久し振りに都内を散策します。何度も歩いている道ですがまた違った発見もあります。
寛永寺の歴代貫首住職は,京の都を懐かしみ、「鳴き声になまりがある」と江戸のウグイスを嫌い、それ以来、京言葉のウグイスがさえずるようになったり、JRの駅名となった「鶯谷」の由来と云う。
駅のホームを挟んで寛永寺の反対側は台東区根岸。
江戸時代は田園地帯で「根岸の里」と呼ばれ、ウグイスの名所だった。
商家の旦那、文人墨客が別荘や庵を構え、詩歌や書画、茶の湯を楽しんだ隠れ里だった。
田畑地なので町奉行所の管轄外。監視の目は緩い地域と云う。
江戸時代、西蔵院のすぐ北側を小川(音無川)が流れる「根岸の里」の一等地が、「田沼意次」の娘、「佐々木三冬」が住む別荘は、「円光寺の南」。
剣術家で明治の政治家、山岡鉄舟が常連だった、鉄舟庵があった。
明治の外相、陸奥宗光もすんでいた洋館も、俳人・歌人の「正岡子規」も、1902年に病没するまで8年半、根岸に暮らした。
子規の句ー「雀より鶯多き根岸かな」。明治になっても根岸はウグイスの名所であった。もう一句ー「妻よりは妾の多し門涼み」。
江戸時代は、大名が上屋敷・中屋敷・下屋敷を置き、別荘に愛人を住まわせ、また、裕福な町人も多く、こうした別荘は「根岸の寮」と言われたと云う。
今は、駅前、ラブホテルが多い、それは、戦後、東京の遊郭が廃止された結果、上野周辺で連れ込み宿が繁盛し、鶯谷駅前までその波が押し寄せてきたのが、現在のラブホテル街だ。
根岸なは、施設では正岡子規の住居を再現した「子規庵」、初代林家三平の資料館「ねぎし三平堂」、1692年創業の豆腐料理「笹乃雪」、
1856年創業の入谷交差点角にあった居酒屋「鍵屋」、1925年創業の洋食屋「香味屋」(柳通り沿いの路地にはかつての料亭街の雰囲気が)
正岡子規を訪ね、夏目漱石は、言問通りで寛永寺坂を
「根岸のお行の松」旧根岸は、上根岸・中根岸・下根岸に別れ、松は、下根岸。
根岸お行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれている。
江戸名松の一つに数えられ、西蔵院不動堂の境内にありる。
この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にも、初代の松は樹齢350年を経た後枯れ、現在は、昭和51年に植えられた3代目の松が。
樋口一葉・芥川龍之介・谷崎潤一郎・永井荷風なども「寛永寺坂」歩いている。
「正岡子規」 1867-1902 夏目漱石の親友・俳句の革新に努めた。俳人・歌人。伊予の松山藩の子
矢野竜渓・坪内逍遥・幸田露伴の作品に感動し小説家を目指しが果たせず、俳句に興味を覚え同志を集める。1892年日本新聞社に入る。
俳句・俳論などを発表し俳句の革新に努め注目、高浜虚子等多くの門人が輩出した。
晩年は、脊椎カリエスで床の中で過ごしている。
夏目漱石・森鴎外・与謝野鉄幹・伊藤左千夫などここに訪ねている。
明治31年・我に20坪の小園あり。園は家の南ありて上野の杉を垣の外に控えたり。場末の家まばらに立ってられたれば青空は庭の外に拡がりて
雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。「小園の記」
「台東区立書道博物館」
正岡子規庵前にある、中国および日本の書道に関する博物館。
この建物は、 洋画家・書道家 中村不折の旧宅建物跡。中村不折は、正岡子規の松山時代の知人。
中村氏が蒐集した甲骨文、 青銅器、石経、墓誌、拓本、法帖などの書道史研究上重要な資料約16000点が展示。
京成電鉄旧廃駅舎跡 奥は桜並木の谷中墓地 寛永寺坂上お導き地蔵
「寛永寺」 天台宗別郭大本山。
1622年、徳川二代将軍秀忠・天海大僧正のより、「徳川将軍の祈願所」として創建。
3年後、三代将軍家光公が1625年正式に発足した。
山号ー東叡山(東の比叡山、造営も比叡山延暦寺にならっている)
当初、寺領2100石・寺域17万坪・上野公園中央の地に五代将軍綱吉公が「根本中堂・間口45.5m奥行42m高さ32m大伽藍」の建物。
八代将軍吉宗公の時代は、堂塔伽藍30余棟・子院36坊・境内地30万5千坪・寺領11700石に及んだとある。
輪王寺宮(一品法親王・天皇家皇子を迎え引き継がれ)東叡・比叡・日光の三山を兼帯し、天台宗別格本山の地位となっている。
当初の根本中堂は、1868年戊辰戦争で焼失、明治12年川越喜多院本地堂(1638年三代将軍家光公建立)移築。
四代将軍家綱公の梵鐘は、私の子供の頃、大晦日・除夜の鐘を打ちに出掛けていました。
二代喜多川歌麿・歌川広重の「上野 東叡山之図」が。 寛永寺霊園
「小泉八雲」 1850-1904 日本を世界に紹介した文学者・ギリシャ出身(父アイルランド軍医)
30歳でアメリカへ渡り、新聞記者から文筆生活、松江中学英語教師・第五高等学校・東京帝大文学部・早稲田大学で講義。
松江時代藩士の小泉節子を知り結婚し、日本の古伝説・怪談に興味をもち、日本に帰化している。
作品ー心・怪談・日本原風景を世界に。
向かいに博物館が 子ども図書館工事中噴水に小泉八雲が 京成・旧動物園駅
「旧因州池田屋敷表門・黒門」
国立博物館敷地内にある池田家上屋敷表門(黒門)はもともと旧丸の内大名小路(現丸の内3丁目)にあった。
鳥取藩(因幡・伯耆32万石)池田家江戸上屋敷の正門を移築したもの。
正式には「旧因州池田屋敷表門」、入母屋造屋根に、門の左右に向唐破風造の番所を設け、江戸時代末期の大名屋敷の門として最も格調が高いもの
明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建され、のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれ、昭和26年、
重要文化財・指定。昭和29年、に、現在のこの場所に移築・修理された。
博物館横にある黒門
「都恩賜上野動物園」
明治15年に日本で最初に開園した動物園で、約400種3000点の動物を飼育している。
総面積14haの園内は東園と西園に分かれ、いそっぷ橋とモノレールで結ばれている。
入園料¥600 動物園正面 昔の正面は、芸大、都美術館の裏側であった
「上野東照宮」
上野恩賜公園内にある神社。
旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて「上野東照宮」と呼ばれる。
徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
寛永4年の1627年、「藤堂高虎」が上野の高虎の敷地内に創建した。
社伝によれば、1616年、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。
現在の社殿は、慶安4年の1651年、家康の孫・徳川家光が改築したもの。
社殿は、平成21年ー25年まで修復工事。平成26年、公開。
拝観料ー¥500
社殿
次回も、上野博物館「始皇帝と兵馬俑校坑」へ。
寛永寺の歴代貫首住職は,京の都を懐かしみ、「鳴き声になまりがある」と江戸のウグイスを嫌い、それ以来、京言葉のウグイスがさえずるようになったり、JRの駅名となった「鶯谷」の由来と云う。
駅のホームを挟んで寛永寺の反対側は台東区根岸。
江戸時代は田園地帯で「根岸の里」と呼ばれ、ウグイスの名所だった。
商家の旦那、文人墨客が別荘や庵を構え、詩歌や書画、茶の湯を楽しんだ隠れ里だった。
田畑地なので町奉行所の管轄外。監視の目は緩い地域と云う。
江戸時代、西蔵院のすぐ北側を小川(音無川)が流れる「根岸の里」の一等地が、「田沼意次」の娘、「佐々木三冬」が住む別荘は、「円光寺の南」。
剣術家で明治の政治家、山岡鉄舟が常連だった、鉄舟庵があった。
明治の外相、陸奥宗光もすんでいた洋館も、俳人・歌人の「正岡子規」も、1902年に病没するまで8年半、根岸に暮らした。
子規の句ー「雀より鶯多き根岸かな」。明治になっても根岸はウグイスの名所であった。もう一句ー「妻よりは妾の多し門涼み」。
江戸時代は、大名が上屋敷・中屋敷・下屋敷を置き、別荘に愛人を住まわせ、また、裕福な町人も多く、こうした別荘は「根岸の寮」と言われたと云う。
今は、駅前、ラブホテルが多い、それは、戦後、東京の遊郭が廃止された結果、上野周辺で連れ込み宿が繁盛し、鶯谷駅前までその波が押し寄せてきたのが、現在のラブホテル街だ。
根岸なは、施設では正岡子規の住居を再現した「子規庵」、初代林家三平の資料館「ねぎし三平堂」、1692年創業の豆腐料理「笹乃雪」、
1856年創業の入谷交差点角にあった居酒屋「鍵屋」、1925年創業の洋食屋「香味屋」(柳通り沿いの路地にはかつての料亭街の雰囲気が)
正岡子規を訪ね、夏目漱石は、言問通りで寛永寺坂を
「根岸のお行の松」旧根岸は、上根岸・中根岸・下根岸に別れ、松は、下根岸。
根岸お行の松は、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれている。
江戸名松の一つに数えられ、西蔵院不動堂の境内にありる。
この松は、樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材にも、初代の松は樹齢350年を経た後枯れ、現在は、昭和51年に植えられた3代目の松が。
樋口一葉・芥川龍之介・谷崎潤一郎・永井荷風なども「寛永寺坂」歩いている。
「正岡子規」 1867-1902 夏目漱石の親友・俳句の革新に努めた。俳人・歌人。伊予の松山藩の子
矢野竜渓・坪内逍遥・幸田露伴の作品に感動し小説家を目指しが果たせず、俳句に興味を覚え同志を集める。1892年日本新聞社に入る。
俳句・俳論などを発表し俳句の革新に努め注目、高浜虚子等多くの門人が輩出した。
晩年は、脊椎カリエスで床の中で過ごしている。
夏目漱石・森鴎外・与謝野鉄幹・伊藤左千夫などここに訪ねている。
明治31年・我に20坪の小園あり。園は家の南ありて上野の杉を垣の外に控えたり。場末の家まばらに立ってられたれば青空は庭の外に拡がりて
雲行き鳥翔る様もいとゆたかに眺めらる。「小園の記」
「台東区立書道博物館」
正岡子規庵前にある、中国および日本の書道に関する博物館。
この建物は、 洋画家・書道家 中村不折の旧宅建物跡。中村不折は、正岡子規の松山時代の知人。
中村氏が蒐集した甲骨文、 青銅器、石経、墓誌、拓本、法帖などの書道史研究上重要な資料約16000点が展示。
京成電鉄旧廃駅舎跡 奥は桜並木の谷中墓地 寛永寺坂上お導き地蔵
「寛永寺」 天台宗別郭大本山。
1622年、徳川二代将軍秀忠・天海大僧正のより、「徳川将軍の祈願所」として創建。
3年後、三代将軍家光公が1625年正式に発足した。
山号ー東叡山(東の比叡山、造営も比叡山延暦寺にならっている)
当初、寺領2100石・寺域17万坪・上野公園中央の地に五代将軍綱吉公が「根本中堂・間口45.5m奥行42m高さ32m大伽藍」の建物。
八代将軍吉宗公の時代は、堂塔伽藍30余棟・子院36坊・境内地30万5千坪・寺領11700石に及んだとある。
輪王寺宮(一品法親王・天皇家皇子を迎え引き継がれ)東叡・比叡・日光の三山を兼帯し、天台宗別格本山の地位となっている。
当初の根本中堂は、1868年戊辰戦争で焼失、明治12年川越喜多院本地堂(1638年三代将軍家光公建立)移築。
四代将軍家綱公の梵鐘は、私の子供の頃、大晦日・除夜の鐘を打ちに出掛けていました。
二代喜多川歌麿・歌川広重の「上野 東叡山之図」が。 寛永寺霊園
「小泉八雲」 1850-1904 日本を世界に紹介した文学者・ギリシャ出身(父アイルランド軍医)
30歳でアメリカへ渡り、新聞記者から文筆生活、松江中学英語教師・第五高等学校・東京帝大文学部・早稲田大学で講義。
松江時代藩士の小泉節子を知り結婚し、日本の古伝説・怪談に興味をもち、日本に帰化している。
作品ー心・怪談・日本原風景を世界に。
向かいに博物館が 子ども図書館工事中噴水に小泉八雲が 京成・旧動物園駅
「旧因州池田屋敷表門・黒門」
国立博物館敷地内にある池田家上屋敷表門(黒門)はもともと旧丸の内大名小路(現丸の内3丁目)にあった。
鳥取藩(因幡・伯耆32万石)池田家江戸上屋敷の正門を移築したもの。
正式には「旧因州池田屋敷表門」、入母屋造屋根に、門の左右に向唐破風造の番所を設け、江戸時代末期の大名屋敷の門として最も格調が高いもの
明治25年、芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建され、のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれ、昭和26年、
重要文化財・指定。昭和29年、に、現在のこの場所に移築・修理された。
博物館横にある黒門
「都恩賜上野動物園」
明治15年に日本で最初に開園した動物園で、約400種3000点の動物を飼育している。
総面積14haの園内は東園と西園に分かれ、いそっぷ橋とモノレールで結ばれている。
入園料¥600 動物園正面 昔の正面は、芸大、都美術館の裏側であった
「上野東照宮」
上野恩賜公園内にある神社。
旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて「上野東照宮」と呼ばれる。
徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀る。
寛永4年の1627年、「藤堂高虎」が上野の高虎の敷地内に創建した。
社伝によれば、1616年、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。
現在の社殿は、慶安4年の1651年、家康の孫・徳川家光が改築したもの。
社殿は、平成21年ー25年まで修復工事。平成26年、公開。
拝観料ー¥500
社殿
次回も、上野博物館「始皇帝と兵馬俑校坑」へ。