syuの日記・気まま旅

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浅草から鳥越神社へ

2013-06-21 | 気まま旅
6/9、鳥越神社の夜祭り、久し振りに浅草に出た。浅草寺の大提灯雷門総門を潜った。向かって左に雷神の像、右に風神の像睨んでる。
浅草のシンボルに定着し、観光用人力車の勧誘合戦が、外人も多い。
雷門の大提灯の大きさは、高さ4.5m・重さ130kgと云う。
浅草観音で名高い、金竜山浅草寺参拝した。本坊は、伝法院通り、寺伝によると628年推古天皇時代とある。
5.5cmの聖観音黄金像が隅田川で網に掛ったという。本堂前は、人人である。

地下鉄地下道に三社祭りの絵


浅草寺の「鎌倉時代吾妻鏡」によれば、1181年、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。
1192年、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条の「とはずがたり」には、
1290年 浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。
1590年、江戸に入府した徳川家康は浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。
江戸大災があったが、3代将軍徳川家光の援助により、1648年に五重塔、1649年に本堂が再建された。
徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。

観光客と人力車で溢れている 
    

1685年には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられ、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したという。
江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。
1842年から、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転している。

東京スカイツリーで五重塔が小さく見える
    

浅草寺弁天堂「時の鐘」は、江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。
当初は、江戸城内にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町に設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九箇所でも時を知らせた。
鐘の大きさは、高さ2、12m、直径1、52m。鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、1692年、五代将軍綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備前守成貞が黄金二百両を寄進した。
 この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺梵鐘として、さまざまな文学に登場する。

松尾芭蕉の句で、 花の雲 鐘は上野か 浅草か。

昔と変わらずの弁天堂付近
    

境内の銅像阿弥陀如来坐像は、極楽浄土にあって法を説き無量の光明と寿命をもって永遠の生命を与えてくださる仏さまと云う。
像は唐銅製で、阿弥陀三尊像として1693年に千人近い信徒によって建立された物。
本堂裏にあったものを、1994年にこの地に奉安したと云う。総高7.5m。

銅像三尊は、移転していた。
    

境内の母子地蔵尊は、 第二次世界大戦末期のソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(旧満州)で避難行の末命を落とした日本人の数は二十万人を超えると云われています。
酷寒の曠野を逃げ惑うの母子が生別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなどその悲劇は数知れません。
犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会かなわない親と子の心のよりどころとして二度と戦争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつここに、母子地蔵を建立。1997年願主、千野氏ほか。

母子地蔵尊も気が付かなかった
    

浅草寺に並んで「浅草神社」、三社様として親しまれている。浅草寺の本尊の黄金観音像を隅田川底から白い上げた漁師の、
檜前の浜成・武成兄弟と村長の土師、真中知の三人を祭神とし「三社様」という。
神社の祭りを「三社祭り」といい、江戸三大祭の一つ。毎年5月。

浅草神社をゆっくり参拝、三社祭の輿庫がならんでいた
    

浅草生まれ「川口松太郎」は、洋服屋や、警察署の給仕、1915年の夏から約1年間、栃木県芳賀町にあった祖母井郵便局に電信技士として勤務などした後、久保田万太郎に師事する。
1915年小山内薫門下の脚本研究会員1923年の関東大震災の後、大阪のプラトン社に勤め、直木三十五と共に働き、「苦楽」の編集に当たる。
劇団新生新派主事1938年 大映監査役専務1947年、同取締役1960年、明治座取締役制作部長、浪花楽天地監査役。
1935年、「鶴八鶴次郎」などで第1回直木賞を受賞。代表作の「愛染かつら」は、1938年(昭和13年)に映画化、田中絹代・上原謙の主演で人気を博した。
1966年、日本芸術院会員 1973年、文化功労者。境内に碑がある。

川口松太郎碑
    

久保田万次郎は、1889年 - 1963年、浅草生まれの大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家。生粋の江戸っ子として伝統的な江戸言葉を駆使して下町情緒と古典落語を愛し、滅びゆく下町の人情を描いた。

句碑         浅草神社に 「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」

         駒形どぜうの庭 「みこしまつのどぜう汁すすりけり」。

浅草と云えば「永井荷風」昭和20年 岡山で終戦を迎えるている。昭和21年 市川市菅野のフランス文学者、小西茂也宅に借家を構える。「踊子」「勲章」「浮沈」など一挙に発表。「勲章」は浅草の楽屋通いの中から生まれた作品。「踊子」「春情鳩の街」を浅草の劇場で上演する。「断腸亭日乗」を中央公論に連載。再び浅草通いが始まる。
昭和23年借家を出て、同じ菅野に新居を購入(平屋建て家屋18坪 金32万円)し、昭和25年 「老人」発表。葛飾区立石で暮らす世捨て人のような老人に自らを重ねる。5月「渡り鳥いつ帰る」をオペラ座で上演し、荷風は通行人として出演する。
生活。昭和27年 文化勲章受章(選考委員の久保田万太郎の推挙があったという)


久保田万次郎碑                            時代屋の人力車に新婚さんが
    

石鳥居の右手の句碑群の中に「人麿の歌碑」が、  ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島がくれゆく舟をしぞ思ふ
歌は本曲にも引用されているが、万葉集ではなく、古今集に収録されているもの。

碑面にはこの短歌を万葉仮名で書いて刻み、「蕋雲女史文鴦書」とある。蕋雲女史とは、1804~17年の吉原の遊女で、粧太夫という名妓、書を中井敬義に学び和歌もたしなんだ。
歌碑は人麿を慕う粧太夫が人麿社に献納したものと云う。

粧大夫碑                                          観光人力車、婚礼人力車が
    

初代市川猿翁、1888- 1963年は、明治から戦後昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。
屋号は 澤瀉屋。定紋は澤瀉、替紋は三ツ猿。俳名に笑猿。

神社境内の句碑ー 翁の文字 まだ身にそはず 衣がえー 猿翁. 建碑 1967年。

市川猿翁碑                            隅田公園方面へ
    

松坂屋デパート、隅田公園前、から吾妻橋水上バス乗り場に向かうと住宅の挟まれて小さな「嬉しい森の神社」があったので合掌する。

地元アサヒビール本社があるわりに、浅草で旨いビールが飲めないのは残念である。
雷門付近に直営アサヒビールのサービス最高の、ホールをお願いしたい。

街角に小さな鎮守様、誰と無くお祖納物が                    吾妻橋雷門側、
    

本所吾妻橋に、「あずま地蔵尊」がある。遊歩道を挟んだ目と鼻の先に「墨田公園入口」と記した石碑がひっそりと建っているのに気がついた。古い碑である。「復興完成記念」、昭和7年4月吉日に建立されたとその石碑に刻まれている。
関東大震災・東京大空襲の碑、特に吾妻橋は猛火に、石碑には数度修復された痕跡がある。合掌する。

吾妻地蔵尊合掌               大川(隅田川)           生ビールをここで
    

鳥越神社は夜祭に行く。時間があるので、ビール生を飲む。

次回、鳥越神社夜祭りへ(徒歩約20分)。

宮城峡ニッカウヰスキー工場

2013-06-19 | 気まま旅

ニッカウヰスキー宮城峡蒸溜所見学する。
写真を写す時のポーズに「チーズ」が一般的、ニッカの工場では「ニッカ」。宮城峡は、広瀬川、新川川の清流が交わる緑豊かな森にある。
ウイスキーは、青冽の水、澄んだ空気、冷涼で湿潤な気候が良いと云われ、ここ蒸溜所は適している。

ウイスキー製造工程は、

麦芽ー粉砕ー糖化ー濾過・冷却ー酵母・醗酵ー蒸留ー再留ー樽貯蔵ーモルトウイスキー。
ライ麦・えん麦・トウモロコシ・麦芽ー粉砕ー蒸煮ー麦芽・糖化ー濾過・冷却ー酵母・醗酵ー蒸溜ー樽貯蔵ーグレン・ウイスキー。
モルトとグレン調合したのがブレンデッドウイスキー。

スッコチウイスキーは、樽詰め後、3年以上熟成が必要(イギリススッコトランド)。

見学者待合室から広い工場街を案内人にしたがってキルン塔(麦芽を乾燥させる)へ。


キルン塔でビートをもやし麦芽をかんそうさせる。


蒸溜 醗酵液を熱することで香味成分やアルコールを取り出す。




樽に詰め熟成させる。長期間寝かせることにより豊かな香味と琥珀色を身に付ける。






試飲の時間です。3種類のウイスキーとリンゴワインが特に美味しく感じました。







作並温泉へ行きました 

2013-06-17 | 気まま旅
仙台は何年振りでしょうか。今回は有名な作並温泉へ友人と旅をしました。温泉三昧と云う事で山寺は行きませんでしたが、
宿からバスが出て定義山神社へ出掛けました。


藤の花が満開でした。町のあちらこちに咲いています。


宿泊した宿、崖にある露天風呂が有名。昔小説の舞台になり思い出が残る。 


定義如来の歴史
今から約八百年前、平重盛が平和祈願の為に中国の欣山寺に黄金を寄進。その際に送献されたのが、阿弥陀如来の宝軸でした。
平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後は、平重盛公の重臣・肥後守平貞能 がこの宝軸を守り、源氏の追討を逃れるため名も定義と改め、この地に隠れ住みました。それが定義如来という呼び名の由来。

貞能公は建久9年(1198年)7月7日御年60才で亡くなられ、墓上には小堂を建て如来を安置し、後世に伝えていくことを従臣たちに遺言。それを守り、宝永三年(1706年)には早坂源兵衛が出家し、極楽山西方寺の開造となりました。

本堂と五重塔、平成11年に建てられた新本堂は旧本堂(貞能堂)をそのままスケールアップさせたような形となっています。



宿からマイクロバスで約40分ほど。定義山神社にいたる参道には、お土産物の店、地産のもの沢山売っています。








天皇塚(連理の欅)貞能堂の裏にある天皇塚は、安徳天皇の遺品を埋め冥福を祈り、墓標として2本の欅が植えられました。
やがて一本の木として結ばれ、連理の欅と呼ばれる様になりました。現在では、縁結びの神木として広く知られ良縁を求める多くの人々が訪れます。









参道の両側で野菜など、蕨、ふき、うど、地のものが売られていて楽しい。

あぶらげの三角揚げが名物、その場で食べられる。


次回は仙台ニッカウヰスキー工場見学です。

里見公園と国府台城跡

2013-06-15 | 気まま旅
 
広大な敷地の総寧寺、国府台城は、崖城であった


「里見公園」は、市川市国府台にある市立公園。
春の花見の名所 として知られる。面積8.2haと広い。
江戸川の流れを見下ろす高台にあるため、江戸川、東京 東部の市街、富士山等山々の眺望に優れている。
15世紀に、この地に太田道灌が仮陣を建設し、それが「里見城」と変わっていく。


公園入口の桜並木 満開時は桜のトンネルに
    

北条軍の反撃

この勝利に気をよくした里見義弘は出陣が正月早々であった事を配慮して兵士たちに酒を振舞う。だが、遠山・富永の早い段階での潰走によって主力を結果的に温存する事になった北条軍は撤退したと見せかけて、翌8日未明に再度江戸川を渡って里見軍に夜襲をかけたのである。酒宴の後の里見軍は大混乱に陥った。更に北条軍の工作で里見軍の主力である土岐為頼(一説には義弘の外祖父ともいう)が義弘を裏切って戦場を離反、筆頭重臣正木信茂は戦死し[3]、義弘は同じく重臣の安西実元が身代わりとなり、合戦直前に里見側に寝返ったために戦場に遅参してきた土気城主酒井胤治に救出されてやっとのことで戦場を脱出したのである。

近年の再検証

近年になり、こうした合戦の経過記録は永禄6年1月の戦いと翌永禄7年1月の戦いが混同されて出来上がったものであるとの考えが有力視されている。6年にも本格的な戦闘があったとする史料の存在が明らかになり、従来は7年のものの誤記と考えられてきた記録も、単純に誤記と信じるわけには行かなくなったからである。 1月8日未明の奇襲については永禄6年とする記録があることに加えて、現存する北条氏による発給文書において永禄7年の戦いで里見軍を潰走させた日付を2月18日としているものが存在する。

戦後  いずれにしろ、永禄7年の戦いの後、北条軍は一気に上総にまで進出して、土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させた。だが、苦境に立った里見軍は却って積極的な軍事行動によって北条軍を牽制した。そして三船山の合戦での勝利により北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、両氏の戦況は再び膠着するのである。

小田原北条氏と里見氏の確執の場、数次に渡る激しい戦いがあった。 国府台は江戸という肥沃で広大な平野を一望に見渡せる重要な戦略拠点。この台地をめぐって何度も血腥い争いが繰り広げられた。
中でも有名な戦いは、天文7年(1538年)の第一次国府台の合戦、永禄7年(1564年)の第二次国府台の合戦である

国府台城址の碑
  

第二次国府台の戦い

第二次国府台の戦いは、里見義弘(義尭の子)・太田資正の連合軍と、北条氏康(早雲の孫)の間で繰り広げられた。

緒戦は里見軍が勝った。思い通りの用兵と要害に拠り闘う利点が功を奏したのだろう。
里見義弘はその夜、戦勝祝いの酒を酌み交わしていた。しかし北条軍は、勝利の美酒に酔いしれる里見軍に気づかれることなく密かに部隊を展開していた。そしてその夜の内に里見軍を包囲してしまっていたのだ。

翌朝、夜明けとともに北条軍は里見の陣になだれ込んだ。狼狽した里見軍は、甲冑をつけることも太刀を取ることも適わず、名ある将兵が次々と討ち取られていった。義明自身も乗馬を撃たれて、部下の馬に跨って這々の体で戦場から離脱したという。

この2回の戦いで多くの将兵が討死にした。今でも土を掘り返すと茶碗のかけらや、武具の切れ端が見つかることがある。
里見公園内には戦死した将兵の霊を鎮める江戸時代の石碑が建っている。江戸川を見渡す崖のあたりは樹木がうっそうと繁り、今にも箙に矢を立てた血まみれの鎧武者が現れそうだ。夜中になると泣き声が聞こえるという言い伝えの石もある。

公園には大勢の人が歩いている

僅かに残る土塁・堀跡 郭跡            第二次国府台合戦で敗死「里見広次」か?
  

「夜泣き石」里見広次の娘が、石にもたれ、泣き続け、息絶えてから、夜な夜な、泣き声が、もたれた石から聞えていたという。
また、里見諸将霊碑もある。この城で5000人以上の死者が出たという。供養とも最近立てられたという。

物見櫓台跡がある                里見軍は、北条軍を江戸川で向かい討ち決戦の場に
  

「北原白秋」 (旧宅の紫苑草舎が)1885-1942 与謝野鉄幹に不満で「明星」を退き、「パンの会」結成、「邪宗門」「思い出」
        「桐の花」抒情詩人と云われ民衆に親しまれて。「赤い鳥」で詩と音楽に著作200冊に上る。福岡出身。


白秋の旧家が展示されている           国府台城内の中心であったと思う
    

石垣が、               日中でも寂しい本丸付近、   伝説、夜泣き石の有る所
    

太田道灌が築城工事中、出土したと伝わる「明戸古墳跡と石棺」

里見広次・正木内膳らを始め5千の戦死者を出し、里見義弘 は安房に敗走。
以後、この地域は北条氏の支配を受け、1590年に 徳川家康が関東を治めると国府台城は廃城となった。
その後明治に入り、新政府軍の陸軍教導団 が移った。

  

「羅漢の井戸」 国府台城の飲み水場であったようだ、今も湧水が出ている飲用は出来ない。

里見公園の裏階段を下りると 江戸川、                   「羅漢の井戸」
    

「矢切りの渡し」付近は、戦国時代、北条氏と里見氏による「国府台合戦」の戦場となった場所であり、この付近から市川市国府台付近にかけては同合戦にちなむ伝説や史跡が多く伝わっている。
又、「江戸川」は、東北地方や北関東からの物資を涸沼・霞ヶ浦・銚子から利根川経由で江戸へと運ぶ流通幹線。
房総半島を周回する海路よりも距離が短く安全性も高かった。江戸川周辺からも、野田の醤油、流山のみりんなどが産物として江戸に運ばれ、
重要な川。歴史もあり、古くは、太日川・太日河と呼ばれ、渡良瀬川の下流部で、利根川とは別に江戸湾へと流れている。
更級日記、吾妻鏡、義経記などにも「太日川」を渡ると云う述が見られる。

矢切りの渡しで                               向かい側は、、葛飾柴又へ
  

これで、千葉県南総の旅は、終了します。

国府台と千葉商大

2013-06-13 | 気まま旅

京成「国府台駅」下車する。住所は千葉県市川市、県北西部で向かいは、東京葛飾区、江戸川区川に面している。
地名は、下総国府が置かれ、源頼朝より、下総守護に任ぜられた「千葉氏」の守護所。
下総台地の西南端、要害の地、戦国時代には、太田道灌により、城が築かれた所。1538年と64年に、安房里見氏と小田原北条の「国府台合戦」
の場である。一時北条氏の支配下にあった。
豊臣秀吉による小田原征伐後は、徳川家康の支配を受け、以後幕府領で、寺社領であったが、明治に入り軍事施設で拡張されていく。
市川国府台と云えば、万葉集伝説歌を収めた、真間の玉児奈橋「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈けむ手児奈し思ほう」。
芭蕉・一茶も訪れており、勝海舟が別宅を構えていた。永井荷風や慶応義塾鈴木恒男教授や歴史文学の中国の郭沫若が1928年から10年
市川で波乱万丈の生活をしていた。又、戦前まで兵舎であった所に東京巣鴨商業専門学校(巣鴨商専)現在の千葉商大があり、歴史の街であり
桜の古木が多い街。

江戸川と京成電鉄陸橋(神社高台から)       この先商大、公園、国府台病院


「砲兵の歌」 作詞 平櫛  孝(41期) ・ 作曲 戸山学校軍楽隊

1、襟には栄ゆる 山吹色に           2、疾風電撃 天地を揺りて                                                                            
 赫々戦勝 基を拓く                軍の骨幹 誇りも高き              
 われらは砲兵 皇国の護り              軍の骨幹 誇りも高き             

1886年明治に入り、以降相次いで兵営が完成。
歩兵大隊に続き、砲兵大隊、工兵中隊、騎兵中隊、教導団本部、その病院など。
兵舎が建てられ、その跡地が現千葉商大・和洋・里見公園、国立国府台病院、住宅で、元は軍隊の練兵場で教練が行われた所である。
日本軍の優秀な下士官等は、国府台で養成されていった。戦前から国府台は、兵学校の町で知られる。


陸軍国府台砲兵の碑                            総寧寺の長い階段 
    

「総寧寺」は、 山号, 安国山。 曹洞宗. 寺格, 関三刹。

1383年、近江守護の佐々木氏頼(六角氏頼)が通幻寂霊を招聘して、同国坂田郡寺倉(現・米原市寺倉)に總寧寺として建立。
1530年、戦乱によって總寧寺が焼失。8世住持越翁宗超は、遠江国掛川に退避して同地に常安寺として再建された。
この常安寺は永禄年間に戦乱によって焼失。住持らは常陸国に落ち延びた。

1575年、常安寺は北条氏政によって関宿宇和田(現在の埼玉県幸手市)に移転。
これは常安寺再建を図る11世住持義翁盛訓の嘆願と関宿城の簗田氏に対する氏政の牽制策の合致によるとされている。
その後、総寧寺の旧称に復す(時期は不詳)。北条氏からは20貫、同氏滅亡後の新領主・徳川氏からは改めて20石が与えられた。
1617年、徳川秀忠によって関宿内町(現在の千葉県野田市)に移転。
1663年、徳川家綱によって現在地(国府台城跡地)に移転。これは江戸川の洪水を避けるためという。
2年後に寺領として128石5斗を与えられ、曹洞宗関東僧録司となった。
1850年焼失し、1862年再興された。

総寧寺境内に                     人間会館の門が講堂            仁王像
    

文化財は、小笠原政信夫婦供養塔2基(市文化財指定)、里見弘次の墓、 小笠原貞頼の墓。

1663年の四代将軍徳川家綱により国府台に移転し、当時は、広大な寺域を占めていたてら。
寺領128石5斗 山林6万7千余坪 総寧寺の住職は全国曹洞宗の寺院の総支配権を持っていたという。

境内                        古木の桜                    楼門
    

「国府神社」の伝えによると、景行天皇の皇子、日本武尊が東征のおり、下総の賊を平定してこの台地に陣を張り、武蔵国に向かおうとした。が、下総と武蔵の台地の間には、たくさんの河川が形成し、船を使わず浅瀬を渡ることはできないものかと思案。
このとき一羽のコウノトリが現れ、尊の前にかしこまって「私が浅瀬をお教えいたしましょう、どうぞ私について来てください。」と申し、
尊は、大軍を率いてコウノトリの後に続き、難なく武蔵国の台地に着くことができという。

尊はコウノトリの功績をほめて、下総の台地をコウノトリに授けることにしました。
このことから、この台地がコウノトリに与えた台地、即ち「鴻之台」と呼ばれるようになったと言う。
神社は、この伝承に基づいて、御祭神を日本武尊、そして「コウノトリの嘴」を御神体として、1087年の創建と伝えている。
「鳳凰大明神」と呼ばれたこともある。

国府台駅から10分ほど坂の途中、小さな神社であるが古社で、日本の歴史を見つめてきている。

国府台の歴史を見つめてきた小さな国府台神社                   境内から江戸川が
    

「千葉商科大学」は、1928年 文学博士遠藤隆吉が財団法人巣鴨学園を創設し「巣鴨高等商業学校」設立の伝統校。

前学長が、加藤 寛先生 1926年ー 2013年1月の死去、 日本の経済学者。学位は経済学博士(慶應義塾大学)、慶應義塾大学名誉教授。
政府税制調査会会長、内閣府規制改革担当顧問、信念、社会に役立つ学問を。

戦前の山手線大塚駅は、学生街で、巣鴨商専、都立大、拓殖、早稲田、御茶ノ水、女学校など集中していた。その巣鴨商専が戦後千葉県に移転
している。

千葉商大校庭内                 遠藤隆吉先生の碑           芝と桜並木が
    

「遠藤隆吉」先生は、武士的精神を忘れたことが商業道徳の頽廃をもたらしたことを歎き、外国貿易の不振もそれが原因であるから、実業家として世に立つ者に商業道徳を身につけさせ、武士的精神を注入することが急務であると指摘した。
商業は人と人との交流であり、未知の人と国や民族を超えて交流するには、相手を信頼し、約束を守る倫理が存在しなければならない。
そのためには、日本の精神に基づいて世界の在り方を考える視点と武士的精神の涵養が重要です。巣鴨高等商業学校設立の意義は、まさに当時の商業道徳の頽廃を打破することにありという。

明治以降、国府台は、学問を志す若者の環境を備えている。

体育館(兵舎の面影は無い)                    本館            桜並木と緑の多いキャンパス
    

千葉商大生諸君に、江戸川河川敷に「河津桜並木」を近郊の学生と地域の皆さんで入植してはどうか。

次回は、里見城跡の里見公園です、千葉県はこれで終了します。