syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

王子神社 名主の滝

2015-03-10 | 気まま旅
「王子と紙」
「王子製紙」の社名の由来は、東京の王子で創業し、国内(内地)各地のみならず朝鮮や樺太へと 進出。
富士製紙・樺太工業などとの合併を繰り返して国内市場8割以上を握る巨大製紙 会社へと発展していった。
その規模から「大王子製紙」と称された企業。

紙の原料は、洋紙では木材と古紙がほとんどを占め,木材が紙の原料となったのは19世紀後半からで、それより前は非木材植物原料が主流だったと云う。
近年では製紙による森林伐採を抑制する観点から、ケナフ、サトウキビ、タケなどの非木材植物が注目。
紙の原料である植物繊維は、セルロースが主成分である。植物繊維細胞壁の成分を細分するとセルロース・ヘミセルロース・リグニンの分けられる。
セルロースが骨格を、ヘミセルロースが接続を、リグニンが空隙充填を担う。
セルロースは、水素結合によって結びつく性質がある。紙を構成する繊維がくっつき合うのは、主にこうした水素結合のため、水素結合は水が入るとすぐ切れるため、防水加工していない紙は水濡れに弱いと云う。
直径100マイクロメートル以下の細長い繊維状であれば、鉱物、金属、動物由来の物質、または合成樹脂など、ほぼあらゆる種類の原料を用いて作ることができ不織布は紙の一種として分類されることもあるが、一般には、紙は植物繊維を原料にしているものを指す。
紙の用途は様々で、原初の紙は単純に包むための包装用に使われ、やがて筆記可能な紙が開発され、パピルスや羊皮紙またはシュロ・木簡・貝葉などに取って代わり情報の記録・伝達を担う媒体など。
製法に工夫がこらされ、日本では和紙の技術確立とともに発展し、江戸時代には襖や和傘、提灯・扇子など建築・工芸材料にも用途を広げ、西洋では工業的な量産化が進行し、木材から直接原料を得てパルプを製造する技術が確立されたていった。
19世紀に入るとイギリスでフルート(段)をつけた紙が販売され、瓶やガラス製品の包装用途を通じて段ボールが開発、クラフト紙袋など高機能化が施され、包装用としての分野を広げ現在に至っている。(紙の博物館)

飛鳥山公園を後に「名主の滝」方面へ歩く。

音無親水公園は,江戸時代から音無川と呼ばれ行楽の名所。
石神井川を整備し、緑とせせらぎを楽しめる空間として昭和63年、公園。(日本の都市公園100選に一つ」
音無の名前の由来は、八代将軍吉宗が紀州の音無川にちなんで命名したとも云われている。
徳川吉宗が川沿いに100本の紅葉を植え、飛鳥山に桜を植えた。
弁天の滝、不動の滝、大滝と、名勝であった。「音無川の水でいれたお茶は、美味しかったと伝った」と云う。

本郷通りをそのまま直進すると「音無橋」を渡る。今は「親水公園」、右手は、東京10社北方守護「王子神社」。
    

飛鳥山に沿ってJR王子駅があり、その間に音無川流れていた。JRガードを潜ると都電荒川線・地下鉄南北線・北本通りに出る。
音無川は,石神井川から王子の滝(音無橋下流にあった滝)付近で分岐し、飛鳥山の東を流れ、日暮里、根岸、三ノ輪、思川、山谷堀(日本堤)、今戸
隅田川に流れていた。
    

「王子神社」北区王子本町に鎮座。(旧称王子権現。この一帯の「王子」という地名の由来)
創建年月日不詳・1322年 当地の領主豊島氏が社殿を再興し、熊野新宮の浜王子より「若一王子宮」を改めて勧請・奉斎、王子神社となる。
明治初期 准勅祭社に指定。昭和20年 戦災で社殿を焼失。昭和39年)、昭和57年、二回の造営を経て社殿を再建。

御神徳ー開運厄除・子育大願。
    

「春日局」 1579-1643 三代将軍徳川家光の乳母・明智光秀の重臣斉藤利光の娘・稲田正成に嫁ぎ4男、離婚・26歳で乳母・大奥の実力者。

江戸時代、春日局は、王子神社に祈願し、家光の将軍就任が叶えられたことで、「子育大願」の神社で知られている。
特に七五三の御神徳で賑わう。
戦国時代の小田原北条氏の崇敬し朱印状を寄せている。徳川家康公は、1591年200石寄進し「王子権現」の呼称で江戸名所の一つ。特に吉宗は、
紀州ゆかりの神社、飛鳥山に桜を植え庶民遊楽の地としている。
                       拝殿
  

田楽舞ー8月の例大祭には北区無形民俗文化財に指定されている「王子神社の田楽舞」が奉納。
攝末社・関神社ー主祭神 蝉丸公(神霊) 逆髪姫(神霊) 古屋美女(神霊)

蝉丸公は、延喜帝の第四皇子、髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君「逆髪姫」のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」、「髪の祖神」と崇敬を集めていて、「関蝉丸神社」として、滋賀県大津の逢坂山に祀られている、
その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代に奉斎された。
1945年 戦災により社殿焼失・1959年 全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の浄財により再建した。

8月上旬例大祭「槍祭」槍の形をした「御槍」のお守り・2年一度の本祭神輿数10基・12月6日の熊手市
      

「王子稲荷の坂」
坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前が。
江戸時代には、この坂を登ると日光御成道があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道があり、姥ヶ橋を経て、蓮沼村(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道につながって、この道が「稲荷道」。
中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていた。

            急な坂道、中間に稲荷神社の石鳥居
 

大晦日の夜、王子は幻想的な光景に包まれ,面をかぶったり、メイクをほどこし、「きつね」に扮した人たちが王子装束稲荷神社に集まり、行列を成して大勢の見物に囲まれながら練り歩き王子稲荷へ参詣する一大イベント「きつねの行列」が。
「毎年大晦日になると、関東一円から狐が集まり装束を整えて、王子稲荷にお参りした」そんな昔の言い伝えを、今に残そうと。

                       拝殿
  

「名主の滝公園」-子供の頃、ヨツデを持って遊んだ公園
江戸時代、王子村の名主「畑野孫八」が屋敷内に滝を開き、茶を栽培して避暑のために一般に開放したのが始まりで、「名主」はそこに由来。
明治中期には貿易商「垣内徳三郎」の所有となり、栃木の塩原の風景を模して庭石を入れ、ヤマモミジなどを植栽、渓流をつくり一般に供した。
昭和13年には、「株式会社精養軒」が買収し食堂やプールなどを営業していたが、戦災で焼失。その後は荒れ果てていたが、都が土地の買収と橋や東屋などの修理を進め、昭和35年に都の有料公園として開園した。昭和50年、区に移管。
園内は回遊式の庭園となっており、男滝、女滝、独鈷の滝、湧玉の滝の4つの滝が復元。
滝は、地下水をポンプで汲み上げて水を流しており、滝から流れた水は小川となって園内を巡り大小の池に注いでいる。
一時、園内に人工飼育し放流されたヘイケボタルが自生していることが確認。

石神井川とその支流には、「王子七滝」-名主の滝・稲荷の滝・権現の滝・大工の滝・見晴の滝・不動の 滝・弁天の滝が
  

整備は明治の中頃。傾斜地を利用した庭園なのですが、規模も相当あり、傾斜に延びる散策道を歩いていると、うっそうとした森。
王子は武蔵野台地の突端で、元々滝が多く、「王子七滝」と呼ばれる滝があった。
落差8メートルの滝ほか、そのいくつかがここに残っている。

現存する滝が「名主の滝」ですが、ここも現在は湧水が枯渇して、深さ180mの 井戸からポンプで揚水していると云う。
    

広重の浮世絵に描かれた王子界隈の音無川流域は、飛鳥山と王子の台地にはさまれた渓谷で、両岸の断崖からは幾筋もの滝が形成されていたと思う。
「王子五滝」「王子七滝」と言われたように滝が多く、音無川に滔々と流れ落ち水量も豊富だったようで。
昔は、ここ王子の「独立行政法人 酒類総合研究所」( 赤レンガ酒造工場が重要文化財に指定)があった所。
現在の旧醸造試験所第一工場には、全国の新酒が集められ検定されていたとこれである。。

飛鳥山の桜と云い、音無橋親水公園・王子神社など緑が多いが、音無川は、今無く、水豊であった「名主の滝」も私には、寂しく感じた。
    

王子の「不動の滝」は有名で、広重が残した浮世絵中最大の滝である。
滝近くの褌姿の男、これがまさしく滝浴みをしている光景であると云う。滝を眺めている二人連れの女性、茶屋も出て老婆が客に給仕をしている様子。
心地よい滝の音や飛沫を感じながら、一時の清涼感につつまれ、滝浴みをしている。

元首相田中角栄が夜学で学んだ工学校の校舎が分散していた。
    

明治44年、王子電気鉄道(株)として、昭和17年に陸上交通事業調整法に基づき、東京市電気局が王子電気鉄道(株)を統合し、「市電」となり、
昭和18年には、都制施行により「都電」の名称が、都内の大衆輸送の花形だった都電も、昭和30年代から始まった自動車の増大などで、輸送効率が著しく低下し経営は極度に悪化。このため、都は、都電撤去にふみきり、昭和42年~47年にかけて、35路線を廃止。
荒川電車営業所の27系統(三ノ輪橋~赤羽)と32系統(荒川車庫前~早稲田)も廃止予定でした。しかし、この2線路は、
1.大部分が専用軌道で、
2.他に代替交通機関がなく、
3.沿線住民の強い存続希望があったため、27系統のうち、王子駅前~赤羽以外は存続することになりました。
昭和49年に27系統と32系統を1本化し、三ノ輪橋~早稲田を走る荒川線と名称を変えました。
バラの咲き誇る三ノ輪橋停留所が「関東の駅100選」に選ばれた。(パンフレットより)

専用路を走る荒川線                        終点三ノ輪駅
    

「石川屋敷跡・ 伊勢亀山藩主石川日向守屋敷」
三の輪一帯(現在のジョイフル三の輪)あたりにあって、総坪数11040坪(約36400m2)にも及ぶ広さであったと云う。
1658年、主殿頭憲之の時に、三河島・三ノ輪・小塚原3か村のうち10530坪(約34700m2)の地を拝領し下屋敷を増築。
寛文5年の1665年、三河島村重右衛門の所有地518坪(約1700平方m2)を買上げ、屋敷・庭園を増築。

現在、荒川区立瑞光公園に屋敷


「対馬府中藩」
江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、
別名厳原藩。
「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。
藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、官位は従四位下を与えられ、
官職は主に対馬守・侍従を称した。

「音無川」は、王子ー日暮里ー根岸ー三ノ輪ー日本堤ー浅草山谷ー隅田川へ。

三ノ輪は、下屋敷ー26700m2
    

次回は、三ノ輪から旧国際通り(旧竜泉寺)樋口一葉館方面を。

飛鳥山 古墳と博物館

2015-03-07 | 気まま旅
吉野桜-奈良県中央部・吉野郡吉野町にある吉野川南岸から大峰山脈へと南北に続く約8kmに及ぶ尾根続きの山稜の総称を云う。
吉野桜に劣らない「桜の名所」、私の子供の頃の王子へよく出掛けた。
また王子は、「名主の滝」「飛鳥山の千本桜と夜桜」「太田道灌・徳川吉宗鷹狩り」「昔は、カワラ投げの出来る山」「トロリーバスと都電荒川線」
駅は、本郷通りであったように記憶している。
公園は、明治6年に定められた我が国最初の公園の一つで、浅草・上野・芝・深川・飛鳥山が「東京市5大公園」であった。

このあたりは、古墳・遺跡が多く、縄文時代、弥生時代の人々の生活の跡が発見されている。
飛鳥山という地名は、鎌倉時代末の1321~24年に、豊島佐衛門が紀州熊野の飛鳥明神と若一王子社(後の王子神社)を遷したところからと云う。
昔、この丘の地主山(昔展望台があった所)には、飛鳥明神の祠が祀られていたとも云う。
八代将軍吉宗は鷹狩りの際に、良く、飛鳥山を訪れ、1720年から翌年にかけて1270本の山桜の苗木を植裁したと云う。
1737年には、この地を王子権現社(現在の王子神社)に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せ、飛鳥山を江戸庶民にも開放された。
飛鳥山のお花見は、向島とともに仮装が許されていたので、たいへんな賑わいと云う。
東側の崖からは“カワラケ投げ(土皿を風に乗せて遠くまで飛ばす遊び)も盛んに行われていたが、明治の末になって、危険防止の為に禁止に。

徳川吉宗が1720年桜の苗木を          筑波山が               六石坂
    
             1737年吉宗は、庶民に一般解放・お茶屋も許可している


飛鳥山公園内にある石碑。この碑文は吉宗が飛鳥山を公共園地として整備し、王子権現に寄進したことを記念して成島道筑によって作成されたもので、尾張の医者山田宗純の書。碑文には熊野の神々のことや、元享年間に豊島氏が王子権現を勧請したことから、王子・飛鳥山・音無川の地名の由来などが記されている。しかし、異体字や古字を用いたり、石材の傷を避けて文字を斜めにするなど、難解な碑文であり、
 「飛鳥山何と読んだか拝むなり」
 「この花を折るなどろうと石碑みる」
など川柳に読まれたほど、江戸時代から難解な碑文として知られていたそうです

1737年「飛鳥山の碑」(読めない碑)・1881年「桜賦の碑」(佐久間象山の書、門弟勝海舟の意で碑に)
    

安政3年5月改印の絵が続く。絵本江戸土産の4編に、飛鳥山という題の絵があるが、富士山や飛鳥山の碑があることから、西向きを描いた絵であることがわかり、筑波山が見えるこの絵は北向きであることから、方向がことなる。一方、江戸土産の中の「道灌山」という絵があり、特に土器(かわらけ)投げをしている親子がそっくりである。
広重は、江戸土産の2つの絵の要素を組み合わせることで、この絵を完成させたうだ。

1899年農業技師・船津伝次平顕彰の碑もある(大久保利通の招きで)  飛鳥山近辺の遺跡等は貴重な史料と云う


豊島氏は平安時代から続く南武蔵の名族で、石神井城(東京都練馬区)を本拠としていた。室町時代には関東管領上杉氏に属している。
江戸時代の系図類で祖父とされる豊島宣泰(勘解由左衛門尉)と父とされる経祐(新次郎)が文明3年(1471年)に関東管領上杉顕定から上野国館林城攻撃で奮戦したことを賞する感状が残っており、泰経の史料上の活動時期(文明9年(1477年)から文明10年(1478年))と非常に近いことから、これは泰経(勘解由左衛門尉)とその弟の泰明(平右衛門尉)ではないかという見方もある。
関東管領上杉顕定(山内上杉家)の有力家臣である長尾景春は家宰職を奪われたことを深く恨み、文明8年(1476年)に反乱をおこし、文明9年(1477年)正月に顕定の在陣する五十子の陣を襲って敗走せしめた(長尾景春の乱)。
長尾景春の挙兵に相模国、武蔵国の国人が呼応し、上杉氏を危機に陥れた。妻が長尾景春と兄弟である泰経もこれに与同する。泰経の本拠石神井城(東京都練馬区)の近くに扇谷上杉家家宰の太田道灌が江戸城(東京都千代田区)を築城しており、このことが豊島氏の権益を侵して太田氏との対立になったと考えられている。また、景春の白井長尾家は二代続けて山内家家宰職を出しており、豊島氏は白井長尾家の指揮下にあったという説もある.

飛鳥山は武蔵野台地本郷台の東縁が石神井川(音無川/王子川)による侵食によって形成された舌状台地で、これ迄の発掘調査から、縄文時代の住居跡、弥生時代末頃の環濠集落跡、古墳時代前期~後期にかけての集落跡や方形周溝墓等が検出されている他、公園南方の財務省印刷局滝野川工場からJR京浜東北線上中里駅、地下鉄南北線西ヶ原駅付近にかけて律令期の豊島郡衙跡が検出されており、先史時代から中世にかけての複合遺跡として注目されています。
江戸時代の地誌、『新編武蔵風土記稿』王子村の王子権現社(現在の王子神社)社宝の条に、「古刀一腰 近キ年飛鳥山ヨリ掘得タリト云。古代ノ制ナリ。若クハ、明器ニ埋ヨシモノニヤトイヘリ。図右ノ如シ。」と、飛鳥山出土の直刀を図と共に紹介しています。

飛鳥山出土古刀の図
「長二尺一寸五分」とあるので、凡そ65cmになる。

これは飛鳥山古墳群の古墳の副葬品である可能性が高いでしょう。今でも王子神社に残っているのかどうか気になる所です。
こうした記録があり、現存する古墳が存在していたにも関わらず、飛鳥山に古墳が存在することは近年迄忘れられておりましたが、1971年に台地の西北端の「地主山」と呼ばれるマウンド状の地形が古墳ではないかと考えられ、発掘調査が行われました。その結果、マウンド中央部で粘土や焼土が検出されましたが、古墳の埋葬施設とは考えにくく、「地主山」が古墳か否か疑問を残すこととなりました。
続いて1989年に旧青少年センター裏手に当たる旧渋沢邸庭園内の塚状の高まりが古墳ではないかとされ、発掘調査されました。その結果、周溝と須恵器の破片が検出され、古墳時代後期の径31mの円墳と判明。「飛鳥山1号墳」と命名されました。平成5年の調査では切石積みの胴張を有する横穴式石室の残骸が発見されると共に、太刀や刀子の破片、鉄鏃、耳環、管玉、切小玉、ガラス小玉といった副葬品が出土し、これらの特徴から7世紀台築造の円墳であろうとされています

最近の調査では別地点から更に円墳の周溝跡(飛鳥山2号、3号墳)が検出された他、旧渋沢邸庭園内の四阿の土台となっている築山も古墳を流用したものではないかと推定されており、飛鳥山の台地上には円墳を主体とする古墳群が形成されていたものと考えられています。また、1937年に現在の噴水広場付近の崖面から工事中に人骨や牡蠣殻が見つかった事があり、高塚古墳ばかりでなく横穴墓の存在も推定されている。

付近の既知の古墳としては、石神井川対岸の台地上に所在する王子稲荷裏古墳、飛鳥山西方の滝野川地区のいずれも円墳と推定される滝野川古墳と四本木稲荷古墳が知られている

縄文時代の住居跡、弥生時代末頃の環濠集落跡、古墳時代前期~後期にかけての集落跡や方形周溝墓等が検出・公園南方へ。
  

「西ヶ原貝塚」
古河庭園・飛鳥山の武蔵野台地東緑と谷川低地部に挟まれた海抜22mにある。その低地に向かう埋没谷東西約150m・南北約180m。その西側は
縄文時代中期で住居跡が確認されていると云う。東側貝塚では、縄文後期で中小規模の貝塚が累積されている。保存状態も良いと云う。

「中里遺跡出土丸木舟」
武蔵野台地崖下に、広い低地に遺跡が、縄文時代の前期の丸木舟と大量の貝塚が出土している。

                      可なり進歩していたのでは?
  

吉宗はこの地に桜1270本を植え、士農工商を問わず広く江戸の人びとに開放しました。
時の町奉行、大賀越前が音無川の川岸に水茶屋を建てることを許可したことも手伝って、飛鳥山は一躍桜の名所となる。

樹齢の大木が            明治・大正の美しい上品な女性たち
    

桜の名所として有名な公園。徳川8代将軍吉宗は、綱吉以来禁止されいた鷹狩りを復活し、鷹狩りの際にしばしば飛鳥山を訪れていたが、この地が自分の出身地の紀州にゆかりがある事を知り、享保5年(1720)から翌年にかけて千270本の山桜の苗木を植裁した。元文2年(1737)には、旗本の領地だったこの地を返還させ、王子権現社(現在の王子神社)に寄進し、別当金輪寺にその管理を任せた。
吉宗は享保の改革の施策のひとつとして、江戸っ子たちの行楽の地とするため、飛鳥山を桜の名所にしたのである。
当時桜の名所といえば上野だったが、そこは武家中心の場所で、「酒宴」や「仮装」は禁止されていた。それに対して、飛鳥山は向島とともに庶民に開放されており、仮装した人たちによるにぎやかな花見が行われた。江戸の新
しい花見の名所として誕生した飛鳥山では、江戸っ子たちは様々な趣向を凝らして楽しんだ。落語「花見の仇討ち」の舞台がこの飛鳥山公園である。

      1941年製造D51蒸気機関車・1949年6000形電車、この近辺のイメージは「都電」
    

「町奉行大賀越前」
3代将軍家光の寛永8年(1631)10月に、加賀爪民部少輔忠澄を北・町奉行に、堀民部少輔直之を南・町奉行に任じた。
この時から役宅を作って月番(隔月交替)で執務させたのが、江戸町奉行の始まりである。
享保年代以降の南町奉行所は大岡越前守が設計したものであり、「大岡越前守御役屋敷絵図」によると、その概要は、総坪数2,617坪、建坪1,809坪(この内、役所向き375坪、住居向き157坪)とあり、この大岡の設計は基本的にそのまま幕末の慶応4年(1868)まで踏襲されたという。
その時代この辺りを「大賀郷」で、町奉行所の別称であろう?。
町奉行の政務を執るところを町奉行所というが、これらは役職上からいう言葉で、江戸時代の人々は多くは御番所、または御役所といった。
町人達が町奉行所というのはおかしいことで、御番所、御役所と通称しており、町奉行などとは言わずに御奉行・御奉行様などといった。
御歩業・御奉行様ということは町奉行に限ったことで、寺社奉行・勘定奉行の意は含まれない。
町民にとっては、かかわりのある奉行とは町奉行だけであったと云う。

飛鳥山には三つの博物館がある。北区飛鳥山博物館・渋沢史料館・紙の博物館
「渋沢栄一」 1840-1931 明治・大正の実業家でリーダー(前回の埼玉、深谷、大里郡で取り上げています)
1867年「徳川慶喜の弟・昭武」に随行し、パリ万博覧会に、そこで、各国の近代的産業設備や経済制度を見聞、我が国の近代産業の推進する上で役立ったと云う。日本最初の「合本組織・株式会社」大蔵省租税司を退官後実業家に専念、王子製紙・東京瓦斯、、500社余の会社を設立。

渋沢史料館・旧庭園                                  博物館
    

ナポレオン三世の開くフランス・パリ世界大博覧会に徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行。
ヨーロッパ滞在中、洋装に変えている。「議会・商取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道・・」見学し、進んだ文明に驚き、人間平等主義など
感銘を受けたとある。

渋沢史料館(庭園)    飛鳥山別荘                晩年本邸を構えていた
    

栄一は、倒幕を「侍が威張るのは、幕政悪し、階級制度が間違い」と反発し、「高崎城」乗っ取り、徳川幕府打倒計画に、が、10歳年上長高の弟
長七郎の京都での見聞で反対し中止している。
24歳で栄一は従兄弟の喜作と世の情勢を探るため京都へ、1864年、そこで一橋家の重臣「平岡円四郎」の勧めで15代将軍徳川慶喜に仕官する。
歩兵の募集・財政の改革・事業運営などを行い頭角を現したと云う。

渋沢史料館(庭園)               東京大空襲で大部分焼失
    

栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、父から学び、7歳で尾高惇忠に習う、栄一が通った道を「論語の道」と呼ばれている。又その周辺を「論語の里」
呼んでいる。母「えい」の影響大で、人に対し「慈悲」を大事にしている。
社会福祉活動に熱心で、1874年「東京市養育院」・「孤児院」など、56年間も関わり続けている。教育でも、「現一橋大学・日本女子大・慈恵医大
聖路加国際病院・日本結核予防協会、、」設立・運営に関わっている。

渋沢史料館(庭園)          晩香盧・青淵文庫・暖依村荘跡庭園等は大正時代の建物
    

栄一と世界文化遺産・富岡製糸所
殖産興業推進の明治政府は、明治3年、外貨獲得の為「模範的洋式製糸工場」の建設を計画、栄一主導のもと、尾高惇忠を創立責任者に任命、フランスの
技師ポール・ブリュナを建築技術者に迎えている。明治5年完成させている。

渋沢史料館          (前回の埼玉シリーズ深谷をご覧ください・レンガ工場等)
  

「北区飛鳥山博物館」
三つの博物館の真ん中にある。北区の郷土博物館。
常設展示は、1つの象徴展示(豊島郡衙の正倉の復元)、13の時代別に分類したテーマ展示。
荒川の生態系を取り上げた展示により構成されている。企画展示、春と秋の年2回。スポット展示も、(浮世絵にみる北区の近代)

区博物館
    

区博物館
    

区博物館
  

吉野桜は20年ほどで立派な花が咲くことから比較的早く成木になり、花見の名所をあまり年月をかけずに整えるには有力な桜であった。
享保5年(1720年)から植えられ、享保18年(1733年)に花が咲き初め、元文2年(1737年)吉宗自身がこの地で花見を行っている。
ちなみに現在の桜の代名詞である染井吉野は10年ほどで成木になるのでさらに早い。ただ老木になるのも早かった。
「江戸を知る事典」によると、「寛政年間以降は、ほとんど放置されたままだったので、桜の木は多くが枯れてしまい、わずかとなってしまったという」とある。
江戸名所図会を見ても桜はまばらで、墨堤などと比べると貧弱であった。しかしその後も桜の名所には変わらなかった。

紙の博物館
    

江戸時代中頃から、日暮里・道灌山・駒込・飛鳥山・王子にかけては、江戸近郊の一大行楽地・観光地であった。
徳川家康が王子権現を崇拝・保護し、更に徳川吉宗は郷里の「熊野権現信仰」である王子権現に特別な感情を持っていた。王子神社から石神井川沿いに、紀州の地名を冠して、王子・滝野川一帯を江戸市民の観光地とした。春は飛鳥山の桜、秋は滝野川の紅葉が有名になった。上野の桜は、寛永寺境内にあったため、花見の宴は許されていなかった。
そこで吉宗は、自ら飛鳥山に赴き花見の宴会を催した。「公方様にあやかれ」と、一般庶民もどっと飛鳥山へ押し寄せるようになり、飛鳥山の花見は、以来今日までずっと続いている。

紙の博物館
    

次回は、王子神社・稲荷神社・名主の滝へ。

真鶴岬の突端は!

2015-03-05 | 気まま旅

相模湾に突き出した真鶴半島・海食崖、岩石流で出来た台地。
海上には「三ツ石」の岩と花・クス・スダジイなど暖帯性常緑広葉樹が繁っている。
 




岬の突端には、江戸時代に建てられた砲台跡が、下田に来航した黒船の脅威からか。


三ツ石は、別名笠島とも言い、三つの巨岩が岬の先端に並ぶ、県景勝50選にも選ばれている。
    

「わが立てる 真鶴崎が 二つにす 相模の海と 伊豆の白波」ー与謝野晶子が詠んだ歌碑が。
    

    

  

次回は飛鳥山に戻ります。

真鶴港の朝日

2015-03-02 | 気まま旅

真鶴は、何回も取り上げていますので写真を。

真鶴は、箱根火山の南東麓の町、真鶴の名は地形からで、鶴が羽を広げた形。かっては、ブリ漁が盛んであったが、不振となり釣り船へ転業。
地域産業の一つ「小松石採掘は、江戸時代から知られている。(小田原城・江戸城)
相州ミカンの栽培が盛んである。真鶴岬・半島は県立自然公園。
松・楠・椎の自然林を。





半島の長さ3km・面積7km2.




墓石の研磨なども盛ん
    

筑前の「黒田長政」採石場もある
    

真鶴は、江戸と直結。
    

    

次回も、真鶴半島岬の先端三ツ石へ。