syuの日記・気まま旅

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多摩川散歩終りは東京湾 (39)

2016-03-23 | 気まま旅

多摩川散歩もこれが最終となります。
ここで、南品川埋め立て陸続きの「台場・御殿山下砲台、陸(おか)砲台」を想いだし記しておきたい。
アメリカ海軍提督M・C・ペリーが、1794~1858年、戦艦4艘を引き連れ、浦賀沖に、(ペリーは、インド艦隊司令長官)アメリカ大統領親書を
持っての来日、江戸湾黒船の異容を誇示は、250年余の鎖国日本には、江戸庶民も驚いた事であっただろう。
静岡県韮山市で、紹介した。「江川太郎左衛門英龍」(1801~55)ー韮山代官で幕府に信頼され、36歳で坦庵の号は、俊才として嘱望されていた。
砲術の大家「高島秋帆」に学び、開明的思想家で、「渡辺崋山・高野長英」などと親しく交際し、西欧先進国の学問に造詣が深かったと云う。
江川は、幕府の役人の中でも西欧学問・技術に最も精通していた人物であったと云う。
ぺりー帰国後、高島秋帆は、町奉行鳥居氏に捕えられ、安中藩預かり10年辛酸を嘗めている。
江川は、幕府に願い出て「高島」の身柄引き受け人となり、江戸湾の砲台建設に「高島」の助言と知識を受けた。
世界文化遺産「韮山反射炉」を築き、臼砲製造し、武具や道具類の試作・洋式兵学を身に付けたと云う。
江川は、高島の恩を感じていたとある。

六郷渡って、腹ごしらえ、弥次・喜多八も万年屋の奈良茶づけをー

「羽田神社」-祭神・素盞嗚尊、稲田姫尊 住所、本羽田3丁目

境内社には、鈴納稲荷神社、増田稲荷神社、日枝神社、羽田稲荷神社 ・祭日ー例祭日7月第一土・日曜日

                旧羽田村、猟師町の鎮守、
    

小田原北条氏が治め、領主・行方与次郎が牛頭天王社を祀ったことにはじまる。
江戸時代には、旧羽田村(本羽田)・旧羽田猟師町(羽田)の鎮守。
明治維新の神仏分離により、八雲神社と改称、明治40年に羽田神社と改称している。

    拝殿右奥には、区文化財ともなっている富士塚(通称羽田富士)がある。
    

「牛頭天王社」
羽田神社境内にあり。除地9畝2歩免田1段1畝22歩。
当村及猟師町の鎮守なり。本社1間四方、拝殿3間に2間。
鳥居2基たてり。神体は本地佛薬師如来の立像なり。
長3尺許り。稲毛領平村の八幡神主小泉氏社役をつとむ。
祭礼は6月6日より11日まで、神輿を渡せり。
稲荷社。社地の内にあり。尤小祠。(新編武蔵風土記稿羽田村自性院項より)

  

「自性院」-真言宗智山派寺院ー
常呂山本覚寺と号し、慈性(平治元年1159年寂)が開基・創建したと伝えられる。
恵麻法師(1559年寂)が中興し、境内の牛頭天王社は江戸時代に羽田村・羽田猟師町の鎮守。
牛頭天王社は、明治維新後羽田神社として分離、現在境内に残されている牛頭天王堂は大森の弁天神社(三輪厳島神社)より昭和4年に移築した。

  玉川八十八ヶ所霊場78番、東海三十三観音霊場25番・文化財ー•牛頭天王堂(区指定有形文化財)
    

「多摩川河口干潟」
多摩川河口の干潟は、東京湾最大の河口干潟。
ヨシ原が広がり、アシハラガニやクロベンケイガニが、水辺ではヤマトオサガニ、チゴガニ、 アナジャコ、トビハゼ、ヤマトシジミがみられる。
干潟の豊かさを求めて、たくさんのカモ類、シギ、チドリなどの鳥たちも。
豊かな多摩川の自然や地域の歴史、文化等を伝えてえて行こう。
現在、NPO法人多摩川干潟ネットワークと川崎市が恊働で。

「本羽田公園」には、ウメ、サクラ、クスノキなどが、多摩川沿いにあるテニスコートが5面ある公園。
    

「六郷の渡しと六郷大橋」
六郷は、東海道が多摩川を横切る要地の名。
1600年、徳川家康が六郷大橋を架け、1613年・1643年・1662年・1681年・1684年、に架け直され、
1688年の貞享5年、の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。
六郷大橋は、千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋。
寛文2年の橋は、長さ107間 (194.5m)・幅4間1尺7寸 (約8m)・高欄の高さが4尺3寸 (1.3m)。
貞享元年の橋は、長さ111間 (202m)、幅4間2尺 (約8m) であった。

明治7年、に鈴木左内が私費で六郷の渡しに左内橋を架けたなが、長さ60間(109m)、幅3間(5.5m)の木橋で、通行料を徴収した。
この橋は、明治11年、に洪水で流された。1883年の橋は、左内橋が流された後しばらく橋がない状態が続き、地元の人々が六郷架橋組合を作って
明治16年、有料の橋を架け、「六郷橋」と名づけた。
明治18年、破損したものの引き続き使用され、1900年の明治33年、京浜電気鉄道(後の京浜急行電鉄)が買収し、明治36年、通行料の徴収をやめ、
明治39年、国に譲渡されたが、また、明治43年、流されたと云う。
1910年の橋・流された橋のかわりに長さ52間 (95m)、幅3間 (5m) の仮橋が架けられ、1913年の大正2年、流されたが再建。
大正14年、長さ446.3m、幅16.4m の六郷橋が架けられ川の水路部分を1本の橋脚と連結した2つのアーチ(タイドアーチ)で越え、
河川敷の部分は連続桁橋であった。片側1車線の車道に加え、両側に歩道があった。この時の工事を請け負った業者の1つが、俳優・船越栄一郎の曽祖父が営む飯島組と云う。
1984年、架け替えのための解体・撤去作業中に橋桁が落下し、死傷者18名を出す事故となった。
六郷橋の拡幅のために架け替えられたのが、現在ある橋で、1979年の昭和54年、工事を始め、段階的に工事を進め、昭和59年、旧橋の上流側に接して新橋の一部が完成し、交通を切り替えた。旧橋を撤去して、昭和62年、新橋が完成した。その後第3期の工事が完了したのは、平成9年、橋の幅は倍以上となり、車道も片側3車線に増加。
                  向かいは川崎市
    

             羽田七福ー学業成就の「高山稲荷神社」
    

             羽田七福ー開運長寿「重幸稲荷神社」
    

                   八雲神社
  

             羽田七福ー招福厄除「妙法稲荷神社」
      

「萩中神社」
天照皇大神ー太陽を信仰し発展した神霊であるといわれ、太陽は地球上の生命にとって必要不可欠であることから、
日本皇帝の祖神として祀られ、日本の総氏神。
豊受姫大神ー宇迦之御魂神の別名、一般的に商業、工業方面で霊威を発揮するといわれ信仰されている。
たびたび豊受大神と同一神としてみられることがありますが、別の神様と云う。

    

身体安全の「東官守稲荷神社」
は、「萩中神社」に。
昔 萩中町7番地(旧番地)辺りにありに鎮座、敷地も広く東に向き、海に向かって建てられていたと云う。
当時この地に住む村人らは半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めていた。
大正6年、風水害により社は被害を受けたが、萩中神社再建の際、萩中神社の境内に移されたと云う。
昭和20年4月、戦災の為焼失している。

    

「京急」
前進は、現在の大師線にあたる大師電気鉄道が開業したのは今から約100年前の1899年(会社創業は1898年)。
日本で3番目、関東で は1番最初の電気鉄道として開業した。
開業当初は約2kmの路面路線で車両は1両編成と小さな規模であったが、日本では、初の国際標準軌1435mm。
を採用し、その後、都心までの延長を目指し、また横浜方面への延長を進め「京浜電気鉄道」となり
1905年品川まで到達し、建設された湘南電気鉄道と1925年乗り入れを開始、逗子や浦賀まで足を伸ばしている。
現在は、京成電鉄と連携し千葉県へ。



        京急空港線・蒲田から一つ目の「糀谷駅」と駅前商店街
    

今回で、多摩川散歩は終了します。