「万世橋駅」
明治の維新が起こり、江戸は、東京と名前が変わり、江戸時代に武家屋敷街であった万世橋界隈は、明治にはいってから、武家がなくなり、廃藩置県が行われて藩がなくなり、江戸にあった諸藩の藩邸も、参勤交代がなくなって不要になり、武家屋敷は取り壊されて、そこに新たに商店街が進出。
万世橋界隈は、衣類の問屋街に生まれ変わり、連雀町と呼ばれる町に生まれ変わった。
人が集まるところには、自然とサービス業も進出し,そこには飲食店もたくさんでき、落語や講談や浪曲などが行われる寄席も、その寄席は、後年には映像を映し出して、弁士が音声の代わりをつとめる無声映画館に変化、神田食味街が。
明治も中頃に、立川~新宿間に「甲武鉄道」という私鉄が開業した。
甲武鉄道が利便性を求めて新宿から次第に伸び、明治45年には、始発駅が神田界隈まで伸び、こうして開業したのが、「万世橋駅」。
「万世橋駅」大正12年の関東大震災で、駅舎が消失.その後簡素な駅舎が再建、神田駅や秋葉原駅が近くに出来たことで、乗降客が減少し、
昭和18年には、中央線が神田駅、そして東京駅に接続になることで、万世橋駅は廃止に、
「神田旅篭町」
江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れ、また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際必ず通った街道、(現在の国道122号にほぼ相当)二つの重要な街道の拠点となる町が「旅籠町」。
天和二年、に江戸で大火事が起こり、浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火で、「旅籠町」は、火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられている。1694年、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転している。
明治2年には、「昌平橋」と「筋違橋」の北側にあった幕府講武所付町屋敷が、今の神田旅籠町三丁目に。
旅籠町の由来となった旅籠は、幕末のころにはほとんど姿を消し、諸問屋名前帳によれば、嘉永の1848年~1854年頃まで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えた。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、商人の町として成長していく。
日露戦争 1905年の明治38年・日本海海戦、日本軍の完勝、ロシア艦隊はほぼ全滅した。
東郷平八郎大将とロジェストヴェンスキー中将
戦力ー戦艦4隻・装甲巡洋艦8隻・巡洋艦15隻・他全108隻・
ー戦艦8隻・海防戦艦3隻・装甲巡洋艦3隻・巡洋艦6隻・他全38隻
「日本海海戦」
バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほとんどを失った。
ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴイ」(30日到着)の3隻のみであったと云う。
病院船である「アリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「アリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「アリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入された。
「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還している。
バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。
我が国の記念日ー5月27日・「海軍記念日」に、(戦後になり廃止)式典は、現在でも毎年開催。
神田川に面する万世橋界隈は江戸時代から繁栄している。
万世橋の南側に位置する田町(後の多町、現・神田多町)には、青物商が集まり、青物商は17世紀初期(慶長年間)から田町、連雀町、佐柄木町に散在しており、1657年の明暦3年、「明暦の大火」の直前には81軒まで増えていたが、大火の後、多町にまとめられたと云う。
享保の改革が行われた1724年、幕府御用達となってからは急速に発展し、後の神田市場の母体となる。
神田川北岸には、米、薪炭、竹などの問屋があったほか、職人仕事の諸材料の荷受け地でもあった。
幕末期には、住宅地としても発展し、幕府が財源確保のために、ところどころを町人に貸したこともあって、神田っ子の町が育って行ったのである。
明治以降、更に発展し、洋服生地を扱う問屋街が周辺に形成、万世橋駅前の連雀町(今は神田須田町 - 神田淡路町の一部)には、飲食店、寄席、映画館が次々と開業した。
万世橋駅の初代の駅舎は豪華であったと云う。
東京駅と同様に「辰野金吾」の設計による赤煉瓦造り、一等・二等待合室、食堂、バー、会議室等を備えている。
貨物用のエレベーターも整備、中央本線のターミナルとしてだけでなく、ここから両国駅方面への総武線の敷設計画をも見据えたものであったと云う。
駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。
東京市電が走り、多くの人で賑わった。大正時代に最盛期を迎えた。しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。
大正8年、万世橋 - 東京が開通。中央本線の起終点としての役目は7年で終わり、同年に神田駅が開業。大正14年、上野 - 神田間の高架線が完成。
秋葉原駅が旅客営業を始めた。
一方、万世橋駅は、大正12年、関東大震災で駅舎が焼失し、遺体安置所に利用された後、簡素な駅舎が再建された。
徒歩圏内に神田駅及び秋葉原駅が出来たこと、それに上野 - 神田の路線が出来たことで東京以南から上野・浅草方面への市電乗り換え駅としての地位を失ったため、乗客数は急減していった。
須田町交差点が移転し、昭和4年以降は市電も通らなくなった。昭和11年、東京駅から鉄道博物館が移転。
駅舎は解体縮小され、博物館に併設された小屋となった(閉鎖後は博物館の事務室に使われた)。
駅構内にあった階段の一部は博物館への直通連絡口に使われたものがあった(駅閉鎖後は休憩所に転用された)。
解体縮小の直前には駅構内の食堂が営業を終了し、昭和18年、駅は休止(実質上廃止)となり、駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊された。
戦前軍神「広瀬武夫」 1868-1904 日露戦争(1889-1904)飛騨高山
第二の閉塞作戦において、閉塞船「福井丸」を指揮・敵駆逐艦の魚雷を受け、撤退、自爆用爆薬に点火するため船倉に行った。部下の「杉野孫七上等兵
曹」の姿がなく戻ってこなかったことに気が付き、広瀬は杉野を助けるため一人沈みゆく福井丸に戻り船内を捜索したが彼の姿は見つからず救命ボートに乗り移ろうとした直後頭部に、ロシア軍砲弾を受け戦死した。 37歳
広瀬中佐と杉野曹長の銅像が「万世橋駅」にあった。
初代駅舎は、近代的な赤レンガの高層建築であった。
現在の万世橋
1930年の昭和5年、関東大震災からの復興事業の一環として建造された。
鉄筋コンクリート造り、風格あるその姿は、85年後の今もそれほど変わっていない。
万世橋の北東側。道路からつながる階段の先には、小さな「船着き場」のようなスペースが。
さらにその脇には、重々しい金属製の扉があり、ここから橋の地下部分に入れると云う。
戦後も万世橋は、都電が集散していた。
「万世橋」から名前をとった肉の万世が産声を上げましたのは、まだまだ戦後の混乱も収まらない昭和24年。
電気部品商より、折からの統制の外された食肉業への転業として、創業者鹿野明・ソノ子夫婦は素人の発想を生かした独創性により、現本店の地に小さいながらも当時としては斬新なガラス張りの精肉と惣菜店の暖簾を出すことが出来ました。また、包装紙もまだ古新聞が使われていた時代でしたが、何か楽しい夢のあるものと童画家林義雄先生にお願いしてモーちゃん、ブーちゃんの描かれた楽しいものをデザインして頂きました。
包装紙は現在もそのまま使っている。
神田川の支流,日本橋川.
太田道灌によって江戸城が築かれた1457年当時は、現在の大手町や日比谷辺りまで海岸線が入り込んで「日比谷入江」であった。
この頃、現在の神田川は、小石川橋付近で、平川と呼ばれ、現在の「日本橋川」に流れ込み、「日比谷入江」に注がれていた。
日比谷入江に近い「平川」の下流域は絶えず洪水の危険にさらされ、第2代将軍「徳川秀忠」は、仙台藩の伊達政宗に命じて、「小石川橋」付近から
「お茶の水、神田」を経て「隅田川」に至る土地を開削。
1620年~1625年の五年間をかけて「神田川」の流路を変更し、「小石川橋」付近から「俎橋」の間の「平川」を埋め立てた。
結果、「日比谷入江」に面した下流域の洪水が防止されたばかりでなく、掘削の際の廃土で海岸付近を埋め立てて土地を造成し、川を利用した物資輸送を活発化させ、江戸城の北方に対する防衛をも強化したと云う。
鎌倉橋から大手町方面
秋葉原 千代田区・区の北東
駅は、JR総武線・山手線・京浜東北線・営団地下鉄日比谷線が、地名は明治2年の大火により焼け野原跡に「火伏せの秋葉神社」を勧請した。
現在神田1丁目を中心に電気街にまとめられた。
明治の維新が起こり、江戸は、東京と名前が変わり、江戸時代に武家屋敷街であった万世橋界隈は、明治にはいってから、武家がなくなり、廃藩置県が行われて藩がなくなり、江戸にあった諸藩の藩邸も、参勤交代がなくなって不要になり、武家屋敷は取り壊されて、そこに新たに商店街が進出。
万世橋界隈は、衣類の問屋街に生まれ変わり、連雀町と呼ばれる町に生まれ変わった。
人が集まるところには、自然とサービス業も進出し,そこには飲食店もたくさんでき、落語や講談や浪曲などが行われる寄席も、その寄席は、後年には映像を映し出して、弁士が音声の代わりをつとめる無声映画館に変化、神田食味街が。
明治も中頃に、立川~新宿間に「甲武鉄道」という私鉄が開業した。
甲武鉄道が利便性を求めて新宿から次第に伸び、明治45年には、始発駅が神田界隈まで伸び、こうして開業したのが、「万世橋駅」。
「万世橋駅」大正12年の関東大震災で、駅舎が消失.その後簡素な駅舎が再建、神田駅や秋葉原駅が近くに出来たことで、乗降客が減少し、
昭和18年には、中央線が神田駅、そして東京駅に接続になることで、万世橋駅は廃止に、
「神田旅篭町」
江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れ、また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際必ず通った街道、(現在の国道122号にほぼ相当)二つの重要な街道の拠点となる町が「旅籠町」。
天和二年、に江戸で大火事が起こり、浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火で、「旅籠町」は、火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられている。1694年、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転している。
明治2年には、「昌平橋」と「筋違橋」の北側にあった幕府講武所付町屋敷が、今の神田旅籠町三丁目に。
旅籠町の由来となった旅籠は、幕末のころにはほとんど姿を消し、諸問屋名前帳によれば、嘉永の1848年~1854年頃まで残っていた旅籠は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭、塩、酒を扱う問屋が増えた。街道筋の宿場町として誕生した旅籠町は、商人の町として成長していく。
日露戦争 1905年の明治38年・日本海海戦、日本軍の完勝、ロシア艦隊はほぼ全滅した。
東郷平八郎大将とロジェストヴェンスキー中将
戦力ー戦艦4隻・装甲巡洋艦8隻・巡洋艦15隻・他全108隻・
ー戦艦8隻・海防戦艦3隻・装甲巡洋艦3隻・巡洋艦6隻・他全38隻
「日本海海戦」
バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほとんどを失った。
ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴイ」(30日到着)の3隻のみであったと云う。
病院船である「アリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「アリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「アリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入された。
「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還している。
バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていた。連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となった。
我が国の記念日ー5月27日・「海軍記念日」に、(戦後になり廃止)式典は、現在でも毎年開催。
神田川に面する万世橋界隈は江戸時代から繁栄している。
万世橋の南側に位置する田町(後の多町、現・神田多町)には、青物商が集まり、青物商は17世紀初期(慶長年間)から田町、連雀町、佐柄木町に散在しており、1657年の明暦3年、「明暦の大火」の直前には81軒まで増えていたが、大火の後、多町にまとめられたと云う。
享保の改革が行われた1724年、幕府御用達となってからは急速に発展し、後の神田市場の母体となる。
神田川北岸には、米、薪炭、竹などの問屋があったほか、職人仕事の諸材料の荷受け地でもあった。
幕末期には、住宅地としても発展し、幕府が財源確保のために、ところどころを町人に貸したこともあって、神田っ子の町が育って行ったのである。
明治以降、更に発展し、洋服生地を扱う問屋街が周辺に形成、万世橋駅前の連雀町(今は神田須田町 - 神田淡路町の一部)には、飲食店、寄席、映画館が次々と開業した。
万世橋駅の初代の駅舎は豪華であったと云う。
東京駅と同様に「辰野金吾」の設計による赤煉瓦造り、一等・二等待合室、食堂、バー、会議室等を備えている。
貨物用のエレベーターも整備、中央本線のターミナルとしてだけでなく、ここから両国駅方面への総武線の敷設計画をも見据えたものであったと云う。
駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。
東京市電が走り、多くの人で賑わった。大正時代に最盛期を迎えた。しかし万世橋駅の開業後に、東京駅が完成。
大正8年、万世橋 - 東京が開通。中央本線の起終点としての役目は7年で終わり、同年に神田駅が開業。大正14年、上野 - 神田間の高架線が完成。
秋葉原駅が旅客営業を始めた。
一方、万世橋駅は、大正12年、関東大震災で駅舎が焼失し、遺体安置所に利用された後、簡素な駅舎が再建された。
徒歩圏内に神田駅及び秋葉原駅が出来たこと、それに上野 - 神田の路線が出来たことで東京以南から上野・浅草方面への市電乗り換え駅としての地位を失ったため、乗客数は急減していった。
須田町交差点が移転し、昭和4年以降は市電も通らなくなった。昭和11年、東京駅から鉄道博物館が移転。
駅舎は解体縮小され、博物館に併設された小屋となった(閉鎖後は博物館の事務室に使われた)。
駅構内にあった階段の一部は博物館への直通連絡口に使われたものがあった(駅閉鎖後は休憩所に転用された)。
解体縮小の直前には駅構内の食堂が営業を終了し、昭和18年、駅は休止(実質上廃止)となり、駅舎は交通博物館部分を除いて取り壊された。
戦前軍神「広瀬武夫」 1868-1904 日露戦争(1889-1904)飛騨高山
第二の閉塞作戦において、閉塞船「福井丸」を指揮・敵駆逐艦の魚雷を受け、撤退、自爆用爆薬に点火するため船倉に行った。部下の「杉野孫七上等兵
曹」の姿がなく戻ってこなかったことに気が付き、広瀬は杉野を助けるため一人沈みゆく福井丸に戻り船内を捜索したが彼の姿は見つからず救命ボートに乗り移ろうとした直後頭部に、ロシア軍砲弾を受け戦死した。 37歳
広瀬中佐と杉野曹長の銅像が「万世橋駅」にあった。
初代駅舎は、近代的な赤レンガの高層建築であった。
現在の万世橋
1930年の昭和5年、関東大震災からの復興事業の一環として建造された。
鉄筋コンクリート造り、風格あるその姿は、85年後の今もそれほど変わっていない。
万世橋の北東側。道路からつながる階段の先には、小さな「船着き場」のようなスペースが。
さらにその脇には、重々しい金属製の扉があり、ここから橋の地下部分に入れると云う。
戦後も万世橋は、都電が集散していた。
「万世橋」から名前をとった肉の万世が産声を上げましたのは、まだまだ戦後の混乱も収まらない昭和24年。
電気部品商より、折からの統制の外された食肉業への転業として、創業者鹿野明・ソノ子夫婦は素人の発想を生かした独創性により、現本店の地に小さいながらも当時としては斬新なガラス張りの精肉と惣菜店の暖簾を出すことが出来ました。また、包装紙もまだ古新聞が使われていた時代でしたが、何か楽しい夢のあるものと童画家林義雄先生にお願いしてモーちゃん、ブーちゃんの描かれた楽しいものをデザインして頂きました。
包装紙は現在もそのまま使っている。
神田川の支流,日本橋川.
太田道灌によって江戸城が築かれた1457年当時は、現在の大手町や日比谷辺りまで海岸線が入り込んで「日比谷入江」であった。
この頃、現在の神田川は、小石川橋付近で、平川と呼ばれ、現在の「日本橋川」に流れ込み、「日比谷入江」に注がれていた。
日比谷入江に近い「平川」の下流域は絶えず洪水の危険にさらされ、第2代将軍「徳川秀忠」は、仙台藩の伊達政宗に命じて、「小石川橋」付近から
「お茶の水、神田」を経て「隅田川」に至る土地を開削。
1620年~1625年の五年間をかけて「神田川」の流路を変更し、「小石川橋」付近から「俎橋」の間の「平川」を埋め立てた。
結果、「日比谷入江」に面した下流域の洪水が防止されたばかりでなく、掘削の際の廃土で海岸付近を埋め立てて土地を造成し、川を利用した物資輸送を活発化させ、江戸城の北方に対する防衛をも強化したと云う。
鎌倉橋から大手町方面
秋葉原 千代田区・区の北東
駅は、JR総武線・山手線・京浜東北線・営団地下鉄日比谷線が、地名は明治2年の大火により焼け野原跡に「火伏せの秋葉神社」を勧請した。
現在神田1丁目を中心に電気街にまとめられた。