の権威を象徴している。

    

「周」は、封建性で「泰」は郡県制であったと云う。
第一章 泰王朝の軌跡ー周辺小国から兄弟帝国へー鐘・石鼓・飾り・形器・釜甑・他・・容器・文鏡・壺・鎧・石製冑・金具、、、。
第二章 始皇帝の実像ー半両銭・甕・壺・鈴・瓦・水道管・・・・。
第三章 兵馬俑と銀馬車ー俑・馬・穀倉・竈・軍馬・・・・。
                     
                  映像コーナー(兵馬俑・一部撮影コーナーが)
    

泰の始皇帝陵の7000体と馬などの「兵馬俑坑」の一部が展示(20~30体程度)

       永遠に守る軍団ー将軍俑・軍史俑・歩兵俑・騎兵俑・・・・。
  

「輪王殿」
輪王寺宮ー法親王の御座所ー現在は、葬儀や法要等で使われる。
寛永20年の1643年、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山。
その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。
法親王は、1654年、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、明暦元年1655年、天台座主を兼ねることとなった。
以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた。
貫主は、「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていたと云う。
歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれ、
東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における
四神相応の土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もあるが。

    

江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだと云う寛永寺。
現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像でき、現在の「国立博物館の敷地」は寛永寺 本坊跡・博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあった。
上野の山は、幕末の慶応4年、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となったことから、根本中堂をはじめ、主要な堂宇はこの時焼失し、明治維新後、
境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年、旧境内地が公園用地に指定され、寺は廃止状態に追い込まれるが、
明治8年、再発足。もと子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)となる。

    

「幸田露伴」 1867-1947 第一回文化勲章受章・小説家、随筆家・考証家 下谷生まれ。
作品ー風流仏・五重塔(谷中墓地にあった五重塔をモデルに)・頼朝・運命・芭蕉七部集・・・など。

                  幸田露伴の旧宅門(輪王殿境内にある)
  

「東叡山寛永寺現龍院」  天台宗。本尊ー阿弥陀如来木像。
地蔵菩薩銅像・五大尊二脇士付き木像・僧形文殊菩薩木像・同普賢菩薩木像・毘沙門天木像。千葉三塗台(長福壽寺)の学頭を兼任した学僧であった
「権大僧都什誉師」創建ー真岡藩主稲葉佐渡守越智正成の開基。
寛永寺36坊の一つ。正成の前室の春日局が天海僧正と図って、正成を弔うために新規に建立した寺だという。
1696年、1709年、1772年、それぞれ焼失、創建の地は信濃坂(善光寺坂)上にあり、1720年、1914年、現在地に移転。
徳川家光死去に伴う殉死者の墓がある。

         門前に「慰霊碑 哀しみの東京大空襲」がある
    

「東京大空襲慰霊碑」
第二次世界大戦中の1945年3月9日から10日未明にかけ、約10万人の命を奪った「東京大空襲」の慰霊碑が。

落語家・初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子(78)が、ここ現龍寺・哀しみの東京大空襲慰霊碑前で
8回目の供養式を開催したと云う。海老名さんは、下町大空襲でご両親を亡くし、戦災孤児に。(合掌する)

「海老名香葉子」さん、初代林家三平の妻として、夫の死後も一門の中心として活躍されている。
笑顔素晴らしい香葉子さんは、第二次世界大戦中、静岡県沼津市の叔母宅に疎開した。
当時は、国民学校の5年生だったが、その最中に起きた東京大空襲で、父である竿忠の3代目・音吉のほか、母・祖母・長兄・次兄・弟の家族6人を亡くす(三兄で4代目を継いだ中根喜三郎のみ生き延びる)。身寄りを亡くしたため、終戦・帰京後は、親戚をたらい回しにされるが、
父の知人で釣り好きで知られた3代目三遊亭金馬に引き取られる。
金馬家に七代目林家正蔵の妻が出入りしていた関係から、その実子であった初代三平と結婚し、以後三平の芸能生活を陰からサポートした。
長女・海老名美どり、次女・泰葉、長男・九代目林家正蔵、次男・二代目林家三平と、4人の子供をもうけ、東京大空襲の犠牲者の供養に活動している。

                  東京大空襲慰霊碑
  

  JR鶯谷・北口から南口前に「新坂・昔、闇坂と云った」を下ると朝顔市の入谷に出る。
    

戦後、駅前から坂の途中まで闇市が     バナナのたたき売りで黒山の人・人に。
    

「谷中七福神」ー不忍池弁天堂(弁財天)・護国寺(大黒天)・天王寺(毘沙門天)・長安寺(寿老人)・修性院(布袋尊)・青雲寺(恵比寿)
        東覚寺(福禄寿)