「矢坪坂」の古戦場
相模国の「北条氏綱」と甲斐国「小山田越中守」
上野原町指定文化財の「矢坪坂の古戦場跡」- 長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に、この矢坪と新田の間の坂を
「矢坪坂」と言い昔戦場となったところ。 享禄3の1530年、
相模国の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻めこみ矢坪に進んだ。
一方、小山田越中守の手勢が坂の上で待ちかまえ、両者は坂をはさんで対峙し、やがて激戦が展開。同所一帯は南西に切り立った崖と北西に山腹を臨み道が入り組んでいる要害の地、戦いは多勢に無勢、ついにー小山田勢は敗退。
富士吉田方面に逃げた。
たまに矢じりなどが掘り出されることがあったという。
付近に五輪塔四基、宝篋印塔一基があるが、この戦の関係のものかどうか定かではないと云う。(上野原町教育委員会)
現在の中央高速の談合坂SAの近く。
中央高速道路建設で多くの史跡が破壊されたと云う。
日本橋から下諏訪までの街道「甲州街道」幕府が開設した5街道の一つ。
45宿のうち上野原宿は4宿

ー犬目宿・野田尻宿・鶴川宿・上野原宿ー

甲斐国最初の宿場が「上野原宿」
旅籠数も多く活気のある宿場町・安藤広重は、織物が響く町と評している。

葛飾北斎の「甲州犬目峠」の富士山で、犬目宿から。

あきる野市方面は33号線 相模湖ー「上野原」ー大月ー甲府 20号線甲州街道

上野原は、日本橋から74km。

織物街から今は酒まんじゅうの街に。

「牛倉神社」 旧郷社
鎮座地 上野原市内
御祭神ー保食神、須佐之男命、天児屋根命、武甕槌命、経津主命

天王森の愛称で崇敬され,甲斐国風土記残篇に都留郡の東、古郡幸燈明神とある。
永禄9年、加藤丹後守景忠が再営、後、慶長9年、元和8年、正保2年、寛文13年間に改築加修。
旧高二石一斗一升あったが明治4年上知、明治5年郷社に。
本殿拝殿の腐朽に困り、古昔の社殿を模擬して改築。
本殿、神明造、行二間一尺、梁、一間五尺、幣殿、八坪、拝殿、二十四坪、神楽殿、7、五坪、祖霊社(靖国社)三間社流造(通称、赤宮と呼び、約四百余年前改築の旧本殿)の建築様式は北都留郡で唯一のものである。
狛犬

祭神は農耕神・牛と呼ばれた神人。毎年9月上旬ー神輿・山車が。
社殿

武田軍が暖を取る為立ち寄ったとされる「諏訪神社」がある。
諏訪の街並み


近くに中央高速道が。

旧甲州街道に碑が。

諏訪神社社殿

鳥居

農家の蔵

日蓮宗「船守寺」
水難交通守護と書かれた石碑が。
「日蓮大聖人伊豆御法難の危難を御救い申した船守弥三郎殿伊東川奈船守山蓮慶寺より分骨の地 」 とあったが、 これは 「日蓮上人が弘長元年(1261)、鎌倉幕府により伊豆に流されたときに救った弥三郎夫婦が、 後日、日蓮より船守の御名を授けられた。 」 という故事によるもの。
夫婦の出身地という縁から昭和30年に当地につくられた日蓮宗の寺。

由来が

本殿
