「青砥藤綱」鎌倉北条氏の臣
出身は上総とも武蔵ともいう。青砥藤満の妾の子という伝承もあり。「弘長記」によれば伊豆の武士で「承久の乱」で上総国青砥荘を領した大場近郷の子孫と伝えられる。11歳の時に出家したものの、21歳の時に還俗して家に帰った。
学問に優れ、儒教や仏教に広い知識を有していたという。
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。この時、藤綱は28歳であったという。
ある人が時頼と所領を争ったさい、奉行人たちは、その権威をはばかって敗訴としたのを、藤綱は道理を重んじて所領を返し、その人が謝礼に贈った銭をも返した。
これによりその公正・剛直が広く知られるようになった。
かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。
「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。
50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。
合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えたと云う。
次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。
藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。
なお、「太平記」では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。
「弘長記」では評定衆に任じた、ともある。
藤綱は、その抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。
この時、藤綱は28歳であったという。

千葉一族の「葛西氏」
下総国葛西御厨の庄官だった桓武平氏流葛西氏は、秩父氏の一族である。
その遠祖・ 葛西三郎清重は源頼朝に挙兵から従い、数々の軍功を挙げて、頼朝の大きな信頼を得た人物である。
鎌倉時代においては、下総国一ノ宮である「香取神宮」の式年遷宮の造営役を千葉氏と交代で執り行うほどの力を持つ。
しかし、鎌倉時代中期にはその基盤を陸奥国に移し、下総国からは姿を消した。
代わって陸奥国では大きな勢力を持ち、陸奥葛西氏として繁栄を極めている。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに従わず、滅亡したと伝わる。




















これで都内は終わります。次回は、千葉県へ。
出身は上総とも武蔵ともいう。青砥藤満の妾の子という伝承もあり。「弘長記」によれば伊豆の武士で「承久の乱」で上総国青砥荘を領した大場近郷の子孫と伝えられる。11歳の時に出家したものの、21歳の時に還俗して家に帰った。
学問に優れ、儒教や仏教に広い知識を有していたという。
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。『弘長記』では評定衆に任じた、ともある。藤綱はその抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。この時、藤綱は28歳であったという。
ある人が時頼と所領を争ったさい、奉行人たちは、その権威をはばかって敗訴としたのを、藤綱は道理を重んじて所領を返し、その人が謝礼に贈った銭をも返した。
これによりその公正・剛直が広く知られるようになった。
かつて夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。
「10文を探すのに50文を使うのでは、収支償わないのではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。
50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。
合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と答えたと云う。
次代執権の北条時宗にも仕え、数十の所領があり家財に富んでいたが、きわめて質素に暮らし倹約を旨とした。他人に施すことを好み、入る俸給はすべて生活に困窮している人々に与えた。
藤綱がその職にあるときには役人は行いを慎み、風俗は大いに改まったという。
なお、「太平記」では藤綱を北条時宗及び次代執権の北条貞時の時の人としている。
北条時頼が鶴岡八幡宮に参拝した日の夜、夢に神告があり、藤綱を召して左衛門尉を授け、引付衆とした。
「弘長記」では評定衆に任じた、ともある。
藤綱は、その抜擢を怪しんで理由を問い、「夢によって人を用いるというのならば、夢によって人を斬ることもあり得る。功なくして賞を受けるのは国賊と同じである」と任命を辞し、時頼はその賢明な返答に感じるところがあったという。
この時、藤綱は28歳であったという。

千葉一族の「葛西氏」
下総国葛西御厨の庄官だった桓武平氏流葛西氏は、秩父氏の一族である。
その遠祖・ 葛西三郎清重は源頼朝に挙兵から従い、数々の軍功を挙げて、頼朝の大きな信頼を得た人物である。
鎌倉時代においては、下総国一ノ宮である「香取神宮」の式年遷宮の造営役を千葉氏と交代で執り行うほどの力を持つ。
しかし、鎌倉時代中期にはその基盤を陸奥国に移し、下総国からは姿を消した。
代わって陸奥国では大きな勢力を持ち、陸奥葛西氏として繁栄を極めている。
しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに従わず、滅亡したと伝わる。




















これで都内は終わります。次回は、千葉県へ。