syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

広島市内から広島美術館  

2014-06-10 | 気まま旅

20年ぶりの「広島」である。
市は県南西部、広島平野と広島湾に面して、県庁所在地、中国・四国地方の大都市である。
広島の名の由来が面白い。
「大江広元」 1148-1225 鎌倉幕府重臣・朝廷の太政官・書記官、頼朝に招かれ、公文所・政所のの別当・守護・地頭設置の献策、頼朝死後政子の「13人合議制」参画・北条執権体制に尽力し、京下りの幕府「中原親能」の義兄にあたる。
「承久の乱」広元と政子で出撃と決める。広元の子孫ー長井・毛利・海東・水谷など。

「福島元長」~1597 豪族、福島親長の娘結婚、(川之内海賊衆の有力な家)1525年で武田氏と離れ、太内方に帰順、1551年毛利元就が佐東郡に兵を進めた時に、これに応じている。1589年毛利輝元が広島城築城時に、大江広元屋敷に立ち寄っている。
福島氏の屋敷は、古川にあったと云う。
なぜ、二人を紹介したのは、「大江広元」の広と「福島元長」の島を合わせ「広島」になったと云う。



中國山脈を背に、太田川の分流が6本「猿こう川・京橋川・元安川・本川・天満川と太田川放水路」の三角州。
1590年毛利輝元が「太田川」三角州を生かし「寒村五ヶ庄・広島城」築城し城下町を建設した。その後、「福島正則」、1619年浅野長晟が紀州から入封以降12代・250年続く。

広島駅は、JR山陽本線・新幹線・呉線・芸備線・可部線・広島電鉄、又、国道2号線・高速道などと海上交通・広島港(宇品港)四国松山国際港湾都市になっている。



「稲荷大橋」
1912年・大正元年に、現在の広島電鉄宇品線の一部となる広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋に至る区間が開通。
それに伴い現在地の「京橋川」に電車専用の「稲荷町鉄橋」が架けられ、

1945年・昭和20年8月6日、原爆被災、爆心地から1.35kmに位置し、レールは曲がり枕木は数本焼けたが落橋はせず、下流側の柳橋が落橋してしまったため避難者はここを渡って東方向へ逃げたものもいると云う。
橋の下では、無数の死体が浮かぶ川に、水を求める人が殺到した。その後広電職員などにより復旧工事が行われ、同年12月には本線が全線復旧した。
昭和25年、戦後最初の電車併用橋として現在のものに架け替えられている。

架けられていた「新大橋」が、1945年に原爆被災およびその後の水害 により落橋してしまったため、1952年に架け直された 。
    

「稲生神社」
商売繁盛・火災除け・魔よけ・厄除けなどの守護神が祀られている。
本川町の空鞘稲生神社は「そらさやいなおじんじゃ」とある。
稲荷大橋の橋の名前に注目すると、京都に向う側は「ひらがな」で広島に帰る側は「漢字」で表記されている。
これは、学問するために京にのぼり、力をつけ帰広するときは漢字を使えるようになっていることを表しているという。
しかし、京橋は逆になっている。これは橋の修復の時に何気なくとりつけられてしまったと云う。

京橋は1591年・天正19年、毛利輝元が広島城入城した年に木橋として架橋。西国街道を通過し「京へ続く橋」の意味から命名されたとある。

    

「270年も前に書かれた(稲生物怪録)」、広島藩の支藩だった三次で起った怪奇現象の記録で、一ヶ月間も続く怪奇現象など他に例がない。
架空の話というには事細かく詳細な記録がされていると云う。

広島市に住んでいる子孫の方が持っている「三次実録物語」は、武太夫が記したという回想録。
妖怪のボス、魔王・山ン本五郎佐衛門は退治されたのでなく、武太夫の勇気を讃え、余裕を見せながら去って行ったなども他に類をみないと云う。
同じ藩士の柏正甫が武太夫から聞いて書いたのが「稲生物怪録」の原本となり、「稲生物怪録絵巻」など、色々な本が今に伝わっている。
それぞれで若干の物語の違いがあるが、どれも間違いなく「稲生物怪録」であると云う。
武太夫が魔王から授かった「小槌」は、いまでも、広島市東区の國前寺に安置されていると云う。

稲荷大橋を渡り「広島城」へ。


「広電の路線」

JR広島駅から猿こう川ー的場町ー京橋川ー八丁堀ー支線白島「美術館・城」
               本線 ー紙屋東ー紙屋町西「原爆ドーム」-十日市町ー土橋ー西広島・五日市・宮内・広電宮島口ー汽船で宮島へ。
                     紙屋町東西駅真ん中からー日赤ー皆実町―宇品ー広島港。
                                      -十日市町ー横川駅。
                                          ー土橋ー江波「気象館」。
三両の広電が街の中を
                  

京橋川、稲荷大橋ー御幸橋ー広島港へ


京橋川を渡ると薬研堀通り・三越・中央通り・恵比寿通り・紙屋町・17代当主の薬局・旧日本銀行広島支店・頼山陽史跡資料館・平和大通り・県庁日銀支店・そごう・美術館で、広島城二の丸。広島の中心地。

    

「広島胡子神社」-えびす通り商店街の中に。
祭神ー蛭子神・事代主神「大江広元」公(毛利家の始祖)の三柱が一体となった「えびす神」。商売繫昌・家内安全・厄除けなど。
1602年町の年寄役 銭屋又兵衛・松屋太郎右衛門が、吉田胡堂のえびす神を勧請。創始は、いろいろ説あり、えびす神鎮座して「月4日」「月8日」
市が立ち、「市の町」と呼んでいる。市と芝居で、女歌舞伎「清七一座」も出来人を呼んだと云う。
浅野治世には、厳島神社祭礼白島の清正公・尾長の東照宮祭・広瀬神社・白神神社の氏神祭と「胡町」は賑わいを見せると云う。
「胡子大祭」は広島三大祭の一つ、30万人近い人出で賑わう。(400年以上の歴史)

    

「毛利元就」 毛利家繁栄の基礎、知将 1497-1571 安芸国大名 (弘元の次男)
大内義隆に属し、大内氏を滅ぼした陶晴賢を厳島に討って大内領を併合している。出雲の尼子晴久を倒し、中国地方10か国を支配した。
厳島合戦は、陶晴賢軍2万・毛利軍4千、夜中の嵐に乗じて一気に奇襲。「三本の矢」一族団結を説いた。

    

「ひろしま美術館」は、道路を挟んで広島城と並んでいる。
1978年に、広島銀行の創立100周年を記念して開館した。
「財団法人ひろしま美術館」が運営主体。 フランス印象派を中心に、ゴッホ、ピカソなどの作品も展示。
日本の近代洋画の秀作も多く収蔵している。         観覧料¥1000



「聖家族」フランチェスコ・クルラーディ 油彩キャンパス 17世紀前半・「墓地のアラブ人」ドラクロワ 油彩、キャンパス 1838年
「刈り入れ」ジャン=フランソワ・ミレー パステル、カルトン 1866-67年・「サン・マメス」アルフレッド・シスレー 油彩、キャンパス 1885年
「ドービニーの庭」 ゴッホ 油彩、キャンパス 1890年・「浴槽の女」エドガー・ドガ パステル、カルトン 1891年頃
「アリスティド・ブリュアン」ロートレック グワッシュ・油彩、紙・キャンバスで裏打ち 1893年・「坐る農夫」ポール・セザンヌ 油彩、キャンパス 1897年頃等の作品展示

緑に囲まれた近代的建物の美術館
    

次回は、広島城へ。

山荘の花 富士山麓 

2014-06-08 | 富士山麓日記
 山荘の庭には色とりどりの花が咲きます。下界よりはちょっと遅いのですが、ここは標高1000mの高地です 
ジャーマンアイリス




デイジーが咲き始めました。






おおでまり




今頃こでまりが咲いています。


ウド 天ぷらに最高




えんれいそう


しもつけ


やまつつじ




帰り道、高速で太陽が曇り空の中輝いています



灘・伏見に次ぐ・西条の三大酒蔵

2014-06-06 | 気まま旅

「御建神社」
東広島市西条町に鎮座。
神社は、山陽本線・西条駅の北へ150m程の、御建公園の中に鎮座している。
駅に近いが緑は、豊かで、落ち着いた神社。御祭神ー 素戔嗚命・事代主命・市杵島姫命等

     

706年に、諸国に疫病が流行し、素戔嗚命に祈り疫病が止んだ事から当時の人々が社を建てて祀ったのが起こりと伝えられている。

明治43年、西条町字北の若宮八幡神社・胡子神社・金崎神社・西条町大地面の大地面神社及びその境内社を御建神社に合併している。
大正3年、火災の為、神殿が焼失し、3年をかけて現在の社に再建されたと云う。 
    

昭和初年、山城伏見の松尾神社の分霊を境内に勧請し酒都西条の酒の守護神とした、摂社、松尾神社がある。 



酒造神が奉られる京都の「松尾神社」の分霊を受け、毎年,酒造り の始まる
11月になると市内の酒造会社による「酒造祈願祭」が行われる。酒造家によって厳粛に祭礼が行われている。
境内由緒書 より



「酒造の仕込み水」
地下水が豊かな東広島市西条は酒造りが盛んで、市内には造り酒屋が多い。
大手酒造メーカー「賀茂鶴」の蔵には仕込み水の水のみ場があり、酒蔵見学者に振舞われている。 白牡丹酒造は、 西国街道に面した水場で、大勢の人が水汲みに訪れていた。
また、万年亀井戸は、 亀齢酒蔵の仕込み水で、玄関先に。
次郎丸井戸は、 賀茂泉酒蔵の仕込み水の井戸。平成元年に地下142メートルから湧出している。遊泉館の玄関先にあり、汲んだり呑んだりできる。
同館のコーヒー、夏季のかき氷などは仕込み水を使用していると云う。
福美人酒蔵は、蔵の敷地内に、「六角井戸」がある。

良い酒は、水・米・技術(一麹・二酛・三造り)。 


「賀茂鶴酒造」
創業は、古く江戸の初期、1623年。
現在、蔵を構える東広島市西条は、独立行政法人の酒類総合研究所・酒造業・醸造業者の多くが発祥した地でもあり、賀茂鶴は、有力蔵の一つ。
現在、酒造りに邁進。1873年、同地の酒三大恩人の一人に数えられる、「木村和平」が酒銘を「賀茂鶴」と命名している。
「賀茂」は、地名とともに、酒を造る、醸す、という言葉を、「鶴」は、気高い瑞鳥を表している。
ラベルの双鶴は、信頼、富士山は品質日本一。酒づくりへの深い想いを込めていると云う。

    

1892年(明治25年)「木村静彦氏」が初代社長に就任、会社への組織化を睨み、下地が整えられると共に、新聞広告の出稿、海外への日本酒の輸出などを積極的に開始し、1900年にフランス・パリで開催された万国大博覧会に賀茂鶴を出展し、名誉大賞を受賞。
1917年(大正6年)、全国酒類品評会最初の名誉賞を受賞。
1918年(大正7年)資本金150万円にて賀茂鶴酒造株式会社に組織変更し、酒蔵も相次いで拡張され、
1951年には、東京支社も設置。1958年には、「特製ゴールド賀茂鶴」が発売され、話題を呼んだ。
伏見・灘といった日本酒の主要生産地に次いで、一躍広島から同社の名が全国に知れ渡ることになる。

江戸時代に西国街道の宿場町として栄えた西条四日市(駅周辺)には、御茶屋と呼ばれる広島藩の本陣がおかれ、明治には、賀茂郡役所、賀茂地方事務所として使われてきた。現在の門は当時の表御門を復元したもの。外観のみ見学自由。
    

「すきやばし次郎、鮨水谷、鮨松波など、与志乃系の鮨の名店」など提供されていることでも知られ、「品質第一」を社是のもと、
                   商品すべてを自家精米・自家醸造している。

    

平成24年、第61回西条清酒品評会において、賀茂鶴の賀茂鶴2号蔵 最優秀。
     スローフードジャパン・酒文化研究所 主催「燗酒コンテスト2012」において、お値打ち燗酒(720ml・1000円以下)熱燗部門(50~55℃)で     は「賀茂鶴 本醸造 からくち」が金賞を受賞し、極上燗酒(720ml 1000円超3000円未満・審査温度は「ぬる燗」)では「賀茂鶴 特別本     醸造 特撰特等酒」が金賞を受賞。

     全日本国際酒類振興会 主催「2012年秋季全国酒類コンクール」において、純米大吟醸部門で「賀茂鶴 純米大吟醸 大吟峰」が特賞第1位。
     峠本総杜氏 黄綬襃章受賞。
 
平成25年、第62回西条清酒品評会において、賀茂鶴の賀茂鶴2号蔵 最優秀。
     日本酒造技術研究連盟主催 第47回全国選抜清酒品評会において賀茂鶴2号蔵 第1位

平成26年、 第63回西条清酒品評会において、賀茂鶴の賀茂鶴8号蔵 最優秀に。

    

「亀齢酒造」
長命と永遠の繁栄を願う酒「亀齢」は、 「鶴は千年 亀は万年」の 言葉のごとく、長命と永遠の繁栄の意。
古くは「吉田屋の 酒」として、親しまれ、明治初期社長が命名。
大正6 年の全国清酒品評会で、当時、 甘口の酒が多い酒どころ西条において、古くから「亀齢」の酒は、「辛口の酒」と言われてきたと云う。
    

「西條鶴醸造・西条鶴」
蔵は、大部分が明治中期に建てられた。西条の中では唯一今も煙突を使う、
明治37年、創業の蔵元。酒質は、後切れの良さ。 良質の吟醸酒の定評がある。
モンドセレクション9年連続金賞受賞の「ゴールド西條鶴」
米は、地元産米、水は名水 「天保井水」。(江戸時代、地下22mから仕込み水・天保井水を)

    

「白牡丹酒造」
白牡丹は、広島県内で最も飲まれ、人気がある。
蔵元の 創業は延宝3年・1675年、、西条の中で随一の長さを誇る。
西条本町の天保蔵をはじめ、米満醸造場が3蔵。

東広島市西条には、賀茂泉酒造・山陽一酒造・山陽鶴酒造・福美人酒造などが集中している。平成5.6年で広島県酒は、蔵元ー94社・銘柄154種
    

「酒の話」
清酒は、世界一の醗酵技術、世界で醸造酒の中、アルコールを20%も出す醗酵は日本酒・清酒の他に例は無い。ビール・ワインでどんなに糖分を足しても
高濃度のアルコールを生成できない。
清酒の製造法は独特のもの。その一、並行複醗酵と云って糖化「麹作用」と醗酵「酵母の作用」が並行して作業するので醪中の糖分濃度が異常に高く
なることなく、濃糖に圧迫されことが無く、アルコール造りに励む事が出来る。
アルコールが15%以上になると酵母自身も苦しく、そこで、アルコールの影響を緩和してやる必要だ出てきます。
その二、麹がその緩和する作用を引き受けてくれます。麹菌の中には、プロテオリピツド物質が酵母を守ります。日本古来の清酒醸造法は、学問的にも興味あるところ。我が国初の技術輸出は、醗酵技術。

次回は、広島市へ。

広島 西条の安芸国分寺

2014-06-04 | 気まま旅

広島県東広島市、県中南部「賀茂郡西条」。古代安芸国国分寺が置かれ、近世の山陽道宿場町。
西条と云えば、米どころ・水どころ・杜氏の町、灘・伏見と共に日本酒造地と広島大学・賀茂学園都市になった。
駅を出ると、造り酒屋のレンガ煙突が飛び込んで來る。

「山陽本線JR西条駅」
東広島市の中心駅、広島市玄関口で、新幹線の停車する東広島駅もある。
市は、広島市からおよそ35KM程のところにある。JR山陽本線に、「東広島」という駅は無い。
山陽新幹線の駅「東広島」は、はるか南になる。

市街地中心部に位置する西条駅の方が乗降客数は圧倒的に多いと云う。
広島大学の最寄り駅でもあり、西条の酒蔵に程近いため観光駅としての顔もある。
毎年10月第2土曜・日曜は西条中央公園で「酒まつり」が開かれるため県内・県外の観光客で賑わう。
1月に行われる大学入試センター試験で、広島県東部から広島大学に向かう受験生輸送のため、臨時列車が大門駅 - 西条駅に設定される。

1894年・明治27年開業している。


「教善寺」
山号ー南命山、浄土真宗本願寺派のお寺。

室町時代の開基で庫裏は幕末の広島藩の隠れ城、志和の八条原城の行動を移築したとある。
八条原城は、1868年、戊辰戦争勃発とともに、広島城では長距離砲に対処できないとし、ひそかに志和に城を移すために計画。
広島藩は戦乱の拡大と、外国軍艦の干渉等不測の事態に備えた、、、。
幕末に組織された神機隊の頓営の地に幕府に届けることなく学問所として建築されたとも云う。
幕末の貴重な資料。

教善寺                     山門                    鐘楼
      

                            本堂


「安芸国分寺跡」
西条盆地の東北部,北に山をおい南に盆地の低平地を望む緩やかな傾斜地に位置。
1932年、寺域の南西に存在した聖武天皇の玉歯を埋めたと伝えられる塚状の地点を発掘し、基壇と礎石群が検出され,塔跡が明瞭になり,
昭和11年・1936年に「安芸国分寺塔跡」として史跡に指定された。

「奈良平城京」
741年、聖武)天皇は、当時の政治不安や悪疫流行をしずめるために、諸国に国分(僧)寺、尼寺(にじ)を設け、国家の平安を祈るよう詔を出した。 
694年藤原京・天武天皇(天皇中心国家に)天武天皇の妻持統天皇女帝・文武天皇・元明天皇710年「平城京遷都」
奈良時代の天皇は、元明天皇(708~714)女帝・元正天皇(715~723)女帝・
聖武天皇(724~751)後半期から光明皇后が実権をもつ・孝謙天皇(752~758)女帝・
淳仁天皇(759~763)実質的には孝謙天皇が実権をもっていた。称徳天皇(764~769)女帝 (孝謙天皇の再即位)・光仁天皇(770~773)と続く。

聖武天皇は、日本全国に護国の教典をまつる寺院を建立し、平城京には全国の国分寺 のシンボルとして東大寺と大仏を、国分尼寺のシンボルとして法華寺を建立。

光明皇后は、聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養三千代(橘三千代) の三女。聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。

西条盆地の東北部,北に山をおい南に盆地の低平地を望む緩やかな傾斜地に位置する。
昭和7年(1932)寺域の南西に存在した聖武天皇の玉歯を埋めたと伝えられる塚状の地点を発掘したところ,基壇と礎石群が検出され,塔跡が明瞭になり,昭和11年(1936)に安芸国分寺塔跡として史跡に指定された。

    

昭和44年(1969)以降平成12年(2000)まで12次の発掘調査が行われ,奈良時代の遺構は,門,金堂,講堂,僧坊が南北の伽藍中軸線上に配置されており,北辺では築地と溝があったと推定される。
なお,南方5kmの三永水源地北畔には,国分寺と同様な瓦を出土する窯跡があり,この付近で国分寺の瓦を生産したと考えられる。

  

奈良時代に聖武天皇の勅令によって全国60か国に建立された国分寺のうちの一つ。寺域内に南大門跡,中門跡,金堂跡,講堂跡等が南北に縦に並び西に塔が建つ伽藍配置,塔跡に10数個の礎石が残る。

  

安芸国の国分(僧)寺は、古代の山陽道が通る西条盆地、現在のJR山陽本線西条駅の北側に建立されていた。広島県教育委員会が行った発掘調査によると寺域は、現在の国分寺を中心に東西約200m、南北約130mの広さがあり、南門、中門、金堂、講堂が南北の中軸線上に並ぶ東大寺式伽藍配置を基本としている。南門跡は東西10m、南北7m、中門跡は東西14m、南北10mの基壇があるが、金堂跡は版築による盛土があるだけで規模は明らかでない。講堂跡は東西28m、南北16mで、乱石積の基壇が確認されている。中軸線から西に離れた位置にある塔跡は、一辺10m、高さ1.2mの基壇をもち、心礎をはじめとする礎石が残されている。また、寺域の北辺では築地と溝が確認されており、周囲に築地と溝が巡っていたことが推察されている。
  
露出した塔礎石
  

国分寺は、奈良時代に諸国に命じて設置させた寺。
国ごとに僧寺と尼寺をつくらせたので、普通国分寺及び国分尼寺と呼ぶ。国分寺は、「金光明四天王護国之寺」が正式名称で、
20人の僧と金光明最勝王経が置かれた。
国分寺の建立は諸国にまかせられたようで、一定の規格はなく、既存の寺を利用したものもあった。
備後の国分寺は、神辺町にあったと云う。

  

国分寺と井戸
井戸跡ー井戸枠は良く解らない。一般的に、巨木をくり抜いて作られ、平面形か楕円形をなしている。 流し溝の痕跡も残っている。
井戸の上には、4本の柱に支えられた覆屋が設けられ、これは、柱を建てた痕跡がある。
再現されたものであろう判りやすい。
  

「安芸国分寺」
西条町伽藍、真言宗御室派
現在の「安芸国分寺」は小さなお寺。天平の「国分寺跡」を伝えるものは、山門を入ってすぐ右側にある「南門跡」と書いた「木杭」と、
復元整備された「塔跡」である。
  

現国分寺の近辺は住宅街。
現国分寺の少し西の住宅に囲まれたところに「塔跡」がある。
「塔跡」は、石垣で作られた基段の上に発掘された礎石を復元したもの、その前に「史跡安芸国分寺塔跡」と書いた石碑が立っていた。
この塔跡は石柱で作られた柵で囲まれており、門に鉄扉がついていて、第一印象は大型の墓所であったと云う。

    

天平の「安芸国分寺」が西条にあることから、古代の国府はやはりこの近くにあったはずであるが、
「安芸国府」を示す地名の現「府中町」は広島市の中で浮き島のような位置になると云う。

                              本堂


次回は、西条の酒蔵へ。

尾道千光寺・公園

2014-06-02 | 気まま旅
「西海岸瀬戸内しまなみ海道」
総距離59.4km・開通1979-2006・起点尾道ー終点四国今治。
海峡部の橋梁として
新尾道大橋、因島大橋、生口橋、多々羅大橋、大三島橋、伯方・大島大橋(伯方橋、大島大橋)、来島海峡大橋(来島海峡第一大橋・来島海峡第二大橋・来島海峡第三大橋)の10本(尾道大橋を含めて11本とすることもある)。総事業費7,464億円。

1999年に橋梁すべての整備が完了し、一般的にはこの時点がしまなみ海道の開通と見なされているが、この時点では、島嶼部での自動車専用道路が一部未整備で既存の生活道路を利用する区間があり、これらと接続する本線料金所としての利用を本来想定していない。
インターチェンジを含め混雑が発生し、特に開通直後には大きな問題となり、2006年の大島北IC-大島南IC、生口島北IC-生口島南ICの開通したが、一本の道路として繋がったものの、部分開通時の印象から「混雑する場所」と言うイメージが残ったと云う。
特徴として、自転車愛好家に人気の「サイクリンクルート」で島々を観光できる。

「千光寺山」は、144.2mで、千光寺公園頂上展望台からの風景が人気。尾道の街並みや瀬戸内の風景一望できる。「さくら名所100選」に選ばれ、
千光寺山ロープウェイで、気軽に登れる。片道¥280・往復440
「夜景100選」と「恋人の聖地」の碑。「展望台」と「美術館」「自然石・八畳岩」などがある。

  

真言宗系の単立寺院。山号は大宝山。本尊は千手観音。中国三十三観音第十番札所、山陽花の寺二十四か寺第二十番札所。

御詠歌「みなひとの 衣のうらの たまわそも 仏ともなる 宝なるらむ」
    

空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はい。
中世以前の寺歴は判然としない。戦国時代には備後国御調郡木梨村木梨城主の「杉原元恒」がこの地に出城を築いていると云う。

    

本堂・大師堂・客殿・護摩堂・三十三観音堂・大仙堂・毘沙門堂・鐘楼・撫松庵・磐石の庭・くさり山・玉の岩・鏡岩・梵字岩・岩割松・鼓岩
千畳敷・八畳岩・公園に続く。

    

西久保町の「西国寺」は、真言宗・山号ー摩尼山、寺伝では、天平の729年から749年に「行基」が開祖、本尊ー薬師如来。
仁王門に大草履で知られている。
金堂・三重塔・薬師如来坐像など重要文化財がある。

    

「広島県史跡 鷲尾山城跡」 尾道市木ノ庄町、、、。

1336年、「足利尊氏に従い九州多々良浜博多」の戦いで戦功を立てた杉原信平、為平が木梨13ヶ村(尾道、後地、栗原、吉和、久山田、木原、猪子迫、白江、三成、市原、木梨、小原、梶山田)を賜り、木梨に鷲尾山城を築き居城。
以来、信平、光信、元盛、元直、光恒と続き、備後の覇者として武威を張ったが1543年、月雲州富田「城主尼子晴久」によって城は攻め落とされ光恒は城内で自害、その子高盛は捕えられた。
やがて、大内氏の助力を得て鷲尾山城に帰り、名を釈迦ガ城と改めた。
その後、石原小次郎忠直に再び攻められ高盛は戦死。
その子「杉原元恒」は、古志氏をたよって新庄に落ちのび小早川隆景をたより、再度、木梨へ帰り石原氏を滅ぼし鷲尾山城を回復し、1584年「杉原元恒」は、千光寺山に権現山城を築いてここに移り、1337年、築城以来、実に247年木梨杉原氏の本城として備南地方を鎮めた。
鷲尾山城も、1591年、秀吉の山城廃止令によって廃城、と云う。

    

松尾芭蕉は、尾道は訪れていないが、芭蕉の像。
1792年尾道に滞在していた、俳人「長月庵若翁・1734-1813」が、地元52人と「先師松尾芭蕉の百回忌を営み句会を催してよんだ句が

                「うきわれを 寂しがらせよ 閑古鳥」
    

「出雲街道」は、兵庫県ー岡山県ー広島県(尾道)-島根県、山陰・出雲・山陽を結ぶ街道を云う。

安芸へは、宍道から赤名峠、三次、可部を通り広島に達する「国道54号線」
備後へは、三次や庄原や西条を獲て山陽道。石見街道とも云う。

美作・播磨へは、米子から四十曲峠を経て津山から万能峠、佐用から姫路の津山街道。松江藩参勤交代に利用している。

出雲大社の起点碑が
    

山陽地方は、本州西部瀬戸内海側、山陰地方は、日本海側で、山陽は、岡山・広島・山口南部、広義では、播磨・美作・備前・備中・備後・安芸
周防・長門の8か国と、これに、兵庫南部が含まれる。

山陽道は、古代大道であった。江戸中期まで西国諸藩の参勤交代通行道で、中国路・中国街道・西国路とも云った。宿場数50以上、道幅2間・3.6m
現在の2号線と並行している。

尾道は、銀の輸送ルート、銀山街道赤名と出雲街道が合流して、馬・人手の貸出が行われたとある。
尾道水路、船の出入りが多い。
  

「住吉神社」
瀬戸内海の潮の干満差は大きく、最大4メートルにも及び、潮の干満にあわせて船の揚げ荷や積み荷が便利なように考慮された石段がある。
雁が連なって飛ぶ姿に似ているので「雁木」と呼ばれている。
銀を積んだ船・漁師など、海岸にある。安産祈願の鎮守・住吉神社が海を見守っていた。

    

JR尾道駅前バスタミナール、しまなみ交流館。オアシス尾道、尾道桟橋、尾道港から駅前汽船が向島へちょくちょく往来している。


向島には、洋らんセンター、高見山公園、国重の吉原家住宅等がある。


次回は、広島・西条へ。