syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

東横線妙蓮寺・大倉公園

2015-03-19 | 気まま旅

「五島慶太」 1882-1959 私鉄東急王国の創立者、長野県出身、東京帝大、小林姓から結婚で五島を名乗っている。農商務省から鉄道院
武蔵野電気鉄道・常務から東京横浜電鉄・専務後目黒蒲田電鉄吸収し社長に。
関西「小林一三」に習い、沿線土地開発し、田園調布が代表的。教育・文化でも美術館・工業大学など設立している。

東急電鉄は、池上電気鉄道、東京横浜電鉄などを吸収合併し、鉄道業の基盤を固め、逐次、沿線開発という事業趣旨から、流通事業、開発事業、観光サービス事業、文化事業などを付随して誕生させ現在に。

「妙蓮寺駅」下車
各駅、1926年(大正15年) 妙蓮寺前駅として開業し、貨物線と渡り線が設置されていた。1931年 - 妙蓮寺駅に改称され1935年 - 貨物ホーム撤去し、1965年 昭和40年、 渡り線撤去。この頃に構内踏切を廃止して、地下道化。2002年 下りホームに改札口が開設される。

私鉄東横線妙蓮寺駅                               妙蓮寺
    

「妙蓮寺」日蓮宗の寺・開基ー日體
1350年、現在の横浜・神奈川区に「波木井善太郎」が日輪を開山上人として、この寺院の前身の一つである妙仙寺を開いた。
1908年(明治41年)、妙仙寺が横浜鉄道臨港線(現:JR横浜線)敷設のため、移転を余儀なくされ、住職・日體は菊名池畔にあった蓮光寺を移転先として合併した。
両寺院から1文字ずつ取って「妙蓮寺」とし、合併の碑が駅前にあると云う。
1926年(大正15年)、寺の敷地内を東急東横線が通る計画となり、住職であった「日偉」は、再度の移転を嫌い、寺の敷地内を通らせる事を選択したと云う。代わりに妙蓮寺前駅(現:妙蓮寺駅)を作らせ、駅前の一部は今も寺の土地であると云う。

                            妙蓮寺
    

土地(生麦)の波木井善太郎という篤志家が池上本門寺の第3祖「日輪上人」の熱烈な信者で、日輪上人が当時住んでいた鎌倉の妙本寺から池上本門寺の日蓮大聖人の廟所への往還の宿とする草庵をつくった。これを日輪上人を開祖とする大経院妙仙寺としたとある。

                            妙蓮寺
    

日蓮宗「本乗寺」ー菊名

東急東横線の菊名駅・JR新横浜駅のちょうど中間地点ほどの住宅地は、後北条氏 家臣の小幡泰久なる武将の居城が・
八杉神社から本乗寺にかけての一帯が城跡と伝わる。

                           菊名駅本乗寺                    
    

江戸幕府が置かれた17世紀以降、東海道の宿場とされた神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿を中心に発展。
特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄え、対する六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、
風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。
江戸時代末期までの横浜村付近は、湊とは対照的に、戸数は少なく、砂州上に形成された半農半漁の寒村。

                             本乗寺
    

「浄土宗寺院の蓮勝寺」
菊名山喜楽院と号す。蓮勝寺の創建年代は不詳。
蓮勝寺山門横の石碑に「宗祖法然上人七百五十年御忌當寺開山蓮勝上人六百年遠忌當寺開創六百五十年記念」とあり、法然上人が、1212年に寂していることから、蓮勝上人が1312-1317年 前後に創建したとある。

蓮勝寺の毘沙門天王は、横浜七福神の毘沙門天 
    

菊名村は、村の西よりにあり、菊名山喜楽院と號す浄土宗小机泉谷寺の末、開山詳ならず、當寺の過去帳には舊き世の年號を記したれど、
この過去帳は全く後世より記したるものと見ゆれば、是を以て當寺の草創を舊しとは断ずべあらず、客殿六間四方南に向ふ、
阿弥陀を本尊とす長二尺五寸。 観音堂。客殿の右にあり九尺に二間。
「毘沙門堂」 村の北よりにあり二間半四方南向、毘沙門の像三尺名ある、、、、、其慥なる事を知らず村内蓮勝寺持。 (新編武蔵風土記稿より)

                            本堂


「菊名神社」- 八幡さま・八幡神社 。
祭神ー誉田別命・天照皇大神・日本武尊・木花咲耶姫命・武内宿禰命

                           拝殿
    

      「大倉山駅」、横浜市港北区大倉山一丁目1番1号にある 東京急行電鉄東横線の駅。
    

「大倉公園」
敷地6.9万㎡。うち1.1万㎡の梅林には約20種150本の梅が植えられ、観梅の時期には多くの人出が。
1931年(昭和6年)、 東京横浜電鉄が集客のための沿線開発の一環として、隣接する龍松院の地所を買収。「太尾公園」と名付けて梅林を整備。
1932年、 大倉邦彦が大倉精神文化研究所を開設。現在大倉記念館。1981年、 横浜市が大倉精神文化研究所一帯の敷地を取得し、建物の寄贈を受ける。
1984年、大倉精神文化研究所の旧所有地を整備して横浜市大倉山公園が開園。1986年、東京急行電鉄所有の梅林を買収し、整備。

昔は、太尾町・1932年実業家「大倉邦彦・大倉精神文化研究所」を作り、このおかを「大倉山」と呼ぶようになったと云う。
2000年前、弥生時代の土器・石斧などが出土しており、江戸時代は太尾村は90軒ぐらいの農家が、人口560人ぐらいの貧しい農村であったと云う。

                            大倉公園


横浜市の文化財に指定されている現在の建物は、1932年(昭和7年)「大倉精神文化研究所」の本館として竣工された。
設計者は長野宇平治で、旧北海道銀行や旧日本銀行広島支店など古典主義建築の第一人者として有名。
建物は東西文化の融合を建築理念の中心に据え、クレタ・ミケーネ様式(プレヘレニック様式)を採用。
ギリシャ神殿風の西洋的外観と東洋的な木組み内装である。
建設は竹中工務店が担当し、竣工当時は真空式低圧蒸気暖房装置や水洗トイレ、給湯装置を完備した最新設備であった。
総費用は約70万円、建物工事45万9356円18銭で、現在なら数十億円に相当すると云う。
館は以下の5棟から成り、それぞれに創設者・大倉邦彦の理念を配したつくりとなっている。

                           大倉公園
    

「大倉邦彦」
1882年、佐賀県神埼郡西郷村(現神埼市)の士族・江原家に生まれ、1902年に旧制佐賀中学校、1906年に上海の東亜同文書院を卒業の後、大倉洋紙店に入社。社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長に就任、事業を大きく発展させる。
日本の教育界・思想界の乱れを憂えた邦彦は、教育の重要性を説き、私財を投じて東京目黒に富士見幼稚園、郷里である佐賀県西郷村に農村工芸学院などを開設したほか、この考えをさらに広く普及させるべく、1932年には現在の神奈川県横浜市港北区大倉山に大倉精神文化研究所を創設。
1937年、第10代東洋大学学長に就任し、在任は2期6年に渡った。

戦後まもなくA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘禁されたが、後に嫌疑がはれて釈放され、研究所理事長兼所長に復帰する。
戦中戦後の混乱期に研究所は何度も存亡の危機を迎えたが、邦彦は全私財をなげうって研究所の維持に尽力した。
1961年大倉洋紙店会長となる。1971年、数々の功績が認められ、教育功労者として勲三等旭日中綬章(旭日章)を。享年89。

                        大倉公園
    

ここで、訂正とお詫びをします。
大倉公園は、二度目の掲載になり、前回の記事で「大倉喜八郎」との関係があるような内容になりました。

梅林戦前1000本、戦後も東横線「観梅号」が大倉山駅に、横浜市になり2013年現在32種約225本が植えられている。
    

「綱島古墳」ー綱島台1丁目
形状・円墳 、規模・直径20m、高さ26m 、築造年代ー5世紀末、出土品ー埴輪、鉄刀、鉄子、鉄鏃ほか 。

                        綱島公園


「綱島公園」
東急東横線綱島駅の北方、綱島台の町に、その名に“綱島”を冠した「綱島公園」がある。
公園の位置する町の名、「綱島台」が意味するように、この辺りは小高い丘陵地になっており、綱島公園はその丘陵地の東端部分を整備。

総面積は3ha弱、住宅地の中に位置する公園、公園は1944年(昭和19年)に開園され歴史も古い。
    

「陽林寺」ー曹洞宗
1521~1527年、 綱島に移り住んだ城田氏が一族の繁栄と安全を祈願して 建てられた「陽林寺」。
江戸時代に入って相模丘陵も開墾が進み、綱島も人口が増加、 草堂は城田一族だけのためでなく集落の氏寺に、 明治になり文明化とともに
綱島は、農村 地帯として江戸の面影を色濃く残し、綱島にも新しい波が押し寄せ、大正時代の武蔵鉄道 (東急の前身)の開通後は綱島は住宅地として開け曹洞宗のお寺・境内に あった池に写る名月にちなんで「水月山ー陽林寺」
それから100年余りに。
                             陽林寺
    

「長福寺」ー 浄土真宗 東本願寺派 山号ー綱島山。本尊ー阿弥陀如来
1592年、戦国時代に西国の落武者で綱島十八騎と言うものがあってその中の一人佐々木賀典が出家し関東のこの地に長福寺を開山。
およそ410年の歴史を経ている。
現在の佐々木昭典住職が十五代目にあたり世襲制で東本願派の寺として今日に。

                         長福寺
    

山門と鐘楼ー 親鸞聖人・生誕800年の縁起に山門と鐘楼の創建。梵鐘は毎日打たれ、寺周辺に諸行無常の響きを伝えている。

祖師親鸞聖人の絵像、蓮如上人の絵像が安置されている。
    

「綱島・諏訪神社」向かいに「神明社」
「ツナシマ」とは州の中の島、中州、湿地に浮かぶ島、津の島という意味であると言われる。
地区が南側の鶴見川、東側の早渕川に挟まれている地域であること、あるいは、かつて鶴見川または早渕川にあったある中州が「ツナシマ」と呼ばれていて、それが自然にその周辺地域をさす言葉になったと云う。
「ツナシマ」とは連なり島の意であり、かつて鶴見川が東京湾の奥深い入江となっていた時代に、現在の綱島公園、綱島神明社、綱島諏訪神社となっている高台が、複数の島となっていた様子から名付けられたとも言われている。
神明社と諏訪神社の高台は綱島街道の開発によって分断されているが、かつては地続きで一つの丘陵となっていた。

                      綱島・諏訪神社
    

諏訪神社は、
全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社(旧称:諏訪神社)を総本社とする。
諏訪神社を中心とする神道の信仰を諏訪信仰という。
諏訪信仰は日本全国に広まっており、特に北条氏の所領に多い。
鹿児島県では祭神名の建御名方命から「南方神社」としているものもある。

諏訪大社の祭神は諏訪大明神ともいわれる建御名方神とその妃・八坂刀売神で、他の諏訪神社もこの2神を主祭神とするほか、「諏訪大神」と総称することもあり、諏訪大社より祭神を勧請する際には薙鎌に神霊が移され、各神社ではこれを神体としている。
中世には狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟、漁業を守護する神社としても崇拝を受ける。

                          諏訪神社
    

次回は、埼玉県大宮氷川神社から。

横浜中華街 旧正月春節祭

2015-03-18 | 気まま旅
「13号線副都心線」
埼玉県和光市の和光市駅から渋谷駅を結ぶ東京地下鉄(東京メトロ)の鉄道路線。
和光市駅 - 小竹向原駅間は有楽町線と線路・駅・施設を共用し、小竹向原駅 - 池袋駅間は同線との複々線区間として並走し、池袋・新宿・渋谷の三大副都心を縦断する路線。
本路線を含めた鉄道5事業者(東武・西武・東京地下鉄・東急・横浜高速鉄道)による相互直通運転が行われ、埼玉県北西部「川越市・飯能市・所沢市」方面から神奈川県横浜市・中華街までの広域鉄道網を形成、便利になった。

新宿3丁目から渋谷経由~横浜みなとみらい(約1時間弱)。



我が国最大の貿易港「横浜港」で、近くは京浜工業都市の中核をなしている。だが、かって海を横切るように突き出た細長い砂浜だった。
海を横切る浜「横浜」と地形説と701年大宝律令で、50戸を「里」とされ、それにも満たない場合は、村落制度の単位が転嫁しと云う説がある。
1192年源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃は、砂洲上の寒村に過ぎなかったと云う。
開発がされ出したのは、執権補佐であった「北条実時」が、金沢に「称名寺」を建立(1260年)し、文庫を開設し、学問を奨励した。
足利学校・金沢文庫が中世の二大文教都市となった。

    

「日本大通り」
かつての久良岐郡横浜村の一部に当たる。
1859年、の横浜港開港の際に外国人居留地となったが、当初は町名が設けられなかったと云う。
1870年(明治3年)に横浜公園と象の鼻波止場を結ぶ街路が完成、この通りは1875年に「日本大通り」と名付けられる。
1879年(明治12年)に外国人居留地に町名が設けられ、当地は通りの名をとって「日本大通」と名付けられた。
1900年(明治33年)に山下町に統合され、山下町字日本大通となったが、
1928年(昭和3年)9月1日に境町全域と山下町・本町の一部から日本大通が新設された。

北東から南西方向にやや長い長方形の町域を持ち、面積は0.096km²。
中央を北東-南西に日本大通り、北西-南東に本町通りが貫き、港郵便局前交差点で交わる。
北東は海岸通りを挟んで海岸通、南東は大桟橋通りを挟んで山下町、南西は横浜公園、北東はみなと大通りを挟んで元浜町・北仲通・本町・南仲通・弁天通・太田町・相生町に接する。
港郵便局前交差点の北はキングの塔の別名を持つ県庁本庁舎、東は横浜港郵便局や横浜開港資料館、県庁分庁舎、南は中区役所や横浜情報文化センター、県住宅供給公社、朝日新聞社横浜総局、西は横浜地方検察庁・横浜地方裁判所・横浜簡易裁判所や日本銀行横浜支店などが位置する。
本町通り地下には「みなとみらい線」が。

    



「大桟橋の歩み」ー日本の表玄関ー
1859年 (安政6) 横浜港開港ー1892年 (明治25) イギリス波止場の延長線上に鉄桟橋架設工事着工ー(横浜港最初の築港工事)
1894年 (明治27) 鉄桟橋(現大さん橋)竣工。メリケン波止場と呼ばれるー幅約19m、長さ約457m
1917年 (大正6) 拡張工事竣工(横浜港第2期築港工事)ー1923年 (大正12) 関東大震災で桟橋部陥没、上屋焼失 ー1925年 (大正14) 震災復旧工事竣工、、、、、、、。

1900~1910年(明治33~43年)頃の横浜港第一期築港工事で完成した鉄桟橋(現大さん橋)・ (横浜みなと博物館所蔵)
  

「赤レンガ倉庫」は、新港地区南東部岸壁美ある倉庫、明治44年の2号棟・2年後の1号棟が残っている。現在は、煉瓦パークとして保存整備られている。

                                     大桟橋埠頭に外国客船が停泊
  

「クルージング」山下公園乗り場ー横浜駅東口直行便。山下公園乗り場ーピア赤レンガ乗り場(約10分)ーぷかり桟橋乗り場(約5分)-横浜駅東口
乗り場(約10分)のコース。

日本大通り                    横浜ベイブリッジ               インドの堂
    

「山下公園」
横浜港に面し、山下埠頭から大桟橋までの約1km・面積約7万4000m2の臨海公園。関東大震災復興事業の一環として被害地の瓦礫や焼土で埋め立て、
1930年開園された。中央の噴水池には、姉妹都市サン・ディエゴから送られた守護神像・童謡「かもめの水兵さん」など記念碑が点在する。

横浜を海から楽しむ「クルーズ船」・ペリーの黒船 来航をメインに横浜の産業と歴史が楽しめるクルーズが人気
    

「人形の家」山下公園東側の人形美術館、約120ヵ国・7000余りの人形を展示されている。童謡「青い目の人形」日米親善交流の人形がある。
赤い靴劇場もある。

   山下公園にあるマリンタワー
    

「中華街」は、中区山下町にある中華店街路、1859年横浜開港当時に徳川幕府が、中国人の移住地をこの地に定めたのが始まり。
現在約250軒の中華料理店が集中するグルメタウンである。

    

中華街メーン・ストリートの南に「関帝廟」がある。
旧正月の春節祭・10月の国慶節が中華街二大イベントとなる。


「関帝廟」
本殿は、中央に関羽を祭り、右側に小説「三国志演義」で養子の関平(史実では実子)、左側に同じく「演義」に登場する配下の武将周倉の二神を
それぞれ祭っている。
関羽は、信義や義侠心に厚い武将として名高くまた「演義」での普浄の逸話などから、民衆によって様々な伝承や信仰が産まれ、信仰を高め、
また後の王朝によって神格化されていった。
その関羽を祭ったほこらが関帝廟の始まりである。
関羽は、(塩湖で知られた解県の出身である為)塩の密売に関わっていたという民間伝承があり、義に厚いとされる事から商売の神として祭られた。
この事に起因して、そろばんの発明をしたという俗説。
世界中に華僑が散らばっていったときに、商売が繁盛する様にとその居住区に関帝廟を立てた。
そのため世界中の中華街などで関帝廟を見ることが出来ると云う。



「旧正月の春節祭」-中華街全域で春節祭が。
1~2月・2週間お祭りのイベントが続く、 初日は、採青と呼ばれる獅子舞があり、毎年大人気で多くの観光客が、新年の祝いの初日ですから、盛大に爆竹がなり、獅子は中華街のいくつかの通りから出て、街全域を練り歩きま­す。
中華街のお店は、店頭の高い場所に赤札、獅子舞がそれぞれのお店の商売繁盛や招福を祝い祈願し、赤­札(ご祝儀)をくわえて取る。
春節祭の2週間の間に、獅子舞、龍舞、雑技、パレードなど様々なイベントの催しがあり、またお店も期間中、­割引きや春節祭のおめでたい食事コース。
獅子舞の他に、龍舞・・・。

    

「10月国慶節祭」
中華街で10月1日、中国の建国記念日を祝う国慶節慶祝行事「国慶節」が。
国慶節も、獅子舞が中華街全域をねり歩く「慶祝獅子舞(採青)」や「慶祝パレード」などの祝賀イベントが盛大に行われる。
主催は横浜華僑総会と云う。
慶祝パレードは、華僑華人が中国獅子舞や中国民族衣装を披露しながら中華街をまわる。
ルートは西門通りを出発後、善隣門~中華街大通り~南門シルクロード~関帝廟通りを経て、ゴールの地久門、今年も同じと思う。

    

    台湾・中華料理 「好記園」| 元町・中華街ー右側がママさんです。
    



次回は、大倉山方面に。

池波正太郎と浅草

2015-03-16 | 気まま旅
都の東に流れる「隅田川」、秩父山地に源を発する「荒川」が、石神井川・神田川を合流させ、隅田川となり東京湾に注ぐ。1924年の大正13年
洪水調節のため「荒川放水路」が出来、北区の岩淵水門がら下流を「隅田川」と云うようになった。
平安時代は、墨田川・墨水・都川、、等で「墨田区」の名のもとになっている。
「大川」は、吾妻橋~下流浅草川・河口部を云う。両岸を墨堤・下流部を大川端ともよんだ。江戸時代は、運河が掘られ舟運が発達し混雑していたと云う。娯楽地域が発展し、文人墨客に親しまれた地域でもある。特に花見・川涼み・川開きの花火・屋形船・釣り・明治に入りボートレース・水泳場、、。
大戦後は、汚染騒ぎで公害問題になった。
「渡しと16橋」
江戸時代には、千住大橋・両国橋・新大橋・永代橋・吾妻橋の5橋。渡しは、汐入~勝鬨間18ヶ所。
関東大震災で白鬚・桜・言問・駒形・厩・蔵前・清洲・相生・佃大・勝鬨・尾竹で隅田16橋。架かる橋の形式もゲルバー・ローゼ・アーチ・箱など
水上バスで川から見るのも面白い。



推古天皇の時代、待乳山は、一夜にして地中より涌現、天から舞い降りてそれを護ったのが金色の龍。
その六年後の推古九年の601年、夏、十一面観世音菩薩の化身として現れた大聖歓喜天が早魃に苦しむ天下万民を救うことになる。
待乳山(古くは「真土山」とも書いたとある)の聖天信仰の歴史は浅草寺の縁起よりも古い。
大聖歓喜天は天部の神であるが、そのルーツはインドのガネーシャ神。密教の細部までは知らなくても、象頭人身の男天と女天が抱き合う姿には鮮烈なものがある。
金色の龍といい、この大聖歓喜天といい、イメージは伝説を色濃く染め上げ、その大聖歓喜天(秘仏)を祀った通称「待乳山聖天」は、
待乳山の頂上といっても現在小丘。東都随一の名勝とされ、北斎や広重が描いた景観は、今では難しい。

境内に、江戸初期の歌学者・「戸田茂睡の歌碑」
                    「あわれとは夕越えてゆく人もみよ
                            まつちの山に残すことの葉」

  

「池波 正太郎」1923ー1990、
戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」「真田太平記」など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表する傍ら、美食家・映画評論家としても著名であった。

1957-直木三十五賞・19778-吉川英治文学賞・1986-1988-菊池寛賞に。
正太郎は、大正12年、東京市浅草区聖天町に生れる。
父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭、母・鈴は浅草の錺職・今井教三の長女で、正太郎は長男。
関東大震災が起こり、両親とともに埼玉県浦和に引越し、6歳(1929年)まで同地で過ごす。
やがて、両親は東京に転居。正太郎は根岸小学校に入学。商売の思わしくなかった富治郎は近親の出資によって下谷上根岸で撞球場を開業。両親不和のためこの年に離婚している。

    

「本竜院・待乳山聖天」金竜山本竜院菜ある浅草寺の末寺・本尊ー歓喜天聖天・ー十一面観音(857年慈覚大師の作と云われる)
商売繁盛・夫婦和合の神様、浅草七福神(毘沙門天)

「円仁・慈覚大師」794 - 864、生地・下野国都賀郡、天台宗山門派、寺院ー立石寺、中尊寺、壬生寺、大慈寺、延暦寺その他全国に凡そ700箇寺といわれる。師ー広智、最澄、元政、義真 。著作ー「入唐求法巡礼行記」など。

    

境内の中のあちこちに見られる大根と巾着が、根の途中から二つに分かれている大根と巾着は「待乳山聖天」のシンボル。
体内の毒と煩悩を消す効果があるとして、大根を供えることは自らを洗い清めて頂く意味合いを持つと云う。
巾着は砂金袋を表しており、商売繁盛を願って、また、大根には身体を丈夫にし、二又が根元で引っ付くことから、良縁を成就させ夫婦仲良く末永く和合でいられますようにとの、願いが込められていと云う。

待乳は、真土とも書き、この辺り一帯は泥海だったが、ここだけが真の土であったことを由来とする説がある。

  

「戸田 茂睡」1629ー1706
江戸時代前期の歌学者。名は恭光。通称は茂右衛門。号は遺佚軒・不求橋・梨本など。
父は、徳川忠長の付人「渡辺忠」で、駿府城内で生まれ、忠長の改易に連座して配流(他家預かり処分)された父と共に下野国黒羽で過ごし、
その後江戸に出て、伯父戸田氏の養子となり三河国岡崎藩本多家に仕える。
その後は、浅草や本郷に隠棲し、余生は風雅を友とし、古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張。
下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となる。著書には、最初の江戸の地誌「紫の一本」、堂上歌学の因習を攻撃した「梨本集」のほか、
「御当代記」「百人一首雑談」「僻言調」「島の跡」などがある。

待乳山聖天(境内)    戸田茂睡の歌碑                     東京スカイツリーが、
    

「隅田公園」
東京湾に向かって、右岸の台東区浅草、同区花川戸、左岸の墨田区向島。
春には桜が満開になり、夏には隅田川花火大会が行われる。

隅田公園内には約700本の桜があり、日本さくら名所100選に選定されていて、毎年さくらまつりが開催される。
約1キロに渡る隅田川両岸の桜並木は、八代将軍徳川吉宗のはからいにより植えられ、江戸時代より花見シーズには多くの出店が列び賑わう。
子供の頃は、区立の隅田プールがあり、高台の飛び込み台もあり、泳ぎ終わって出ると必ず自転車売るアイスキャンデーを買うのが楽しみ。

桜橋                                           言問橋
  

「滝廉太郎」1879-1903 作曲家 東京 1898年東京音楽学校卒業
19歳でピアノの授業を受け持っている。文部省からドイツライブチ王立音楽院に入学、24歳で世を去っている。
「荒城の月」「箱根八里」など20曲を残している。

隅田公園・声楽曲「花」の碑
    

「市川団十郎(9代)」1838-1903 幕末-明治時代の歌舞伎役者。
7代市川団十郎の5男。6代河原崎権之助の養子となるが,明治7年実家にもどり9代を襲名。明治期を代表する役者で「劇聖」とよばれる。
演劇改良運動にとりくみ,活歴物という史劇を創始。新歌舞伎十八番を制定した。
66歳没。江戸出身。本名は堀越秀。初名は河原崎長十郎(初代)。前名は河原崎権十郎(初代),権之助(7代)。俳名は三升。屋号は成田屋。

雪の日の隅田に青く都鳥(子規)の碑                          助六歌碑」
    

江戸時代中期から浅草寺本堂裏手「奥山」には見世物小屋が多く、浅草寺の門前町として活況を呈している。天保の改革に伴って、中村・市村・河原崎
(後の守田)江戸芝居三座、娯楽の中心として栄える。
1873年の明治6年、浅草公園・上野公園・飛鳥山公園・芝公園・深川公園を江戸5公園に指定している。
浅草公園を一区観音堂・二区仲見世・三区伝法院・四区木馬館・五区花やしき・六区興行街と整理されている。中でも六区は大衆娯楽のメッカで
初の活動写真常設館「電気館」が出来ている。大正に入りオペラ・軽演劇・女剣劇などが続いた。

明治時代には、線路の上に車両をひいた馬が走る「馬車鉄道」が 運行したことも。
    

浅草七福神


浅草寺ー浅草観音は、聖観音宗総本山「金竜山浅草寺」と云う。
本坊は、伝法院。創建628年推古天皇時代、駒形の川底から1寸8分(5.5cm)の聖観音黄金像が漁師の網にかかり引き上げられた、村長「土師真中知」が自宅に安置し観音堂としたのが始まると云う。
現在の観音堂は昭和33年再建・雷門は35年・宝蔵門は39年・五重塔は48年に再建している。

境内での、ほうずき市・羽子板市・金竜ノ舞・白鷺の舞・花祭り、隣の浅草神社「三社祭り」5月は、東京三大祭りの一つ。

    

本坊の伝法院は、戦災からまぬがれ、寛永年間・小堀遠州作と伝わる庭園は見る価値がある。
浅草寺の雷門は、向かって左が雷神の像・右が風神の像が安置されている。
「浅草」は、東本願寺・ビューホテル[国際劇場跡)西浅草、国際通り・谷中、鶯谷言問通り・言問橋手前に馬道通り・雷門、吾妻橋が浅草通りで
浅草一丁目に仲見世、新仲見世・六区の演舞場辺りを浅草二丁目で占めている。

    

興行街の六区は、浅草の中心で全盛をきわめたが、映画の斜陽化と池袋・新宿・渋谷に押され演芸ホールを残すだけとなった。

    

今回で池袋~浅草コースの散歩は終わります。

樋口一葉と中嶋歌子

2015-03-14 | 気まま旅

「遊郭」
権力の統制と保護を受け、遊廓として1箇所に集められるのは、近世以降。
豊臣秀吉の治世に、遊廓を設けるため京の原三郎左衛門と林又一郎が願い出を秀吉にして、許可を得ていると云う。
今の大阪の道頓堀川北岸にも遊廓がつくられ、その5年後の 1589年には、京都、二条柳町に遊廓が作られた。
1589年に秀吉によって開かれた京都の柳原遊郭をもって遊郭の始まりとする説もあると云う。
大阪と京都の遊廓は17世紀前半に、それぞれ新町(新町遊廓)と朱雀野(島原遊廓)に移転した。
江戸に遊廓が誕生したのは慶長17年の1612年。
駿府(今の静岡市)の二丁町遊郭から遊女屋を移して日本橋人形町付近に遊廓がつくられた。これを吉原遊廓と呼んだ。
吉原遊廓は明暦の大火で焼失。その後浅草山谷付近に仮移転の後、浅草日本堤付近に移転。
人形町付近にあった当時のものを「元吉原」、日本堤付近に新設されたものを「新吉原」とも区別している。 

「浄閑寺」  
山号ー栄法山。浄土宗・本尊ー阿弥陀如来。創建年ー1655年。開山ー源空。別称ー投げ込み寺。
    

吉原遊廓の誕生は、1657年、浄閑寺は、2年早い。
投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震、1855年で、大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによると云う。
後、「病気などで死んだ遊女は吉原遊廓の場合、寺に「~売女」という戒名で文字通り投込まれた」という説もある。それを裏付ける資料は古文書には一切なく、「売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが最近の研究で明らかになっている。
この場合素裸にされた上に荒菰に包まれ、寺に投げ込まれ、人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とす、という考え。

江戸時代の遊廓は代表的な娯楽の場。上級の遊女(芸娼)は太夫や花魁などと呼ばれ、富裕な町人や、武家・公家を客とした。
このため上級の遊女は、芸事に秀で、文学などの教養が必要とされ、江戸中期以降は度々の取締りを受けながらも、遊廓以外の岡場所が盛んになった。
遊廓自体もの大衆化が進み、一般庶民が主な客層となっていったと云う。

  

「樋口一葉」 1872-96 多くの名作を残し、24歳で没す。小説家・東京・本名奈津

1883年池之端、私立青海学校・小学高等科第4級を首席で卒業している。歌人「中島歌子・萩の舎」に弟子入り、和歌・書道・古典を学ぶ。
針仕事で一家を支え、同門「田辺花圃・新進作家デビュ―」に刺激、生活の為小説を書く。
1892年「闇桜」を発表・出世作「うもれ木」、生活は苦しく、雑貨商の小店を開く、そこで、「たけくらべ」「にごりえ」
「十三夜」を書き続けた。24歳の若さで没した。

一葉は、本郷丸山横山町に転居し明治27年に、小説に専念され「大つごもり」を発表されてから代表作が続いていく。


「中島歌子」1845年、武蔵国入間郡森戸村(現・埼玉県坂戸市)に生まれ。
父・中島又衛門は農民ながら村名主であり豪商。母・福島いくの実家も江戸通いの船で商売をし、幕府御用達の豪商、「いく」は川越藩の奥に仕えていたこともあると云う。
歌子が生まれてほどなく江戸の牛込揚場町に移り住む。両親は小石川安藤坂の伝通門前にあった水戸藩御用達宿「池田屋」の加藤佐右衛門の夫婦養子になり、1850年代に家族で小石川の屋敷に居住するようになる。
父が水戸の「藤田東湖」らと交際があったことから、10歳から15歳まで水戸藩支藩の府中松平家の奥に仕えた。
18歳の時、恋い慕っていた水戸藩士・林忠左衛門と結婚し、水戸五軒町の林家に嫁入りした。江戸の豪商の嫁入りは、当時の水戸で話題になった程であったという。たが、1864年、天狗党の乱に加担した罪で夫が自害。歌子も連座して2か月間投獄される。
歌を水戸の国学者、林寰雄に学んでいたが、林が亡くなったため、1865年から「加藤千浪」に師事。
明治に入ってから歌塾「萩の舎」を小石川の自宅で開く。兄弟子の伊東佑命を通して、御歌所の長・高崎正風と知り合ったこと、また、両親の実家が水戸藩、川越藩と付き合いがあったことから、上流・中流家庭の多くの子女を門弟に抱えることができ、大いに繁栄したと云う。
1901年に日本女子大学が設立されると、和歌の教授に迎えられたが、病気のため辞退、三宅花圃が代わりに就任した。
1903年の明治36年、60歳で死去。郷里の兄とは不仲で、養子も居付かず、家族には恵まれなかったが、葬儀には200人が集まり、その列は三町にも達したという。両親の眠る谷中墓地に葬られている。
歌塾は閉じたが、元養女すみの三男廉が養子に入って家名を継いだ。

一葉の旧宅、千束の「見返り柳」は、遊び帰りの客がこの辺りで名残惜しく遊郭の方を振り返ったと云う。見返り柳は植え替えられて?。
    

「田辺花圃」は、姓は田邊、本名は龍子、竜子。花圃と号す。
本町馬場に住む旧幕臣で元老院議員の父・田邊太一、母・己巳子の長女に生まれる。
戸籍では10月5日生まれ。龍子は8歳で麹町小学校に入学したが、その後、跡見花蹊の跡見塾、桜井女学校、明治女学校と次々と学校を変わっており、最後に、森有礼の理想によって女子の最高学府として設立された一つ橋の東京高等女学校(現・お茶の水女子大学)専修科に入学、
明治22年(1889年)に卒業している。また、10歳の頃から和歌を学び、名家の令嬢たちが多く通っていた中島歌子の「萩の舎」に入るなどし、一方で、欧化教育により、洋装で洋書を読み、男女交際もし、馬車で舞踏会に行くような進歩的な環境の中で、多様な教養を身に着けたと云う。
明治19年、龍子の兄、次郎一(勤)が満20歳という若さで地中海において客死、翌年、龍子が風邪をひいて寝ていた時、母と執事の才八が、兄の一周忌法要を行う費用がないと言って嘆いているのを聞き、突然、「小説を書いて費用を作ろう」と思いつき、たまたま、坪内逍遥の「一読三嘆 当世書生気質」を読んで「これなら書ける」と一気に書いた作品が「藪の鶯」。
これが女性による初の近代小説。逍遥に校閲を頼むことができ、父の太一と金港堂の中根淑が知人であるという幸運に恵まれて、「藪の鶯」は明治21年に出版。女性初の小説は大変な好評を得て、翌年には再版、33円20銭を手にすることができ、兄の法要も無事に営むことができた。
龍子の成功により、若い女性が積極的に小説家を目指すようになっていき、その中に「樋口一葉」がいた。
一葉は「萩の舎」の後輩であったが、家長として一家を背負い、苦しい生活を強いられており、龍子同様、筆を以て立ちたいと思い、出版の斡旋も龍子に頼んでいたようであったと云う。
明治25年、龍子が関係していた雑誌「都の花」、新刊間近の「文学界」に一葉を紹介している。
同年には三宅雪嶺と結婚、夫を助け5人の子供を育てながら、小説、随筆を発表し続けた。
大正9年には、雪嶺とともに雑誌「女性日本人」を主幹、多くの論評を発表した。
昭和に入ると、文学界からは遠ざかり、昭和18年の1943年に没している。(享年76、墓所は青山霊園)

一葉の文学に大きな影響は、荒物駄菓子店・どん底に生きる人間、子供達などを鋭く観察と体験が
    

浅草龍泉寺から本郷までの道のりは、千束ー坂本・JR鶯谷ー根岸小学校(正岡子規庵)・寛永寺ー桜木町・谷中ー根津ー東大農学部(言問い通り)-本郷へ。
根岸から本郷の言問い通りは、多数の文人が往来している。樋口一葉・芥川龍之介・夏目漱石・正岡子規・谷崎潤一郎・永井荷風・・・。

近代以降、最初の職業女流作家。24年の生涯の中で、特に亡くなるまでの1年2ヶ月の期間に日本の近代文学史に残る。
  

一葉と和歌
「おちこちに梅の花さく様見れば いづこも同じ春かぜやふく(明治17年)」「大空もひとつにみえてわたつ海の みずの限りはしられざりけり」
「しのばずの池のおもひろくみゆる哉 うえのゝ岡に月はのぼりて 」「惜しみてもかひなかりけりいざさらば 風に木の葉はまかせてをみん」
「秋はたヾそのことゝなくみにしみて 色なき風も悲しかりけり」「咲きぬともしらで過ぎにし梅が香を さそひきにけり軒の春かぜ (明治20年)」
「思うどち分けし花のをしのぶ哉 よもぎが宿の萩のさかりに」「おもふどち雪まろげせしいにしへを 火をけのもとにしのぶけさ哉 (明治24年)」
「おもうことすこしもらさん友もがな うかれてみたき朧月よに」「とにかくにふみこゝろみん丸木橋 わたらで袖のくちはてんより (明治27年)」
「よの中をよこにのみはふかにながら 心は清きみずにこそすめ」「よの中は梢をつたふ山ざるの 身のかろきこそ安けかりけれ」
「打群れてあさるすゞめの鳴く音さへ 寒く聞ゆる冬のゝべ哉 (明治27年)」「月というつきの光もみえぬかな やみをやみとおもわざる身は」
「行水のうきなも何か木の葉舟 ながるるままにまかせてをみん」(一部、一葉祭の講演資料より抜粋)。

中嶋歌子の「萩の舎」時代・甲府出身の父則義(妻・多喜とは駆け落ち結婚)が入門させている。和歌を学ぶ。
    

「たけくらべ」1895~6年文学界発表、下谷竜泉・大音寺を舞台に、思春期も少女「美登利」の微妙な心理の動きを細やかに描いた小説。
「大音寺」は、竜泉寺に正覚山・大音寺がモデルに出てくるが、下谷竜泉寺町の中心で、この付近は、昔から「大音寺前」と呼んでいる地域。
大音寺は、松尾芭蕉弟子「宝井其角」の俳句にも出てくる。

吉原の廓に住む14歳の少女美登利と運命の 少年藤本信如との恋を中心に、東京の子供たちの生活を吉原を背景に描き出した作品。
    

「闇桜」16歳の千代の恋は叶わぬまま、桜は、はらはらと散っていく、、、、。
「十三夜」1895年発表。酷薄な夫にも、ただ耐える他はない、女主人公を通し、封建的な社会に生きる女性の悲惨を描いている。

「千束稲荷神社」と「たけくらべ」
夏祭りの夜、子供達の喧嘩をきっかけに物語は展開する。

千束稲荷神社ー樋口一葉の胸像と日記の自筆碑文が境内に建っている。神社の祭神倉稲魂命・1661年創建。
    

「にごりえ」1895年「文芸倶楽部」発表、東京丸山の酌婦「お力」の、愛を貫くことのできなかった悲劇を描いている。
「うもれ木」長く水中や土中に埋もれ木・完全には炭化せず木質を残している「うもれ木」
不遇の陶工・入江籟二・妹お蝶の暮らし、詐欺師を愛してしまうお蝶、、、、。

千束稲荷神社ー境内
  

「鷲神社」
浅草の「お酉さま」で知られている。祭神は、天之日鷲命・日本武尊の二神。

熊手は、「福」を、かっこむ・とりこむと云う縁起から


宝船・招き猫・千両箱等のおめでたい飾り物をつけた熊手
    

酉の市は、全国一の賑わいを誇っている。三ノ輪~言問い橋通り迄、屋台が続く。一葉の文学碑が
    

「西徳寺」1628年創建、
佛光寺門徒の聞法道場の一つとして江戸の金助町(現在の東京都文京区本郷付近)に建立されたと伝わる。
建立後50年の間に天和の大火など、江戸を襲った火災で焼け出されること三度、当時の住職・檀家の協議により、竜泉町に移転、1683年と云う。
徳川幕府時代、明治維新後も西徳寺は、発展を続けたが、1923年の関東地震により本堂が全壊。地震後に再建、建築としては画期的な形で寺院再建し、
現在に至る。

文化財ー木造阿弥陀如来立像・木造聖徳太子孝養像は、台東区指定。著名人墓所ー十七世中村勘三郎・十八世中村勘三郎(歌舞伎役者)
    

次回は、西浅草方面へ。

高尾山 薬王院の火渡り祭

2015-03-12 | 気まま旅

八王子・都南西部にある山「高尾山・薬王院の火渡り祭」に。
関東山地東端、中生代の堆積岩からなる高さ599mの高尾山。
「成田山新勝寺」・「平間寺川崎大師」とともに「関東三山」の一つされる「薬王院」があり、古くから山岳信仰が盛んである。
明治の森・高尾国定公園・1967年指定された。

           真言宗・山号ー高尾山 薬王院・有喜寺(747年行基開基)


社寺林・御料林・国有林として保護されて、自然林が良く残されている山。高尾は温暖帯から冷温帯への推移地点であり、南斜面にはカシル類の
常緑広葉樹林が、北斜面はブナなどの落葉広葉樹林がある。
山頂には7本の「自然研究路自然歩道」の起点でよく歩く山である。
古仏峠・陣馬山~相模湖コースなどで、ここ10年は、歩いていない。ケーブルカー・リフトで新宿方面の夜景も楽しめると聞く。

            天狗伝説の高尾山修験根本道場 薬王院


「高尾山・薬王院ー火渡り祭」、恒例、年一回・3月第二日曜日。

高尾山御本尊飯縄大権現の衆生救済の御誓願に基づき、真言密教加持の極致である御護摩(浄火により災厄を祓う火の行)を修行することにより、世界平和、息災延命、災厄消除、交通安全、身上安全等を祈念するもので、これを修行する行者は、心身修練の功を積んだ高尾山の山伏。
参拝のご信徒並びに有縁の方々は、この行事に参加することがすでに本尊の無量の法益に浴することであり、且つ火渡りをされる方々は、更にその身の災厄を祓う功徳もいただける、、、、。

2015年3月8日(日)予定通り午後1時から、高尾山口駅・国道20号線沿い空き地で行われ、外人観光客などで賑わった。

      JR中央線・京王高尾線が乗り入れ、人気の山 高尾山(599m)~陣馬山         


「撫で木札」
御本尊飯縄大権現様の御手と云われ、氏名・年齢をお札に記入し、様々なお願い事の祈りを込めて高尾山火渡り祭の柴燈大護摩供の護摩木として火中に投じ、その願いを成就させる霊験あらたかな御札を云う。
お身体に病を生じている場合には、撫で木でその患部をなでさする事により、御本尊様よりお加持を賜わり、病魔を滅するご加護を、、、。

          3月第二日曜に行われる薬王院の火渡り祭り


山伏が梵天札の差さった御輿を担ぎ燃えさかる炎のまわりを、御加持して歩き、御信徒様の厄災を除き、1年間の家庭の安全を祈念。
火伏(ひぶせ)の御札として、、、、。

         交通安全・家内安全・・・を祈祷する神事


「高尾山薬王院・有喜寺」
今から1260余年前の744年、聖武天皇の勅令により東国鎮守の祈願寺として、高僧行基菩薩により開山。
薬王院の名は創建当初、薬師如来をご本尊とした事に由来。
現在は真言宗智山派の大本山として「成田山新勝寺」「川崎大師平間寺」「高尾山薬王院」が三大本山として知られている。

南北朝時代の1375年、京都醍醐山より俊源大徳が入山し八千枚の護摩供養秘法の後、今のご本尊「飯縄大権現」を奉祀し中興され、戦国期、
飯縄大権現は戦国武将の守護神として崇敬され、上杉謙信や武田信玄の兜表にも奉られ、また北条家の手厚い保護も受け江戸期に入ると
徳川家(特に紀州家)との仏縁により隆盛をむかえる。
古来、高尾山は修験道のお山といわれ、修験道を修める人のことを山に臥し野に臥しながら修行することから「山伏」と呼ぶ。
高尾山には、今もなお「琵琶滝」と「蛇滝」の二つの滝を擁し、滝修業の道場として、一般の方にも門戸を開いていると云う。

            薬王院本尊ー薬師如来 1400年以降真言密教・修験霊場
    

「天狗様」
飯縄大権現様の眷属(随身)として、除災開運、災厄消除、招福万来など、衆生救済の利益を施す力を持ち、古来より神通力をもつとされ、
多くの天狗伝説や天狗信仰があり、神格化されている。
高尾山は、飯縄信仰と共に天狗信仰の霊山としても知られ、高尾山は修験道根本道場としても知られている。
山伏修行が随時行われ、昔は山伏が深山幽谷に籠もって難行苦行を重ね、やがて高尾山の霊気と融合して、呪力、験力を体得して大先達と、、、。

          智山派大本山薬王院「有喜寺」として信仰を集めている


「天狗焼・天狗煎」「天狗黒豆饅頭」が名物に。

         仁王門・本堂の護摩堂・奥の院・不動堂等文化財も多い


「高尾山と富士山信仰」
山頂を過ぎて紅葉台、一丁平に至る手前南側に「富士見台」と呼ばれる小さな頂があり、かつてここに一つの御堂が構えられ、
拝殿の奥の扉が開かれると御神体の富士山が一幅の絵のように拝されたという。
今日でも奥之院から山頂に向かう道筋を「富士道」と言い習わしていると云う。
往時は、この道筋を白装束の富士道者の一行がチリン、チリンと腰の鈴を鳴らしながら賑やかに行き交うのが夏の風物詩であったとある。

              山中で「水の行」も行われる


「高尾山行事」
滝びらき 4月1日(水) 清滝・琵琶滝・蛇滝    花まつり 4月8日(水) 仏舎利塔     春季大祭(稚児練行) 4月19日(日) 薬王院
高尾山天狗まつり 5月18日(月) 薬王院       信徒峰中修行会(夏) 6月6日~7日(土・日) 薬王院・ 一泊二日
納札供養柴燈大護摩供 6月19日(金) 自動車祈祷殿広場 と続く。

                 信者は、火の上を素足で歩く
    

                     外人観光客が多い           
    

                祭りから、春もそこまで来ているのであろう。
   

             高尾山ケーブルカーは、日本一の急勾配(31度18分)
    
                   高尾山頂から見た新宿方面


「高尾・氷川神社」-高尾総鎮守・京王線・高尾山口駅前に鎮座
祭神 素戔嗚尊・1394-1428年、に片倉城主毛利師親が武蔵一宮氷川神社より勧請という。 昭和27年に社殿再建。
8月の第3日曜日には獅子舞が奉納される。
氷川神社参道上に昭和41年に京王線が乗り入れしており、その際に京王の土地取得謝意もあり大鳥居が建立された。
平成13年に崩落の危険性があったために撤去し平成17年に半永久的耐久性を期した強化プラスチックにて大鳥居を再建立している。

    

「片倉城」
応永年間、「大江備中守師親」が在城していたとされるが、誤伝であると。
武蔵横山党の横山氏の居城であったものが、1213年、に横山時兼は和田義盛の乱に加担して討ち死に、この地は大江広元に与えられ、
大江広元の次男時広を祖とする長井氏が居城とし、戦国前期には、扇谷上杉氏の配下となった。
1504年、の武蔵立河原合戦において、山内・扇谷の両上杉氏が戦った際に、扇谷上杉氏方の長井八郎が山内上杉氏に捕縛されているが、
この時捕らえられた「椚田塁」を片倉城と比定する見方もある(初沢城であるという説もある)。
その後の片倉城については記録がない。
おそらく滝山城・八王子城の支城として、繋ぎの城・烽火中継点として北条氏により接収されたものと思われる。
歴史的には不明な点が多い城で、当時の情勢から考えて、在地土豪の居城だったものが、北条氏の支城に組み入れられて、滝山・八王子の支城。
(4月上旬頃掲載予定)
片倉城後は、全体的に古臭い間取りの城で、深大寺城と雰囲気が似ていると云う。
北条氏侵出以前の扇谷上杉氏あたりの色彩が濃い印象と云う。「新編武蔵国風土記稿」より。

高尾と云えば「そば」、昼食に、とろろそばと天丼を。

次回は、下町に戻ります。