syuの日記・気まま旅

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世界遺産 宮島・弥山

2014-06-21 | 気まま旅

「弥山」(標高・530m)
瀬戸内海と島全体として、瀬戸内海国立公園内に位置、弥山の山麓は、ユネスコの世界遺産「厳島神社」の登録区域の一部となっている。
北側斜面には、国の天然記念物となっている「瀰山原始林」が存在し、暖温帯性針葉樹のモミと南方系高山植物ミミズバイの同居やヤグルマの群落など、特異な植物・植生の分布が見られる。
平安時代の 806年、に空海(弘法大師)が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられ、山頂付近には御山神社、山頂付近から山麓にかけては大聖院の数々の堂宇、裾野には厳島神社を配し、信仰の山として古くから参拝者が絶えない。

山名については、山の形が須弥山に似ていることからという説や、元は「御山」と呼んでいたのが「弥山」となったという説などがある。
山頂にある三角点の名称は「御山」。

山頂から北に向かって延びる尾根上の、標高270-280m地点にある岩塊群周辺から、古墳時代末-奈良時代に掛けての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座だったのではないか、と考えられている。
本堂付近からは、奈良-平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などの遺物が発見され、鎌倉期に対岸から移建されたと考えられて来た「弥山水精寺」の創建年代を遡らせるもの、として注目されている[5]。

「宮島ロープウエー」
1959年に開業。宮島の紅葉谷駅(紅葉谷公園)と弥山の獅子岩駅を結んでいる。途中に榧谷駅があるが、この駅での乗下車はできない。
    

標高535m、今も原始林が残り、一部世界遺産に登録、紅葉谷駅ー獅子岩駅約15分・獅子岩駅ー霊火堂徒歩20分ー頂上10分
弥山(みせん)は、宮島(厳島)の中央部にある標高535 mの山で、古くからの信仰の山。


山頂には、展望台が、伊藤博文は「日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり」と絶賛した。
海域(瀬戸内海)および島全体として、「瀬戸内海国立公園内」に位置しており、「弥山」の山麓は、北側斜面には、国の天然記念物となっている
瀰山原始林が存在し、暖温帯性針葉樹のモミと南方系高山植物ミミズバイの同居やヤグルマの群落など、特異な植物・植生の分布が見られると云う。

「干満岩」大きな岩の側面に開いた小さな穴で、その中の水は海の潮が満ちると溢れ、潮が引くと乾くと言われている。


「空海」 774-835  真言宗開祖 讃岐国に生まれ、仏教の道に、四国で修行(四国遍路)後、入唐し、嵯峨帝と親交、高野山を賜る。
京都東寺を真言宗の密教道場に。
庶民学校・綜芸種智院の開設・讃岐満濃池ノ修築・書は、三筆の一人多種あり活動範囲が広い。各地で伝説も多い。
全集が刊行し延喜21年「弘法大師」。

    

「錫杖の梅」弥山本堂のすぐ脇の梅の木で、弘法大師が立てかけた錫杖が、根を張り八重紅梅が美しく咲き始めたといわれている。
また弥山に不吉な兆しがあるときは咲かないともいわれている。
    

日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教・奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらし、能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられている「空海」。

                       「消えずの霊火」
    

「曼荼羅岩」弥山本堂の南側に数十畳の大岩があり、弘法大師が筆したものを、石面に梵字と真字で「三世諸物天照大神宮正八幡三所三千七百余神云々」と彫り込まれている。

    

「空海の誕生日」は、
中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもの、正確な誕生日は不明である。
「拍子木の音」人気のない深夜に拍子木の音が聞こえると言われ、天狗の仕業だろうと伝えられている。
    

空海が阿波の大瀧岳(太竜寺山付近)や、土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記されている。
室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。
このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、
空海と名乗ったと伝わっている。

平安時代の 806年、に空海が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられる。(空海が厳島を訪れたことを示す記録は存在しない)
    

山頂から北に向かって延びる尾根上の、標高270-280m地点にある岩塊群周辺から、古墳時代末-奈良時代に掛けての須恵器や土師器、瑪瑙製勾玉、鉄鏃などの祭祀遺物が採集されており、山頂から麓の斎場に神を招き降ろす祭祀が行なわれた磐座だったのではないか、と考えられている。

本堂付近からは、奈良-平安時代頃の緑釉陶器や仏鉢などの遺物が発見され、鎌倉期に対岸から移建されたと考えられて来た「弥山水精寺」の創建年代を遡らせるもの、として注目されている。

    

日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって超自然的な能力「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な
真言宗の密教。
山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」、山に伏して修行する姿から山伏と呼ぶ。

山岳修業は、奈良時代に役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。
役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。

平安時代ごろから盛んに信仰されるようになった。
平安初期に伝来した密教との結びつきが強く、鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立した。
江戸幕府は、1613年に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならない。
明治になると、1868年の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。

廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものが破壊された。修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。
御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。

「消えずの霊火」 806年、空海が宮島で修行をした時に焚かれた護摩の火がおよそ1,200年間、昼夜燃え続け、元火の絶えない霊火。
不消霊火堂にある。大茶釜の湯は、万病に効く霊水と言われている。広島平和記念公園の平和の灯の元火の一つとなった。


桓武天皇の孫、「高岳親王」は、十大弟子のひとり、
「十大弟子」は、878年に、空海の弟子真雅が朝廷に言上した「本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事」によれば、
空海の付法弟子は、真済、ー真雅、ー実恵、ー道雄、ー円明、ー真如、ー杲隣、ー泰範、ー智泉、ー忠延ーの10人とされる。
(10人を釈迦の十大弟子になぞらえている。)

  

山名については、山の形が須弥山に似ていることからという説、元は「御山」と呼んでいたのが「弥山」となったという説などがある。
なお、山頂にある三角点の名称は「御山」である。



次回は、宮島・要害山へ。

久し振りの横浜駅

2014-06-19 | syu散歩
久し振りに横浜へ行きました。広くて迷子になりそう、再開発や工事で慣れていないものにはわからないです。






駅前に日産本社ぎゃらりー、スターバックスでお茶をする


人気のスカイライン

大きなエンジン







平家ゆかりの地・宮島

2014-06-17 | 気まま旅

「宮島町」は、広島県佐伯郡、広島湾西部(呉江田島東部)日本三景の一つ、「安芸の宮島」厳島の全域を占める町。
厳島神社・弥山原始林は、世界遺産。瀬戸内海国立公園に指定されている。
年間300万もの観光客が訪れる。

JR宮島口駅より、宮島口桟橋から、「安芸の宮島」まで約2kmの 海上を10分で結んでいる。
フェリーは、順次、便利。世界遺産厳島神社を海上から間近で鑑賞でき、大鳥居に最接近する。

「蘭陵王 (雅楽)」は、雅楽の曲目の一つ。
管絃にも舞楽にも奏される。別名蘭陵王 入陣曲、短縮して陵王とも呼ばれる。 管絃演奏時には蘭陵王、舞楽演奏時には陵王と 表し、左方(唐楽)に属する壱越調の一人舞。


宮島の厳島神社にお祀りされている市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の三女神は別名は宗像三女神といい、その昔、政治経済の中心が九州から大和地方へと移行するのに従って、福岡県北部・筑紫の国からはるばると宮島の地に。
市杵島姫命は、日本神話に書かれ、大変古い伝えを持つ神。
昔から航海安全の守り神として信仰されていますが、宮島においては、航海安全ばかりではなく、芸術や経済面においても広く信仰を集めるようになり、
現在に至る。

「 穏やかな自然と瀬戸の海に囲まれに、自然情緒あふれる安芸の宮島。」

三女神は、宮島という地を、日本全国・世界中の人々の「安らぎと憩いの場」となることを願い、宮島を囲む大野瀬戸に多くの自然の恵みを分け与え・・。

JR宮島口駅から地下道で宮島口桟橋へ、フエりー松大汽船・JR宮島が乗船を待っている。
  

「平清盛」 1118-81  平家全盛時代を現出した。 平家の棟梁・武将・垣武平氏血筋(垣武天皇の臣下)公家と武家の流れで清盛は武家。
忠盛の長男、武士で初めて大政大臣・平氏政権確立する。福原(兵庫県福原)へ遷都したが源氏の挙兵相次ぎ京都に戻る。
清盛は、自分の墓を後回しに、源頼朝の首を供えよと遺言している。
天皇・摂関家と婚姻政策を取る。安徳天皇の外威となり後白河法皇を幽閉。

千潮時の砂地、大鳥居まで歩いていける。                            海に浮かぶ大鳥居
    

平清盛は、1118年京で生まれ、1156年保元の乱勝利・1159年平治の乱で勝利・1169年兵庫福原に別荘を構え、日栄貿易を本格化
     1135年父、忠盛と共に瀬戸内の海賊討伐に成功している・1151年安芸国の国司、瀬戸内海の航路を開拓している。
     1168年厳島神社の造営に尽力する。

江戸時代から栄えた「表参道商店街」通称「お土産や通り」メインストリートに
    

「厳島神社」は、厳島北岸紅葉谷川河口部の砂浜に鎮座。
祭神ー市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命を祀る。
長さ、273mの回廊で結ばれている。大鳥居と共に満潮時には、すべて海に浮かぶ。いずれも「檜皮葺き」・「朱塗り」・「柱の寝殿造り」。

浜辺で潮干狩り           二位石燈籠が、(壇ノ浦の戦いで入水した清盛に妻、二位尼が漂流した伝えが
    

かっては、「伊都岐島神社」と呼ばれていた。創建は、「長門本平家物語」で、推古天皇元年593年と云われている。信憑性は少ない。
注目は、平清盛が安芸守在任以降であろう。平家一族の尊厳を得て、後白河法皇・高倉上皇等皇族や公家の参拝が相次いでからであろう。

                  17棟の朱塗り社殿回廊で結ばれている


寝殿造の社殿は、1168年に清盛が造営した時の「平安文化」の様式を伝えると云う。
平家滅亡後も源氏や朝廷の擁護を受け、度重なる火災にもかかわらず「足利尊氏」「大内氏」「毛利氏」「豊臣秀吉」らの接触により繫栄を継続した。

                    広島県酒・献上樽酒


世界遺産・国宝ー本殿・幣殿・拝殿・祓殿・摂社・客人神社・回廊など多。
            潮の千満で姿を変える仕掛けに、ろかい舟で周遊も出来と云う


重要文化財ー五重塔・長橋・朝座屋・千畳閣など。

                    推古天皇即位593年のp創建と云う。
    

宝物殿国宝ー平家納経33巻・文化財約3500点あると云う。
卒塔婆石と康頼灯籠、 卒塔婆石は、鬼 界島に流された平康頼が流したと云う、 卒塔婆石がある鏡ケ池, 卒塔婆石がある鏡の池 潮が 干くと丸い池になり、中に卒塔婆石という石が現われる。
    

1991年の台風19号で重文「能舞台が流出など被害を受けている。

「大願寺」は、高野山真言宗の寺院。山号は亀居山。院号は放光院。本尊は薬師如来。本堂には神仏分離令によって厳島神社から遷された弁才天像など、多くの仏像を安置する。
寺の創建年代等については不詳、寺伝によれば平安時代初期に空海によって開かれたとも伝えられるが、一説によれば鎌倉時代初期の1201年 - 1204年
了海によって開かれたとも伝えられる。古くから大聖院とともに厳島神社との関係が深かった寺。
本堂奥の書院は、第二次長州戦争の時、勝海舟と長州藩藩士らが会談をした場所として知られる。
境内には本尊の御使い龍神の分祀を祀る社と、2006年(平成18年)4月2日に再建され、総白檀の1丈6尺の不動明王を安置する護摩堂がある。
文化財ー重要文化財 木造薬師如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像・紙本墨書尊海渡海日記(八曲屏風裏書、表に紙本墨画山水図(瀟湘八景図)あり)。
 
札所ー中国四十九薬師霊場22番・広島新四国八十八ヶ所霊場1番

    

宮島の西の丘に、多宝塔がある。
こけら葺で高さは14.5m。1523年僧周歓により 建てられ、1555年の厳島合戦で毛利と戦った陶晴賢はこの丘に陣をはり東の塔 の丘の毛利元就の支城に相対した。
    

厳島神社・大願寺から世界遺産弥山ロープウエーへ向かうと滝小路・柳小路古い通りで、神職の屋敷が並んでいる。上郷の屋敷(重要文化財)も
この付近である。

                    鹿ものんびり散策か
    

豊国神社・国重要文化財「 通称・千畳閣」
桁行41m 梁間22m 単層本瓦葺入母屋 木造の大経堂。

豊国神社・三翁神社           境内                  社殿  
    

「豊臣秀吉公」が、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在に。
明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっている。

厳島伽藍と呼ばれた優美で壮大な仏教建造物が、神仏. 五重塔「重要 文化財」、1407年建立・心柱は、二層目で止まっている。
千畳閣の隣に建つ五重塔は、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、 桧皮葺の屋根と朱塗りの柱で美しい塔。高さは27.6m。
    

入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ、軒瓦には金箔が押してあることから完成していれば、さぞや豪華な桃山文化を取り入れた大経堂になっていたと思われる。

正面長さ46.6m・建物面積1314.3m2・屋根の面積2009.6m2
    

堂内には、大鳥居が明治8年に建替えられた時に使った尺定規が、 本尊の釈迦如来・阿難尊者・迦葉尊者は、明治維新の神仏分離令のときに大願寺に移されている。

棟瓦頂上高さ17.4m・屋根瓦54、529枚
    

次回は、世界遺産ー原始林・弥山へ。

広島 平和記念公園, 暑い8月6日が

2014-06-14 | 気まま旅
                「許すまじ原爆を」作詞、浅田石二、作曲、木下航二

              ふるさとの街焼かれ
                  身よりの骨埋めし焼土に
                        今は白い花咲く
                              ああ許すまじ原爆を
                                   三度、許すまじ原爆を
                                         われらの街に


広島に原爆投下・1945年8月6日ー長崎に8月9日


広島産業奨励館の被曝前後


「原子爆弾」
核分裂の連鎖反応によって、瞬間的に大量の「エネルギー」を放出させる爆弾を云う。
ウラン235・ブルトニュウム239を原料とし、1kgのウラン235が爆発して放出エネは、TNT火薬2万tとほぼ同等。
衝撃波による破壊は、放射線被害と熱放射による火災などで、特に、火傷は、人体を徐々に蝕んでこれと云う治療法が無い。

「原爆ドーム」は、世界遺産。
  

被曝時・小学3年生ー執筆時・中学3年生の体験記(資料より)

お母さんの座って居る前に、私と同じくらいの女の子がいました。その女の子は、体中に火傷や、怪我をしていて、血が流れていました。
苦しそうに母親の名ばかり呼んでいましたが、とつぜん私の母に「小母さんの子供、ここにいるの?」と尋ねました。
その子供は、もう目が見えなくなっていたのです。お母さんは、「おりますよ」と返事をしました。
すると、その子供は、「おばさん、これおばさんのこどもあげて」と云って、何かを出しました。それは、お弁当でした。
それは、その子供が朝学校に出掛ける時、その子供のお母さんがこしらえてあげたおべんとうでした。
お母さんが、その子供に「あなた、自分で食べないの?」と聞くと、「私、もうダメ、それをおばさんの子供にたべさせて」と云ってくれました。
しばらく川を下って船が海に出た時、その子供は、「おばさん、私の名前を云うから、もし私のお母さんにあったら、ここにおるといってね」
と云ったかと思うと、もう息を引き取って死んでしまいました。私は、お母さんと一しょに泣きました。

    

昭和20年8月6日、一発の「原子爆弾」により、待ち派は、一瞬二して破壊され多くの尊い命が無差別に奪われてしまった。
被曝から6年後に「被曝体験記」情報展示していた。(無料)



祈念館名は、死没者追悼円形空間が中央にある。





「平和公園」
1951年8月6日に、現在の区域を平和記念施設とすることを決定し[5]、1954年4月1日に完成した。
毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる。式典では、市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われる。



相生橋から本川と元安川に別れその中洲に、平和の鐘・原爆の子の像・供養塔・平和の泉・原爆死没者慰霊碑・国際広場・資料館(東館)
元安川に沿って追悼平和祈念館・元安橋・爆心地・原爆ドームは、元安川の外・本川に西平和大橋・元安川に平和大橋が架る。



南側に広島平和記念資料館・広島国際会議場、北東に原爆ドームがある。そのほかに、原爆死没者慰霊碑・原爆供養塔・平和の鐘・原爆の子の像・国立広島原爆死没者追悼平和祈念館・などがある。
原爆ドーム・慰霊碑・資料館を結ぶ南北軸と、資料館を中心とする3棟の建物による東西軸からなる公園の計画は、当時の若手建築家、丹下健三の設計。

広島二中原爆慰霊碑・広島市商・造船工業学校慰霊碑・広島市立高女原爆慰霊碑 - 公園外の旧校地内に設置・義勇隊の碑(安佐郡川内村温井地区から動員された義勇隊員の慰霊碑)などがある。

    

「元安橋」
元安川の名はこの橋の名称にちなんで付けられたと伝えられ、原爆ドームと広島平和記念公園を結ぶ橋の1つ。
上流側に元安川と本川(旧太田川)の分流点と相生橋、下流側に平和大橋がある。
安土桃山時代に木橋として築造されたものを、1920年に鋼橋に永久橋化、1945年原爆被災の際、爆心地より約130mに位置し爆心地から最も近い橋。
落橋を免れ、その被災状況から、爆心地特定の手がかりとなったと云う。(日本百名橋の1つ)

被爆当日に被爆者がこの橋付近で特に多く亡くなっており、毎年8月6日夜に犠牲者を弔う灯籠流しが行われる。

  

「リバークルーズ」のコース。

平和記念公園 ~ 宮島を結ぶ海のアクセス、広島の街並みを海から眺めながら世界遺産を移動できる海上交通船がある。
本川と元安川を経て平和公園と宮島を結ぶもので 途中原爆ドーム前を航過致し、宮島へ。
運賃ー片道 2,000円・復路 1,600円。約1時間間隔。(私は、JRで)



次回は、宮島へ。

広島城跡と毛利家

2014-06-12 | 気まま旅
「毛利元就1497ー1571」が、毛利家繁栄の基礎を築いた。
吉田郡山城は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった城。
安芸国の戦国大名毛利氏の居城。城跡は、「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定、

郡山城は、江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山、築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。
後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。


「史跡・広島城」
中区基町、美術館・市民球場・中央公園・近くに太田川(本川)が流れ、緑の多い位置にある。
1590年「毛利輝元」が築城、明治以降外堀は埋め立てられたのは残念。城郭の輪郭は、比較的によく保存されている。
天守閣・太鼓櫓は、原爆で破壊している。現在は、内濠・本丸・二の丸等の石垣が部分的に残って、1958年天守閣(内部は、郷土館に)復元。

日本100名城の一つ,(東京ドーム約3個分の広さであった)


築城前の広島 古代~中世(平安~室町時代)・毛利氏の台頭 ・広島城築城 中世~近世(室町~安土桃山時代)・毛利輝元の時代 城造りに。
「黒田 孝高」が、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・軍師・大名。
諱(実名)は初め孝隆(読み同じ)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛、あるいは出家後の号をとった「黒田 如水」として広く知られる。
豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
福島氏の入国と改易 近世(江戸時代初期)・福島正則の時代 ・浅野氏の治世 近世(江戸時代)・浅野氏の時代 が続く。

「毛利輝元」   1553-1625   関ケ原西軍総大将。  「三本の矢」元就の長兄「毛利隆元」(1523-1563)の長男が「輝元」
毛利家を継ぎ、叔父に「吉川元春」「小早川隆景」の補佐を得て領土拡張、将軍「足利義昭」を迎えてー「織田信長」と対立。
後に、「豊臣秀吉」に従い転戦し、中国7ヶ国などを安堵された。
「徳川家康」に敵対ー関ヶ原の戦いで総大将にー家督相続後も実権を握っていたと云う。広島城は1600年まで、

別称、「鯉城」。広島城があった一体は昔「己斐浦」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと云う。
    

広さ約12万㎡。大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なもの、。名古屋城、岡山城と共に日本三大平城。
  

「福島正則」(1600-1619)は、尾張国海東郡二寺村(愛知県海部郡美和町)出身の武将で、豊臣秀吉とは親戚の関係にあり、幼少の頃から秀吉に仕えた伝えられ、正則の名が広く知れ渡るのは、1583年の「賤ケ岳合戦」で、正則は一番鑓・一番頸の活躍をしました。これにより、正則ら七名は 「賤ケ岳の七本鑓」 として称賛され、正則の働きは他の面々より上とされた。
恩賞では別格の扱いを受けました。その後、天正15年・1587年には、伊予国今治城(愛媛県今治市)の城主となり11万石を領し、1595年には、
尾張国清洲(愛知県清洲市)の城主となり24万石を領している。

秀吉の死後、正則は石田三成と対立し、関ヶ原合戦では、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に属し、先陣を勤めるなど、東軍勝利の功労者となる。

    

浅野氏入国は、元和5年・1619年、福島氏の改易が決定。
二代将軍徳川秀忠は、「中国の要め」 である広島に、紀伊和歌山城主の「浅野長晟」を配置することとし、安芸一国と備後八郡、合わせて「42万6,500石」を与えた。
加増・転封にあたっては、長晟と徳川家康の娘振姫との婚姻関係が重視されたものと考えられ、福島氏と同じく、毛利氏に対する牽制も期待されたと考えられている。
長晟は、まず広島城請け取りのための家臣を出発させた後、和歌山を発ち海路広島へ向い、長晟が広島城へ入城したのは、数月後の、 8月8日のことと
伝えられている。浅野家と広島城は、1619-明治4年まで

    

1619-1632 浅野長晟・1632-1672 光晟・1672-1673 綱晟・1706-1752 吉長・1752-1763 宗恒・1763-1799 重晟・1799-1830 
斎賢 1830--1858、、、、。 
「毛利家の城、安芸高田・郡山城」は、山城跡と毛利家の墓、旅行に予定したが悪天候、国道29号線光井山と甲山に狭まれた山で不便である。



江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の太守浅野家12代の居城。
江戸時代中期に書かれた「広島藩御覚書帖」で、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていたと云う。
1598年に毛利輝元によって創建された大天守は、1945年に倒壊するまで現存天守の中では、岡山城天守に次ぐ古式を伝えるもので、下見板張りや最上階に高欄を持つ外観の仕様は国宝保存法下の国宝指定(1931年)。

    

この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた。
「承久の乱」以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし
「厳島の戦い」で陶氏(大内氏)に勝利したことにより、毛利氏によって支配されることになる。
 
それまでの毛利氏の居城である「吉田郡山城」は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、
領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた。

毛利輝元時代の天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを
城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代。

    

山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭な地域。
そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めたのであろう。

1588年、毛利輝元は、豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大阪城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている。
一説には、1558年-1569年の輝元の祖父である「元就」のころから、現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあったという。

    

縄張を秀吉の側近で築城の名手である「黒田如水」が思案した。如水が築城に絡んだ理由として以下のことが語られていると云う。
黒田如水この築城は同時期に進行しつつあった秀吉の朝鮮出兵に於ける前線基地となった名護屋城と、秀吉の拠点である大阪城や聚楽第を海路で繋ぐ中継基地(秀吉の宿泊所)としての期待をされたため、秀吉が築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣したという話。

平らな低湿地帯へ築城することに決まった際、家臣団の中で比治山山頂に築城する案と揺れ、そこで輝元の叔父である小早川隆景の友人である黒田如水にアドバイザーとして参加を依頼。
黒田如水は堅城となりうるとして低地案を推進し縄張を考案。
後日、秀吉がこの城を見物し「要害が悪い。水攻めをされたらひとたまりもない。」と評価した。
毛利輝元は黒田如水に騙されたと憤慨したが、小早川隆景は、「要害の悪い城だからこそ安全。毛利の城の要害が良かったら、謀反の恐れあり、と警戒される。」と諌めたと云う。

秀吉は、毛利氏を弱体化させるため(浅瀬に築城したため島普請に相当な出費をしたことからも)に黒田如水を派遣した、という話もある。

    

1864年、第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる。
この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る。

戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。 
広島城全域が広島城址公園。となっており、復元された大天守は、歴史博物館として利用。
公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)は財団法人広島市未来都市創造財団が指定管理者として、

広島護国神社は同神社、堀は広島市がそれぞれ管理。

    

次回は、平和公園へ。