syuの日記・気まま旅

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大森貝塚 羽田渡しー多摩川散歩(38)

2016-03-20 | 気まま旅

「大森貝塚」
1877年の明治10年、横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に
貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、政府の許可を得た上9月、に発掘調査を行った。助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、
9月・10月から本格的な発掘を行った。(国の史跡に指定)
モースらの発掘した貝殻、土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などの出土品は東京大学に保管されており、
昭和50年、全て国の重要文化財に指定された。
縄文時代後期は、寒冷化に伴う環境の変化により、木の実、動物などの食料が減少した時代である。
東京、神奈川一帯では箱根山の噴火や富士山の噴火が長期化したため食料の確保が難しくなり、それに伴い急激な人口減少が起きていると云う。
そのため東京、神奈川では縄文時代晩期の遺跡はほとんど見当たらない。
寒冷化に伴う食料資源の減少が少ない海産物を中心に食料の確保をしたため、この貝塚ができたとされる。

大森貝塚の碑は、現在の大森駅にあるが駅から坂を下ると、当時は、すぐ海が広がっていた。(発掘調査は、大森と品川の二個所と云う)

「羽田七福稲荷めぐりと弁天様・八神社で得るご利益」
七つの稲荷神社と一つの弁天様はそれぞれ違うご利益がある。
東官守稲荷神社は身体安全、妙法稲荷神社は招福厄除、重幸稲荷神社は開運長寿、高山稲荷神社は学業成就、鴎稲荷神社は開運招福、白魚稲荷神社は無病息災、穴守稲荷神社は航空安全、家内安全・・・。長寿の弁天様。

   羽田七福の神社はどこも近い、穴守神社の次が白魚稲荷神社・無病息災の神様。
  

「弁天橋」多摩川の海に入る「海老取川」そこに架かる「弁天橋」と「大鳥居」。
海に囲まれたこの土地は、「羽田猟師町」(漁師町ではない)とも 呼ばれ、伝統的な文化が残された漁業の盛んな町だったと云う。
今でも、吊り舟が並んでいる。
不思議な大鳥居は、この 羽田弁天橋に聳え立っている。
60年安保の「ハガチー事件」で、全国的に有名になった羽田の 弁天橋。
江戸末期に羽田の湿地帯(海)を 埋め立て新田開発を行った鈴木弥五右衛門の名にちなんだ「鈴木新田」とも云われる。

海苔の養殖作業の一つ、「ひび建て」という海苔下駄を履き、振り棒で海底に穴をあける作業
    

            東京国際空港に向かって「大鳥居」が
    

「玉川弁財天と水神社」
羽田多摩川岸からほど近くにある神社。
玉川弁財天の創建年代は不詳。古くより弁天社として祀られ、弘法大師が護摩の灰を固めて自ら制作した神体があり、龍王院が別当寺となっていた
といい上の宮と称したとある。
羽田空港の地の新田開発に伴い、下の宮として弁天社が創建、祀られていたと云う。
昭和20年9月連合軍の強制立退命令により、下の宮(現玉川弁財天)を水神社のあった当地に遷し、現在に至るという。
羽田七福いなりめぐりの一社。

戦国期は、羽田浦・北条早雲は江戸湾重視 猟師・漁師で水軍を作っている
    

「旧羽田道」
羽田道の分岐点である内川橋は、昔「するがや橋」といわれ橋の袂沿い、昔「駿河屋」という旅宿があったので、「するがや通り」という名が残り、
道は、美原通り(旧東海道)の内川橋袂から分岐し、大森東、大森南、東糀谷を通って羽田(弁天橋)に至る約五kmの道。
昭和初期に行われた耕地整理により、旧道は消えていったが大森東二・三丁目や羽田六丁目の七曲がり付近などは当時の旧道が残っていると云う。
羽田の魚介類や野菜を江戸に運んだり、羽田弁財天等に参詣する人々がこの道を利用した。
くねくね曲がった細い道で、昭和7年に産業道路ができるまでは、生活や産業のための大切な道であった。

江戸期・羽田村は荏原郡六郷領に属し幕府直轄領。
    

            鴎稲荷神社、狛犬でなく狛狐
    

羽田(羽根田)が登場するのは、平治年間の1159年、安土桃山頃には「行方弾正」により支配され、戸数も約270軒余りとある。
家康が入府すると、幕府に新鮮な魚介類を献上する「御菜浦」となり発展し、低湿地であった今の羽田飛行場あたりを、
「羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門」が譲り受け、新田の開発を始めた。
1819年、ほぼ完成の域に達し、これが「鈴木新田」で、新田を守る堤防の守り神として祭られたのが「穴守稲荷」、浮世絵に見られるように開発された
新田の中に。(羽田落雁・歌川広重(1797~1858)江戸近郊八景のひとつ、大田区立郷土博物館蔵)

「羽田の渡し・大師の渡し」
羽田の渡しは別名「六左右衛門渡し」とも言われ、江戸時代以前よりあったようである。
「字西町前河原より大師河原村字殿町に渡していた」「古渡し」とも云う。
「大師の渡し」は、字尾崎耕地より大師川原村中瀬に至る渡しで「新渡し」といわれ、渡しは大師橋の下流300メートルにあった。
羽田の城南造船所から対岸の川崎市殿町間を結んでいた。
羽田の渡し、(六左ヱ門渡)は、横町と前河原町会の境の桟橋から、対岸のやや上流にある川崎の殿町を結んでいる。
棹を使い、川の中段では櫨を漕ぐが、30分たらずの船道である。渡し船は大きな平底の船で、荷車のほかに人を30人ほどのせる。
船賃は荷車が三銭、大人が一人二銭であったと云う。
浮世絵から、「大師の渡し」は平間寺(現在の川崎大師)に向かうために羽田側から渡ったようである。
江戸時代中頃より、海岸沿いに羽田弁財天への舟が運航され、1842年、幕府に「羽田の渡しから川崎大師に参詣することを禁止してほしい」と
川崎側の宿屋役人が訴え、江戸からの参拝者が多かったことが伺われます。

                        羽田渡し・大師橋
    

「正蔵院」-真言宗智山派寺院ー
喜修山了仲寺と号し、創建年代は不詳。
正蔵院住職「重仙」が宝徳2年の1449年に、蔵院住職「乗信」が文禄4年の1595年、当寺の本尊不動明王像を修復したという。

室町時代以前の創建と推定ー玉川八十八ヶ所霊場79番、東海三十三観音霊場26番、武相不動尊霊場25番。
    

本尊の不動明王は伝教の作と伝えられる。
1449年、住職重仙により,1595年、乗信により修復されたと「新編武蔵風土記稿」に記されている。
本尊不動明王にかえて大日如来を本尊としたこともあったと云う。1650年、境内は多摩川の洪水により川の中に入ったため,
元禄8年の1695年、織田越前守の検地により2段1畝8歩を境内地として与えられたという古刹。
大正11年に羽田仲塗師観蔵院を合併。ー大田区の寺院より。

多摩川河口と海の美しい地であった。


                   本殿


次回も羽田、京急・糀駅へ。