syuの日記・気まま旅

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難攻不落と誇った 小田原城跡

2018-05-01 | 気まま旅
神奈川県小田原市・県南西に位置し地名は中世以来ー原野を小田に開墾しと事に由来する。
小田原・足柄・大窪・早川・酒匂川等の一部と合併し市制(昭和15年)。
「土肥一族・小早川氏、早川荘」の中核として開かれた。後、大森氏から北条早雲が奪取し後北条は、関八州(武蔵・相模・安房・上総・下総・常陸
上野・下野・・)を支配する北条城下町として繁栄した。
「豊臣秀吉」天下取りで小田原攻めで落城、後江戸時代には、「大久保氏」らが城主として小田原藩を治めた。
江戸を守る重要拠点で、特に「箱根」を結ぶ東海道の宿場町として再興し発展した。
明治に入ると一時衰退したが昭和9年「丹那トンネル開通」で、商業中心地として再生した。現在でも、梅栽培・相模湾水産費源蒲鉾・森林費源・観光
温泉街・風光明媚で温暖で「伊藤博文・山県有朋・北原白秋・谷崎潤一郎」等が居住。

                 私鉄小田急線「小田原駅」改札側


                 北条5代祭ー5月3日~5日 武者行列が 


                   城山公園下の三の丸付近


「小田原城跡・公園」
JR小田原駅南口・西口・箱根外輪山山麓の台地上にある。
土肥一族の小早川氏による築城が起源と云う。のち大森氏から後北条氏5代と江戸時代大久保氏の居城として幕末を迎えた。
北条氏末期に、城下を堀・土塁で囲まれ総延長「10km」に及ぶと云う大外郭(総構)が築かれている。

                   難攻不落を誇った城跡


    JRの鉄道が二分・天守閣は公園寄りであるが、元は反対の山城にあったと云う。


                      明治3年廃城


「土肥実平」 生没不詳 1100年頃 源頼朝信頼大の武将、相模国中村荘司の子、弟ー土屋宗遠・子ー小早川遠平と共に、頼朝と共にしている。
平家滅亡後は、備前・備中・備後の守護・義経後、京都警衛。
石橋山の戦いに敗れ、頼朝と行動を共にしている。一説では、頼朝と実平で真鶴岬から海路千葉の安房脱出に成功し、北条政子に伝えたのは子の遠平と云う。実平の子遠平から「小早川氏」で、安芸に移住し、戦国大名になっている。

                       駅西口の城山


「大森氏」は、台頭するのは、室町時代初期の「大森頼春」の代、鎌倉公方に仕え、上杉禅秀の乱の鎮圧に功績を挙げ、禅秀方であった土肥氏を滅ぼし、その勢力圏であった相模・伊豆に勢力を広げている。
「永享の乱」では持氏方に属して幕府軍と戦い敗れるも、国人領主として勢力を保った。
「享徳の乱」以降の混乱期においては、大森憲頼・成頼と大森氏頼・実頼父子の二系統に分かれ対立、太田道真・道灌の支援を受けた氏頼系が勝利し
憲頼系は箱根山中に逃亡し、氏頼系は扇谷上杉家に属し重臣となって、小田原城を拠点として勢力を広げ繁栄した。
その後、氏頼の子で実頼の弟の大森藤頼の代に「伊勢盛時」の手により小田原城を落とされ没落したといわれるが、史料の上ではつじつまの合わない部分も多く、その経緯の詳細については不明。
三浦氏滅亡の際にともに討ち死にした人物に「大森越後守」があり、氏頼の弟の高頼とされている。
「長享の乱」以降の「扇谷上杉家」の衰退と相模における後北条氏の台頭に従い、大森氏が没落していったことには間違いないが、北条家所領役帳には「大森殿」と殿付きで呼ばれている人物があり、大森氏の一族が客分扱いで後北条氏に従属していたと考えられている。
またこの「大森殿」以外にも 永禄10年に「北条氏邦」から印判状を与えられた「大森越前守」、駿河日枝社神主「大森猿千代」、天正13年に、徳川家康の援軍として「北条氏房」から派遣された「大森兵衛太夫」、「小田原合戦」で小田原城に籠城した「大森甲斐守」が存在する。
江戸時代に入っても徳川氏に仕え江戸幕府の寄合旗本として存続した者の他、水戸、備中など各地で大森氏子孫を名乗る家が存在したと云う。

                        公園内の天守


                    小田原のシンボル「小田原城」


                    1960年昭和35年 天守閣復原


                     1971年 常盤木門復原


後北條五代は、菩提寺「早雲寺」で。













難攻不落を誇る城、酒匂川・足柄山と箱根外輪山・早川・相模湾と四方囲まれ、深い堀、土塁で囲まれた「小田原城」。
両軍戦っていとら、豊臣軍が攻めきれたか疑問である。
次回は、北条5代のねむる箱根湯本「早雲寺」へ。



「報徳二宮神社」
天守閣の南西に鎮座。
「二宮尊徳」の偉業をしのび1893年明治26年建立された。

                    境内には、尊徳の像・報徳博物館などがある。


                            尊徳像


                             社殿


「筋違橋町」
橋の名が町名に、橋は、見当たらない。
町内の東海道筋を西から、諸白小路、狩野殿小路、安斎小路(いずれも武家屋敷が並ぶ)が南へ延びている。町内には御用商人の小西家があり、江戸時代末期には脇本陣1、旅籠が11軒ほどあった。

                東海道一号線・旧東海道筋、昔ながらの町名、風情の店が。


                            山角町


                            組長屋


箱根湯本方面へ