syuの日記・気まま旅

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鑑真 唐招提寺

2014-03-22 | 気まま旅

鑑真 688-763 唐招提寺を開いた日本律宗の開祖で渡米僧、唐の学僧、弟子4万余人を持つ有力者であった。
彼は、日本へ布教するため渡来し、大仏殿の前に戒壇を開いて多くの人々に菩薩戒を授けた。伝律と唐招提寺の充実に専念し、76年の生涯を終えている。
聖武天皇の看病禅師として「鑑真」が活躍したために、大僧都に補された。破格の抜擢である。朝廷は、鑑真が僧尼の領袖として活躍することを期待したようである。鑑真は、仏教で最も大切なものは、「戒律」と説いていたと云う。
律宗は、南都六宗「三輪・成実・法相・倶舎・華厳・律」中、特に有力な宗派になっている。中世には、「禅」と並び「禅律」と云われている。

義淵 728   法相宗高僧 大和国生まれ、聖武天皇から徳行を高く買われて、岡連の姓を与えられている。
義淵の父は、仏に祈り義淵を授かったと伝わる。子が出来ず長年観世音に願っていると、ある夜、柴垣の上から幼児の泣き声がして見ると
白帳の包まれ香気に満ちていたと云う。天智天皇は、それを聞き、その子を皇子達と宮で育てたと云う。
玄・行基などは義淵の弟子と云われている。

聖武天皇 701-756 45代・文武天皇皇子。仏教保護し、南都六宗の学問助成した。「天平文化」花開く、国々に国分寺を創り中央に
東大寺を置く大仏を造る、鋳物の技術を用いている。(古代仏師の技の粋を集め友として評価が高い)

「唐招提寺」薬師寺と並んでいる五条町の律宗総本山。
国宝ー乾漆盧舎那仏坐像・史跡ー境内。688-763年 鑑真開山。唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。

唐招提寺・鐘楼                          南大門から金堂を
  

鑑真は、幾多の障害や海難を得て、失明の不運の中6度目で渡海に成功し、753年薩摩国に到達。その翌年「東大寺大仏殿」前に戒壇を設け、
聖武・孝謙天皇をはじめ、多くの高僧達に授戒。
後戒壇院を辞し、天武天皇の皇子「新田部親王」の旧邸を賜り759年に戒院を設けた。

開山鑑真和上は、唐の人                    芭蕉翁句碑
    

仏のもとに修行する人々の場の意味で「招堤」を寺名とし、「唐招提寺」と称した。
伽藍が整備されたのは、9世紀に入ってからと考えられている。
平安後期以降再三の大地震や火災の被害もあり、堂宇の損傷とともに寺運も衰退した。江戸時代に徳川綱吉や桂昌院らの崇敬を得て
大規模な修理が行われた。
                         金堂
  

奈良時代末期造営の「金堂」(国宝)は、正面やく12.6m・側面約7.2mの単層寄棟造で、エンタシスの太い柱で屋根を支えている。

「招提寺建立縁起」に、寺内の建物の名称とそれらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。
それによると、金堂は鑑真の弟子でともに来日した如宝の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂の建立年代には諸説あるが、おおむね8世紀末と推定され、鑑真の没後に建立されたものである。

伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛によって復興された。

伽藍配置と境内      754年の建築8本の列柱        本堂中央に本尊廬舎那仏座像が
    

講堂ー国宝。
入母屋造、本瓦葺き。平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、760年頃、平城宮の改修に伴って移築された。
東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。
鎌倉時代の 1275年にも改造されているが、奈良時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重。
堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。

木造弥勒仏坐像 - 像高283.3センチメートル。鎌倉時代の作。
膝裏には、1287年の記があるが、「招提千歳伝記」によると開眼供養は5年後の 1292年である。

木造持国天、増長天立像 - 像高はそれぞれ132.5及び128.2cm。
甲の文様の彫り口などに唐時代の石彫との類似が指摘され、鑑真と共に来朝した工人が制作に関与したと推定。

寺宝は、建築・工芸・経文・絵画と多数、  鎌倉時代礼堂僧房のまま残る・講堂は平城宮移転
    

本尊ー廬舎那仏(国宝)・中興年ー寛元2年(1244年)・中興「覚盛」・札所ー神仏霊場巡拝の道第24番

文化財ー金堂、乾漆鑑真和尚坐像ほか(国宝)・礼堂、絹本著色十六羅漢像ほか多数ある。「重要文化財、世界遺産」に。

本願殿        礼堂            昔から奈良の大寺は仏法研究の学校であった
     

次回は、法隆寺へ。 

西ノ京 薬師寺

2014-03-20 | 気まま旅

西ノ京は、西郊で、佐保川支流と秋篠川下流部を占める地域で、平城京の西半分左京にあたる。まだ、田園風景が残っている。
「西大寺」「唐招提寺」「薬師寺」が知られている。
西方の西京丘陵地帯の赤膚山一帯は土器製作に好適な陶土に恵まれ、古来窯業地であり、近世は、奈良風炉(茶道具)の産地となり
数件窯元がある。また、大和絵を描いた陶器の「赤膚焼」でも知られている所。
西ノ京駅は、近鉄橿原線で、奈良県奈良市の大和西大寺駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。

天平文化は、7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。
この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼んでいる。
当時の皇族や貴族は、遣唐使によってもたらされた周(武周)の武則天や唐の玄宗の文化を積極的に取り入れた。
これによって花開いたのが、天平文化である。
なお、唐からの文化移入には特に大宰府の果たした役割が大きい。 一方、国衙・国分寺などに任命された国司(貴族)・官人や僧侶などによって地方にも新しい文物がもたらされた。

このようにして、中国風(漢風)・仏教風の文化の影響が列島の地域社会へ浸透して行く。
シルクロードによって西アジアから唐へもたらされたものが、遣唐使を通じて日本に上陸する。

世界遺産
「薬師寺」は、法相宗の大本山、赤篠川の西、大池の東に位置し,平城右京6条2坊にわたる。
西京寺・瑠璃宮薬師寺とも云う。南都七大寺の一つ。本尊は国宝銅造薬師妙来・両脇侍像「薬師三尊像」と金堂」。

札所ー西国薬師四十九霊場1番・ 南都七大寺6番・ 神仏霊場巡拝の道 第25番。主な文化財ー東塔、薬師三尊像ほか(国宝)、 南門、伝大津皇子坐像ほか(重要文化財)等多数。

駅構内に「薬師寺」の石塔                  門の前で伽藍全体を
    

平城遷都により、藤原京から移された。橿原市城殿町に本薬師寺跡がある。
金堂・東塔・西塔跡等の土壇や礎石が残っている。本薬師寺は、天武天皇が皇后「鵜野讃良」の病気平癒を祈って発願、この皇后が
持統天皇となり本尊開眼を行った。

金堂本尊薬師三尊像については、「持統天皇2年(688年)、薬師寺にて無遮大会が行われた」との記述(『書紀』)を重視し、この年までには造立されて、後に平城薬師寺に移されたとする説がある。
様式や鋳造技法の面から平城移転後の新造とする説もある。(決着はついていない)

境内中央に鐘楼                新金堂中心に東西の塔が華麗に天平の昔を偲ばせる
    

次の、文武天皇の代で堂塔が完成。
「薬師寺縁起」によると平城京に移ったのは718年。官寺として、たびたび皇室の庇護をうけた。平安時代に入り、この寺で初めて
最勝会が厳修されたり、災異消除のため仏事が長期にわたり行われたりしている。
1528年「筒井順興」による兵火で多くの堂塔を焼失している。江戸に入り一部再建された。

          天武天皇・皇后(持続天皇)の病気全快を祈って飛鳥に創建し平城京に
    

昭和51年金堂・4年後西塔が復原された。

1976年に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊の一部、大講堂などが次々と再建された。
再建にあたっては、「鉄は持って数百年程度、木材(ヒノキ)は千年持つ。鉄を使うとその部分から腐食する。」と主張する宮大工の西岡常一と、「台風や地震、火災からの文化財保護の観点からも鉄筋コンクリート補強が望ましい。」と主張する竹島卓一(元名古屋工業大学)の意見が衝突した。
結果、金堂の内陣は鉄筋コンクリートとし、西塔は鉄の使用を極力少なくし木材の乾燥収縮を考慮して東塔より約30センチ高くして再建された。なお、入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築され、寄棟造に改造され前部の庇が取り払われるなど、外観を大きく変えて現存している。

            東塔に薬師三尊や、古代建築芸術
  

東塔の解体修理は、2009年から2018年までの予定で約110年振りの東塔の解体修理が、 2011年 東塔全体を覆う素屋根の設置工事を開始。
2012年 瓦が外され東塔の解体が始まっている。
又、 南門(重文)-境内南正面にある小規模な四脚門。室町時代・1512年の建築で、もとは薬師寺西院の門であった。中門-1984年の再建。両側に回廊が延びる。 金堂-1976年の再建。奈良時代仏教彫刻の最高傑作の1つとされる本尊薬師三尊像を安置する。
大講堂-2003年の再建。正面41m、奥行20m、高さ17mあり、伽藍最大の建造物である。本尊の銅造三尊像(重文)は、中尊の像高約267センチの大作だが、制作時期、本来どこにあった像であるかなどについて謎の多い像、かつては金堂本尊と同様、「薬師三尊」とされていたが、大講堂の再建後、寺では「弥勒三尊」と称している。

西塔-東塔と対称的な位置に建つ。旧塔は1528年に戦災で焼失し、現在ある塔は1981年に伝統様式・技法で再建されたものである。
デザインは東塔と似ているが、東塔が裳階部分を白壁とするのに対し、西塔は同じ箇所に連子窓を設けるなどの違いもあると云う。

中門                    金堂(天平の日本最古の仏足石)              東塔
    

東院堂(国宝)-境内東側、回廊の外に建つ。
元明天皇のために皇女の吉備内親王が養老年間(717-724年)に建立した東禅院が前身で、現在の建物は鎌倉時代・1285年の建築。
堂内の厨子に本尊・聖観音立像を安置する。

玄奘三蔵院-主要伽藍の北側にあり、1991年(平成3年)に建てられたもので玄奘三蔵を祀る。
日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル(13枚の合計)からなる「大唐西域壁画」がある。

休ヶ岡八幡宮(重文)-南門を出て、公道を横切った向かい側の敷地にある。薬師寺の鎮守社で、現在の社殿は桃山時代の慶長元年(1596年)、豊臣秀頼の寄進によるもの。

                    薬師寺本坊(吉祥天画像、天平時代)
  

国宝ー 銅造薬師三尊像・ 東塔・ 東院堂・ 銅造聖観音立像 - 東院堂本尊。像高約189センチ。
金堂薬師三尊像と同じく、飛鳥時代後期(白鳳期) - 奈良時代の金銅仏の代表作の1つである。
銅造観音菩薩立像。

木造僧形八幡神・神功皇后・仲津姫命坐像-平安時代初期の作。薬師寺の鎮守八幡宮の神体として作られたもの。
日本の神像彫刻は仏像の影響を受けて作り始められたもので、薬師寺の三神像は日本の神像としては現存最古作の1つである。

麻布著色吉祥天像 - 「金光明最勝王経」所説に基づき、吉祥悔過会の本尊として制作されたもので、数少ない奈良時代の絵画遺品として貴重なものである。
絹本著色慈恩大師像 - 中国法相宗の祖の肖像画。11世紀の作。
仏足石 - 大講堂内にある。礼拝対象としての仏陀(釈迦)の足跡を刻んだ石。側面に長文の銘があり、
仏足跡歌碑 - 大講堂内にあり、仏足石とともに伝来したものだが、元来一具のものであるかどうかは定かでない。高さ194cmの石碑に仏足跡を称える歌など21首の歌を万葉仮名で刻む。ここに刻まれた歌はいずれも通常の和歌より1句多い「五・七・五・七・七・七」の歌体になり、これを「仏足跡歌体」。

                    発掘調査工事中
  

重要文化財ー 南門・ 八幡神社社殿 3棟・ 若宮社社殿・ 板絵著色神像 6面 永仁三年三月尭儼筆・ 銅造如来及両脇侍像(大講堂安置)
木造十一面観音立像・ 木造十一面観音立像・ 木造十一面観音立像・ 木造地蔵菩薩立像・ 木造地蔵菩薩立像 善円作作 
木造伝大津皇子坐像・ 木造四天王立像3躯・ 木造弥勒菩薩坐像・ 木造吉祥天立像・銅鐘(梵鐘)等多数。

「薬師寺 玄奘三蔵院」
奈良の薬師寺境内の北方にある玄奘三蔵院には、岩槻の慈恩寺から玄奘三蔵の分骨をしてお祀りしてある。
薬師寺は玄奘三蔵を始祖とする法相宗の寺で、遺徳を顕彰するために岩槻の慈恩寺から玄奘三蔵の分骨された。
1991年に境内北側に玄奘三蔵院を建立され、平山郁夫画伯により、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が 大唐西域壁画殿にお祀りしてある。

奈良遷都1300年に当たる今年は、「大唐西域壁画」が一般公開。

                          玄奘三蔵院と伽藍全景
    

次回は、唐招提寺へ。

長岳寺・城・柳本藩

2014-03-18 | 気まま旅

「天理市」県北部、奈良盆地と大和高原と広がり、上街道に沿い市場町・柳本の歴史的な核を形成している。
柳本の崇神天皇・景行天皇陵古墳・石上神宮と「長岳寺」は、天理市になる。

「長岳寺」は、柳本駅東約1km釜口山にある高野山真言宗の寺、山号 釜口山、通称釜口大師。
本尊は、重要文化財阿弥陀如来坐像。

長岳寺の古びた山門、(楼門重文)                            近くに石仏群が
    

824年空海が開基。中世は奈良の「興福寺大乗院]の末寺であった。
1602年徳川家康が寺領を寄進し、江戸末期から、大師信仰の中心地となった。重要文化財他に、鐘楼・門・本堂・庫裏・増長天像・多聞天像等がある。

庫裏(重文)                  延命殿(重文)
    

824年に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社の神宮寺として創建したという。
伽藍・盛時には48もの塔頭が建ち並んでいたと云う。

境内の面積は約40000m2と広く、八十八箇所道が竜王山中腹の奥の院まで巡らされていると云う。

「淳和天皇」は、第53代天皇、 823- 833年在、先代は嵯峨天皇・次代は仁明天皇、誕生ー786年~崩御840年、陵所ー大原野西嶺上陵
父親ー桓武天皇・母親ー藤原旅子。皇后ー正子内親王。子女ー恒貞親王・ 基貞親王・ 恒統親王・ 恒世親王・ 氏子内親王・ 貞子内親王・ 明子内親王・ 良貞親王。皇居ー平安宮。

   境内                   放生池                  石仏
    

関西花の寺二十五霊場第19番札所。日本最古の歴史の道といわれる山の辺の道のほぼ中間点に位置している。 

本堂は、1783年の再建。簡素ですが、いかにも古寺院建築らしい落ち着いている。
ご本尊は、1151年作の「阿弥陀三尊像」。中尊は阿弥陀如来坐像、脇侍にそれぞれ半跏の観世音菩薩像・勢至菩薩像が。
パンフレットには「堂々とした量感、写実的な表現は藤原時代にあって次の鎌倉時代の作風の先駆と云え、慶派に大きな影響を与えた。
玉眼を使用した仏像としては日本最古である」とあり。
その脇を固める四天王ですが、寺には多聞天・増長天の二像が、鎌倉時代の仏像のような力強さと緻密さがある。

   鐘楼             大師像                  境内には十三重塔石仏が
    

奈良県指定文化財ー 刺繍阿弥陀如来立像(奈良国立博物館寄託)。その他で、「極楽地獄図」は、 約400年前の安土桃山時代に狩野山楽が描いた9幅構成の地獄図である。図柄の精緻さ、各場面の描写は素晴らしいと云う。
弥勒大石棺仏・ 古墳の石材を利用した2m近い石仏で、境内には鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏が数多くある。

小雨が大粒に変わり苦労する。

           本堂                           拝堂
  

「柳本藩」、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡を領有した藩。
藩庁は柳本陣屋(天理市柳本町黒塚古墳)。家格は城主格大名。

藩史は、織田信長の弟で、茶人として有名な織田有楽斎は、1600年の関ヶ原の戦いで東軍に与して戦功を挙げたことから、大和国と河内国の内に3万石の所領を与えられている。
徳川家康に仕えず、豊臣秀頼の大叔父ということで秀頼の家臣、大坂冬の陣では豊臣方として戦ったが、その裏では徳川方に内通したり、
冬の陣における和睦交渉で裏工作を行なっている。
夏の陣直前に豊臣方から離れたため、戦後に罪には問われなかったが、有楽斎は藩領3万石のうち、1万石を自分の隠居料とし、残りの2万石うち、1万石を四男の織田長政に、同じく1万石を五男の織田尚長にそれぞれ分与した。
このため、長政の系統は大和国芝村藩として、尚長の系統は柳本藩として存続、
柳本藩は尚長の後、織田長種、織田秀一と続いたが、第4代藩主・織田秀親の代である1709年、前将軍・徳川綱吉の法会が寛永寺で行なわれているときに、発狂した前田利昌によって秀親が殺された。このため、柳本藩は改易の危機を迎えたが、藩の家老たちが機転をきかせて秀親は病死ということにして弟の織田成純を養嗣子として後を継がせ、改易の危機を脱したと云う。

小藩の悲しさから藩財政の窮乏化が表面化。
領民に重税を敷いたが、第10代藩主・織田秀綿の代である 1769年には百姓が重税に反対して強訴を起こすに至った。1802年にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。さらに江戸時代後期に入ると、ただでさえ藩財政が厳しい中で 1830年には火事により柳本屋敷が全焼する。
第11代藩主・織田信陽は、1833年に藩士27人のリストラを行なっている。1852年には信長以来の名族ということもあって、城主格に任じられた。幕末期では天誅組の反乱鎮圧や天皇陵の修築工事を行なうなど、早くから官軍に近づいていた。
明治維新後は版籍奉還により藩知事となり、明治4年の廃藩置県により柳本藩は廃藩となり、柳本県を経て奈良県に編入された。

柳本藩屋敷跡                          黒塚古墳
    

JR桜井線「柳本駅」と「黒塚古墳 - 前方後円墳」
駅前の古墳跡と公園と一体となった子供達の遊び場に、ところが、30枚以上の三角縁神獣鏡が発見されたことで知られ、また、邪馬台国の女王卑弥呼の墓だという説もあるが、まだよく分かっていない。
柳本駅は、その後、見学会が催された時に臨時列車が大増発され、見学者が約1Kmにも及ぶ長蛇の列をなしたことがあると云う。

JR桜井線駅「柳本」                 黒塚古墳は駅前に
    

天理駅付近は、JR・近鉄・国道と南北に通じ交通の要地。阪神方面からのの発展で都市化が著しい。1969年西名神自動車道、特に工場の立地も促進させている。
福住のお茶、古墳群・大和青垣国定公園等の観光区域で人の流れも年々増加している。

JR天理駅で近鉄に乗り換える
    

次回は、薬師寺方面へ。

山辺の道、景行・崇神天皇上陵

2014-03-16 | 気まま旅

大和朝廷は、3世紀末から奈良盆地の東南部に生まれ、それは、当初は、三輪山の神を祀り、亡くなった天皇を葬る「古墳」を神聖視する
神権政治を行った。地方の首長との間に主従関係を広めていった。
6世紀に入り「大和朝廷」の全国支配が確立してくる。

7世紀「聖徳太子」のもとで中央集権化がすすめられ「律令制度」に繋がっていく。
しかし、本格的な中央政権が地方把握し始めたのは、10世紀で「寄進地系荘園」となっていく。
奈良時代の記録は、大和朝廷で「古事記」「日本書紀」と伝説で、「続日本紀」になるとおおむね間違いない記録と評価されている。

「神武天皇」大和朝廷開祖天皇一代、長髄彦を討って朝廷を興す。
神武天皇が大和に入り豪族を討つが、興味深いのは、手足の長い土蜘蛛と呼ばれる賊で、天皇の軍勢は、カツラでつくった網で、賊を捕え
殺し、葛城氏が拠った「葛城」の地名がある。神武天皇は、「橿原神宮」に祀られている。

巨大古墳(墳丘長160m以上)、大和古墳群の西殿塚古墳(衾田陵)、柳本古墳群 の行燈山古墳(崇神陵)と渋谷向山古墳(景行陵)、箸中古墳群の箸墓古墳(大市墓)が、古代倭の大王・豪族は、三輪山山麓地帯に3世紀後半頃から、、、。
  

「景行天皇」伝説は多い、その一つ、「景行天皇のクマソ征伐」。
第12代景行天皇は、日本書紀によると、6年間にわたって、日向に滞在したと記され、次の話が伝えられている。

~ある年、九州南部に住むクマソの一族が朝廷に反抗し、みつぎ物を差し出しません、景行天皇はクマソを討つことを決め、みずから軍を引き連れ、九州へ向かい、豊後の国(今の大分県)を通って、日向の国に入ると、「高屋宮」という仮の住まいを建てた。
天皇はクマソを討つ作戦を考え、「聞くところによると、クマソにはクマソタケルという強者がいるらしい。何かうまく倒す方法はないものか」すると一人の家来が進み出て言いました。
「クマソタケルには二人の娘がいます。この娘にたくさん贈り物をして味方につけましょう」、「それは良い考えだ」
天皇はそういうと、二人の娘のうち姉のイチフカヤを味方につけることに成功。 イチフカヤは言いました、「私に良い考えがあります」
イチフカヤは家に帰ると強いお酒をたくさん用意して父クマソタケルにそれを飲ませるとクマソタケルは酔ってぐっすり寝てしまい、その間に天皇の兵によって殺されてしまいました。~景行天皇はミハカシヒメという美しい女性を妻に迎え、トヨクニワケノミコという名の男の子をもうけました。
トヨクニワケノミコは日向を支配した「国造」の先祖といわれています。
あるとき、天皇は児湯地方に出かけ、そのとき、東の方を見て、こう言いました。「この国はまっすぐに日の出る方に向かっている」
それでこの地方を名付けて「日向」というようになったと云う。
いろいろなことがあり、気がつけば景行天皇が日向にきてから、はや六年の月日が過ぎ、天皇はいよいよ都に帰ることになり、出発した翌年に無事に都に着いたという。

崇神天皇陵と考えられている行燈山古墳があり、そのすこし南側には景行天皇陵と考えられている渋谷向山古墳がある。
  

「渋谷向山古墳」古墳は、奈良県天理市渋谷町にある前方後円墳 。上の山古墳、「景行天皇陵」の陪塚い号。 全長140m・後円部径 84m・前方部の幅56mの前方後円墳 築造は古墳時代前期後半とされる。

現状の周濠・渡土堤は少なからず後世の改変を受けていると考えられるが、 渋谷向山古墳の渡土堤のうち、いくつかが古墳造営当初のものと調査の結果判明している。

  

「崇神天皇」生没年不詳 三輪山の祭りを始めた10代天皇。
この時代は大和朝廷勢力は大幅に伸び「四道将軍」と呼ばれ武将を四方に送り、朝廷の領域を広げたのは崇神天皇で、「三輪山の祭り」
が始まっている。
祭りの始まりは、大和に疫病が広まったと云われ、天皇が天地の神々を祭り、三輪山の神が神託を下した。自分を祭れは疫病を鎮めると云うのだ。神託に従うと、疫病は治まったと云う。三輪山の「大物主神」は、出雲の大国主命と同一の神であるとされている。
崇神天皇は、実在が確実な最初の大王ではないかと云う歴史家が多い。

  

「行燈山古墳」は、天理市柳本町に所在する古墳時代前期の前方後円墳。

古墳は、龍王山の斜面の先端を利用して造られており、平野の方に前方部を北西に向けている。
後円部がより高い山側にある。 三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。
その政治勢力は、三輪王朝とか初瀬王朝と呼ばれている。初期ヤマト政権の大王陵である。
幕末の文久の修陵の開始時には、本古墳が景行陵だったのが、修陵事業の完成直前の1865年に、崇神陵に取り替えられた。
宮内庁の管轄する古墳であるので、研究者や国民は、自由に立ち入りできない。

  

やまと集落と山辺の道

この道は奈良から石上・布留(天理市)を経て三輪(桜井市)に通じていたとみられる。
弥生時代後期には、布留遺跡と纏向遺跡を結ぶ道であったとも推測される。その全長は約35kmであるが、その南部に古道の痕跡や景観が残り、現在一般的にハイキングコースとして親しまれるのは天理市の石上神宮から桜井市の大神神社付近までの約15kmの行程で、その多くは東海自然歩道となっている。
山の辺の道は、山林、集落、田畑の間を縫うように通って、田畑の間を抜ける際にはその眼下に奈良盆地が大きく開けており、生駒山や二上山、葛城・金剛の連嶺を背景にした大和三山なども遠望できる。今は冬、数人の人とすれ違っただけで静かな歩道であった。

山の辺道を折れ「柳本駅」に向かった。雨は一段と強くなる。

  

「櫛山古墳」は、天理市の南部、柳本町から渋谷町にかけて行灯山古墳と渋谷向山古墳を中心に大型前方後円墳が多数造られている。
考古学ではこの地域の古墳を総称して、柳本古墳群と呼んでいる。
櫛山古墳は全長160mの大型古墳で、三角縁神獣鏡を多数出土した黒塚古墳とともに柳本古墳群を代表する古墳の一つに数えられている。

古墳が築かれた年代は、4世紀後半、すなわち古墳時代前期と推測されている。古墳の形は、埋葬設備を構築した中円部の西側に前方部、東側に後方部を築いた特徴ある墳形である。考古学では前方後円墳と区別し、双方中円形の古墳という。

1948年から復旧を兼ねて発掘調査が行われた。発掘の結果、中円部に竪穴式の石室、その中央に長持形石棺が置かれていて、石棺は、下半分が石室床面に穴を掘って埋められていたことがわかった。
さらに、後方部では、白い礫を敷き詰めた遺構が見つかった。
遺稿は、南北5m、東西3.4mの土坑で、礫の下に朱の砂が敷き詰めてあった。多数の鍬形石や車輪石、石釧、土製品や土師器片などがこの遺稿から出土したが、完全な形をしたものは一つもなかった。そのため遺構は古墳の墓前祭に使われ、祭式後に祭具などを壊して埋めたものと考えられている。

  

古墳の「柳本村」は、上街道沿いの村落で、古代・中世には楊本庄があり、楊本氏が柳本城を構えた。
大和でも有数の大村であった。

1600年 織田有楽斎の所領となり、1615年 有楽斎の所領三万石を分地し、一万石を四男長政(戒重藩)、一万石を五男尚長(柳本藩)に与えときから柳本村は尚長の所領とる。
尚長は初め大泉村(現桜井市)に住んだが、1624~44年に柳本城旧地を接収して陣屋を構えて本拠とした。
上街道の東、柳本小学校近くの伊射奈岐神社西北の地が城跡である。
中世には楊本氏が柳本城を構えたが、1573~92年に廃城になり、そこが「をくやしき」と呼ばれ、百姓が住みだしたが、その地を尚長が、住んでいた農民に街道筋の替地を与えて接収し、そこに陣屋を構え、柳本藩一万石の本拠地として、そのまま明治維新を迎えたと云う。

  

「黒塚古墳」は、天理市JR柳本駅に近く、3世紀末頃 前方後円墳。(33面の三角縁神獣鏡が出土したことで有名。)

古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群に属し、台地の縁辺部に立地している。
最初に発掘調査が行われたのは1961年の事前調査であり、後世に城郭として利用されたことがこの時分かった。
1989年、周囲の池の護岸工事の事前調査が行われ、1997年から翌年にかけて学術調査が奈良県立橿原考古学研究所によって行われ、
規模と墳形が明らかになった。

全長約130mの前方後円墳で、後円部径約72メートル、高さ約11メートル、前方部長さ約48メートル、高さや6メートル、後円部3段、前方部2段で前方部と後円部の落差が大きい。前方部正面にわずかな弧状のふくらみが見られ撥形であることが分かる。
これらは、前期古墳の特徴である。周濠を持っている。葺石や埴輪は確認されていない。

  

次回は、長岳寺・柳本町へ、山辺道は終わります。

古墳群と相撲神社

2014-03-14 | 気まま旅
古墳時代後期(AC500-600)には、葛城(馬見古墳群)・飛鳥など奈良盆地に帰り、大王の大宮が、河内より磐余、飛鳥へと移動する間に、大和朝廷の全国制覇・中央集権化が進み、諸国に国造・縣主制、部民制が成立し、伴造氏族の台頭と中央政権への進出が徐々に進行する。
7~8世紀には、政治の中心は飛鳥・藤原宮に移り、律令国家が形成されていく。

「山辺の道」に沿って、大和古墳群に属する西殿塚古墳(手白香皇女衾田陵)、柳本古墳群に属する行燈山古墳(崇神陵)や、渋谷向山古墳(景行陵)などの巨大古墳と多数の古墳が群在している。
天皇陵に比定された宮内庁管轄御陵は、試掘はおろか測量・立入も出来ません。
古墳の形状・寸法は、江戸末期の修復の際に描かれた“山陵図”や“宮内庁書陵部の図面”、航空写真などをもとに決められ、築造年代は立入り可能な濠や付近の民有地からの出土品から推定されている。
古墳の名称は、「記紀」や「延喜式」などから比定されていますが、解釈の違いもありニ転三転する。
天皇が実在したかどうかを含めて、考古学上の名前(西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳など)の方が正確だという。

古事記では、「崇神陵」は“山辺道匂之崗上”で、「景行陵」は“山辺之道上”と記され、日本書紀と延喜式では、「崇神」と「景行陵」ともに“山辺道上陵”と呼んでいると云う。

山辺の道・第11代垂仁天皇宮跡・纏向珠城宮は、 桜井市穴師 。天皇の宮は纏向にあるのですが御陵は奈良市の尼ヶ辻にもある。
    

「景行天皇纏向日代宮跡」

「山の辺の道」から少し外れて、東の山間部へ辿ると、穴師で、道の脇に石碑「景行天皇纏向日代宮跡」が建っています。
第12代景行天皇は、第11代垂仁天皇の第二皇子で、母は比羽州比売命、丹波道王の娘、妃の伊那毘能大郎女との間に五人の皇子が有り、
その内二皇子が双生児の大碓命と小碓命で、兄の大碓命を殺した小碓命が日本武尊です。

宮跡・古墳           景行天皇纏向遺跡                 ミカン発祥の地でもある
    

古墳らしき小山が           太古の山道       この辺は古墳の銀座
  

山辺の道は歴史街道                    のどかな遊歩道が続く(7世紀の道)
  

「纏向遺跡」は、御諸山とも三室山とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。
建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。
邪馬台国に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。

第12代景行天皇は、日本書紀によると、六年間にわたって、日向に滞在 と記され、 ~ある年、九州南部に住むクマソの一族が朝廷 に反抗し、みつぎ物を差し出しません、 景行天皇はクマソを討つことを、、、、。(次回で)
    

「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」より名づけられたもの。
2011年現在で把握されている「纒向遺跡」の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km²になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3,000m²に達する。
地勢は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。
遺跡内出土遺物で最も古いものは、縄文時代後・晩期のものである。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片、あるいは土偶や深鉢などが遺跡内より出土しており、この地に縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。
遺跡からは弥生時代の集落は発見されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基発見されているのみである。
この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出している。
南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。
ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされ、
発掘調査、纒向1類の暦年代としては西暦180年から210年をあてていると云う。

この辺り、三輪山の里山、大和高原が見渡せる。現在でも果実・米の畑が続いいている
  

「相撲神社」は、野見宿禰と當麻蹶速が初めて天覧相撲を行ったところと云う。桜井市穴師鎮座で、大兵主神社の隣

天覧相撲発祥地                                 と土俵がある
    

相撲の元祖、野見宿禰が當麻蹴速と力比べをしたという伝承から、相撲発祥の地といわれ、二人が勝負したと伝わる土俵跡がある。 

当麻蹶速と野見宿弥が御前試合をしたところ。
    

巻向駅の東方約1.7kmの巻向山山麓に鎮座する古社で、延喜式神名帳に記す
 「大和国城上郡 穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗」・「大和国城上郡 穴師坐大兵主神社」・「大和国城上郡 巻向坐若御魂神社 大 月次相嘗新嘗」の3社を合祀した神社で、今、「大兵主神社」と称していると云う。

JR桜井線・巻向駅の東約1.3kmの巻向山西南山麓に鎮座。
相撲神社と隣接し、横に鳥居が立ち、参道に。

神社の道沿いに、垂仁天皇纏向珠城宮跡・景行天皇纏向日代宮跡・珠城古墳群(前方後円墳3基)などが点在する。
    

「兵主神」初見は、三代実録(901)・貞観元年(859)正月条の「穴師兵主神」「壱岐嶋兵主神」といわれ、9世紀までには伝来していたらしく、延喜式神名帳(927)によれば、兵主神社は三河国(愛知県東部)から壱岐国(長崎県)といった広い範囲に19社がある。
兵主とは、漢の高祖が兵を挙げたとき(BC200頃)、蚩尤(シユウ)を祀って勝利を祈ったことに由来するというが、中国の史記・封禅書に、泰山における封禅の儀を終えた秦始皇帝が「そのまま東へ進んで海岸地帯を旅行し、道すがら名山・大川および八神を礼をもって祀・・・八神の第一は天主といって天斉で祀る。第二は地主といって泰山・梁父山で祀る。第三は兵主といって蚩尤(の冢・墓-山東省・斉国の西境にあったという)でお祀りする。(以下、陰主・陽主・月主・日主・四時主と続く)」(大意)とある伝説上の神で、特に山東地方の斉国(BC386--221・戦国時代)では篤く崇敬されたという。 始皇帝が、兵主を蚩尤の墓に祀ったというように、蚩尤は兵主の別名とされる。

古代の面影を残している
    

「ひもろぎ遺跡」

山の辺の道から20メートルほど入ったところにある。
この一帯の小字名を「ひもろぎ」と言い、「神籬=ひもろぎ」、神の憑代といった意味合いがあると云う。
近くには、檜原神社(檜原神社~三輪鳥居 )があり、弥生時代の大規模遺跡・纏向遺跡に含まれており、纏向の祭祀と関連があるとみなされている。

雨は止みそうもないようだ
    

次回も山辺の道を。