「甲州街道」
江戸幕府によって整備された五街道の1つ。
5番目に完成した街道で、江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで「38」の宿場が置かれた。
近世初頭には「甲州海道」と呼称され、1716年、街道呼称整備で「甲州道中」に改められ、中馬による陸上運送が行われた。
江戸の町において陰陽道の四神相応で言うところの白虎がいるとされる街道である。
多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更。
その後も古く狭い街道が多かった。
甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年・すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった街道。
近世には、諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。
そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。
これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。
参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩で、それ以外の藩は中山道を利用。
下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。
その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあったと云う。
「甲州道中分間延絵図・甲州道中図屏風」が知られ、宇治採茶使は甲州街道を利用したと云う。
主な宿場は、
内藤新宿ー高井戸ー布田ー府中ー日野ー八王子ー駒木野宿(八王子市)ー小仏宿(八王子市)ー小原宿(神奈川県相模原市緑区)ー与瀬宿(神奈川県相模原市緑区)ー吉野宿(神奈川県相模原市緑区)ー関野宿(神奈川県相模原市緑区)ー上野原宿(山梨県上野原市)ー鶴川宿(山梨県上野原市)ー 野田尻宿ー犬目宿野田尻宿(山梨県上野原市)ー犬目宿(山梨県上野原市)ー鳥沢宿(山梨県大月市)・・・・甲府~中山道へ。
「月が池湖公園」
上野原は、周囲にいくつもの河川に囲まれながら、小高い河岸段丘上にあったため農業用水の確保が困難だった。
北の秋川の方からトンネルとサイフォンをくり返し導水する計画で、大正時代に 工事完了した。「月見ヶ池」である。
全国ため池100選に、(県で唯一のキマダラルリツバメの生息地) 鯉、ふな、鴨が。
湖畔に「月見寺」参道・桜並木が
中央に弁天様が。
「上野原の大ケヤキ老木」
樹高 28m・目通り幹囲 8.6m・推定樹齢 800年以上・国指定天然記念物。
大ケヤキ老木のある上野小学校校庭から現在の街並み。
「保福寺・月見寺」ー1582年創建ー
山門の両脇に「萬霊等」と「月見寺」と刻された二つの大きな石碑が.
保福寺は別名、月見寺と呼ばれ、中里介山の作品「大菩薩峠」の中で「甲州上野原の報(保)福寺、 これを月見寺と唱えるのは、月を見る趣が変わっているからです」と書かれたことに由来の古寺。
石碑に、「大菩薩峠」の作者である 中里介山の真筆を彫刻した石碑とある。山梨県では真筆の石碑は、月見寺と大菩薩峠の頂上に残っている。
石碑
本堂(曹洞宗の寺)
武田家の重臣「加藤景忠(上野原城主)」が開基となり日州宗運和尚(甲斐の高僧、深向院4世)を招き開いたのが始まりとされ、織田信長と徳川家康連合軍による甲斐侵攻で武田勝頼が自刃すると、景忠は上野原城を捨て一族を引き連れ武蔵箱根ヶ崎まで落ち延びますがそこで北条方の軍勢と交戦し討死している。
保福寺は外護者を失い一時衰退し、江戸時代に入ると谷村藩主1.鳥居成次が庇護し、慶長6年の160年、には寺領4石8斗を寄進し、幕府も10石余の寺領を安堵している。
寺運も隆盛し境内には七堂伽藍が造営、1751年、火災で本堂や庫裏などと共に寺宝や記録も焼失した。
現在の本堂は、1756年、祝全和尚により再建されたもので寄棟、鉄板葺、平入、桁行11間、梁間8間、江戸時代中期の寺院本堂建築の遺構として貴重な存在と云う。
山門は向唐門、銅瓦棒葺、一間一戸、四脚門、承天禅師筆「安寧山」の扁額が掲げられている。
寺宝である応安6年の1373年、製作された「雲板」は銅製、縦44cm、横40cm、厚さ0.7cm、撞座直径9cm、大工金刺重弘作、雲板としては山梨県最古の貴重なもの。(山梨県指定文化財に指定)
境内には加藤景忠の供養塔や芭蕉句碑(父母のしきりにこひし雉子の聲)
甲斐百八ヵ所霊場第21番札所。本尊:地蔵菩薩。
山門・鐘楼は、1865年、信州の工匠により再建。(江戸末期の豪壮華麗な様式を示す寺院建築物)
「中里 介山」 1885-1944。
本名は弥之助。羽村市生まれ。父の家業不振のため苦しい少年時代を送る。
小学校高等科卒業後上京。電話交換手からのち小学校教員、キリスト教と社会主義の影響を受ける。
明治38年、白柳秀湖らと雑誌「火鞭」を創刊。
同誌に短編「笛吹川」を発表。翌年「都新聞」入社明治42年、同紙への連載小説「氷の花」をかわきりに「高野の義人」など数々の作品を掲載。
大正2年「大菩薩峠」の連載を「都新聞」で開始。本作はこの後、掲載紙を変えながら断続的に昭和16年まで書き継がれた。
未完に終わる。大正8年「都新聞」退社し、旺盛な執筆活動を続けながら、道場や私塾経営のほか「隣人之友」をはじめ各種雑誌の発行を手がける。
生涯を通じトルストイの影響を強く受けたといわれ、代表作には、聖徳太子に材をとった「夢殿」、法然上人を描いた「黒谷夜話」など。また晩年は自伝的文集「百姓弥之助の話」を残している。
江戸幕府によって整備された五街道の1つ。
5番目に完成した街道で、江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで「38」の宿場が置かれた。
近世初頭には「甲州海道」と呼称され、1716年、街道呼称整備で「甲州道中」に改められ、中馬による陸上運送が行われた。
江戸の町において陰陽道の四神相応で言うところの白虎がいるとされる街道である。
多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更。
その後も古く狭い街道が多かった。
甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年・すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった街道。
近世には、諸街道の整備が行われるが、甲州街道は徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。
そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。
これは、甲府城を有する甲府藩が親藩であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。
参勤交代の際に利用した藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩で、それ以外の藩は中山道を利用。
下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。
その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあったと云う。
「甲州道中分間延絵図・甲州道中図屏風」が知られ、宇治採茶使は甲州街道を利用したと云う。
主な宿場は、
内藤新宿ー高井戸ー布田ー府中ー日野ー八王子ー駒木野宿(八王子市)ー小仏宿(八王子市)ー小原宿(神奈川県相模原市緑区)ー与瀬宿(神奈川県相模原市緑区)ー吉野宿(神奈川県相模原市緑区)ー関野宿(神奈川県相模原市緑区)ー上野原宿(山梨県上野原市)ー鶴川宿(山梨県上野原市)ー 野田尻宿ー犬目宿野田尻宿(山梨県上野原市)ー犬目宿(山梨県上野原市)ー鳥沢宿(山梨県大月市)・・・・甲府~中山道へ。
「月が池湖公園」
上野原は、周囲にいくつもの河川に囲まれながら、小高い河岸段丘上にあったため農業用水の確保が困難だった。
北の秋川の方からトンネルとサイフォンをくり返し導水する計画で、大正時代に 工事完了した。「月見ヶ池」である。
全国ため池100選に、(県で唯一のキマダラルリツバメの生息地) 鯉、ふな、鴨が。
湖畔に「月見寺」参道・桜並木が
中央に弁天様が。
「上野原の大ケヤキ老木」
樹高 28m・目通り幹囲 8.6m・推定樹齢 800年以上・国指定天然記念物。
大ケヤキ老木のある上野小学校校庭から現在の街並み。
「保福寺・月見寺」ー1582年創建ー
山門の両脇に「萬霊等」と「月見寺」と刻された二つの大きな石碑が.
保福寺は別名、月見寺と呼ばれ、中里介山の作品「大菩薩峠」の中で「甲州上野原の報(保)福寺、 これを月見寺と唱えるのは、月を見る趣が変わっているからです」と書かれたことに由来の古寺。
石碑に、「大菩薩峠」の作者である 中里介山の真筆を彫刻した石碑とある。山梨県では真筆の石碑は、月見寺と大菩薩峠の頂上に残っている。
石碑
本堂(曹洞宗の寺)
武田家の重臣「加藤景忠(上野原城主)」が開基となり日州宗運和尚(甲斐の高僧、深向院4世)を招き開いたのが始まりとされ、織田信長と徳川家康連合軍による甲斐侵攻で武田勝頼が自刃すると、景忠は上野原城を捨て一族を引き連れ武蔵箱根ヶ崎まで落ち延びますがそこで北条方の軍勢と交戦し討死している。
保福寺は外護者を失い一時衰退し、江戸時代に入ると谷村藩主1.鳥居成次が庇護し、慶長6年の160年、には寺領4石8斗を寄進し、幕府も10石余の寺領を安堵している。
寺運も隆盛し境内には七堂伽藍が造営、1751年、火災で本堂や庫裏などと共に寺宝や記録も焼失した。
現在の本堂は、1756年、祝全和尚により再建されたもので寄棟、鉄板葺、平入、桁行11間、梁間8間、江戸時代中期の寺院本堂建築の遺構として貴重な存在と云う。
山門は向唐門、銅瓦棒葺、一間一戸、四脚門、承天禅師筆「安寧山」の扁額が掲げられている。
寺宝である応安6年の1373年、製作された「雲板」は銅製、縦44cm、横40cm、厚さ0.7cm、撞座直径9cm、大工金刺重弘作、雲板としては山梨県最古の貴重なもの。(山梨県指定文化財に指定)
境内には加藤景忠の供養塔や芭蕉句碑(父母のしきりにこひし雉子の聲)
甲斐百八ヵ所霊場第21番札所。本尊:地蔵菩薩。
山門・鐘楼は、1865年、信州の工匠により再建。(江戸末期の豪壮華麗な様式を示す寺院建築物)
「中里 介山」 1885-1944。
本名は弥之助。羽村市生まれ。父の家業不振のため苦しい少年時代を送る。
小学校高等科卒業後上京。電話交換手からのち小学校教員、キリスト教と社会主義の影響を受ける。
明治38年、白柳秀湖らと雑誌「火鞭」を創刊。
同誌に短編「笛吹川」を発表。翌年「都新聞」入社明治42年、同紙への連載小説「氷の花」をかわきりに「高野の義人」など数々の作品を掲載。
大正2年「大菩薩峠」の連載を「都新聞」で開始。本作はこの後、掲載紙を変えながら断続的に昭和16年まで書き継がれた。
未完に終わる。大正8年「都新聞」退社し、旺盛な執筆活動を続けながら、道場や私塾経営のほか「隣人之友」をはじめ各種雑誌の発行を手がける。
生涯を通じトルストイの影響を強く受けたといわれ、代表作には、聖徳太子に材をとった「夢殿」、法然上人を描いた「黒谷夜話」など。また晩年は自伝的文集「百姓弥之助の話」を残している。