syuの日記・気まま旅

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山梨県 上野原 老木と長寿

2017-11-18 | 富士山麓日記

山梨県は、我が国中部地方の南東に位置。東に東京・神奈川県、西北に長野県、南に静岡県に接した内陸県で「山があっても山梨県・平地が少ない」
旧国名を「甲斐・峡」を意味し、文字通り山峡の地である。全国第二の高峰・北岳3192mを中心に南アルプス・八ヶ岳・秩父山地・北に富士山・御坂山地、山々に囲まれた盆地と桂流域に。川は、いろいろ流れ込んだ扇状地で、桑畑にかわって「ぶどう・桃」が盛んにおこなわれ、全国一位。
甲府盆地を中心に富士川流域ー「国中地方」・大菩薩嶺、笹子峠、御坂山地、桂川、相模川上流部、多摩川流域ー「郡内地方」と呼んでいる。
鎌倉時代には、現在の都留市~大月の地域は、領主「小山田氏」で、武田氏に対し、臣従しながらも領地は守っていた。それが郡内地方である。
だが、いまだに不便な地域である。

今回のsYUの旅は、この郡内地方へ。
八王子ー高尾ー相模原ー上野原ー大月・・・「中央自動車道・JR中央本線・国道20号線、甲州街道」東京都・神奈川県県境の「上野原宿」から。
「相模川」
山中湖に発し忍野八海の湧水を集め、丹沢山地から東側を回り、神奈川県平塚市付近から相模湾に注ぐ川を云う。
山梨県では、桂川・馬入川と呼ばれている。この川二つのダムがある。相模ダム・城山ダム(津久井湖)と農業用水・水上交通路など重要な川である。

「青梅街道・甲州裏街道」
江戸の追分「新宿」からー青梅ー大菩薩峠ー塩山ー甲州街道の合流する。
「甲州街道・国道20号線」
江戸ー甲府ー諏訪ー(五街道の一つ、幕府は、甲府城を江戸幕府直属で重視・が他の街道に劣り、本陣、脇本陣を欠く宿場、又馬継立業務を一宿で担当できず複数の宿場が組んで担当したと云う。
参勤交代は、信濃国高島(諏訪)・高遠・飯田(5万石未満)の3藩。幕府は、1716年に小仏に峠と関所を、富士山~大山参詣の旅の道にしている。

「山梨県・上野原」
北都留郡、県最東端の宿場。-河岸段丘の原野ー南部に流れる「桂川」が。かっては、甲斐絹を生産。
現在四方津ニュータウン・ゴルフ場・工業団地・学校誘致・・東京60km圏内地を生かそうとしている。棡原は日本一の長寿村で知られている。





「中央本線」
明治22年、私鉄甲武鉄道が開通・明治39年鉄道国有法で国鉄・大正8年東京駅から中央本線で延長された。
昭和41年、中央東線で「特急あずさ(新宿~松本)」の運転が開始。
使用車両はボンネットの形をした181系という特急型電車・翌年に昼間を中心に特別快速が登場している。
昭和47年には、特急あずさに183系が登場。
昭和54年には、現在中央線東京口で使われているオレンジ色の201系が登場し、省エネ電車として画期的な車両で、登場時に大きくアピールされた。
JRが発足すると、「あずさ」の甲府行きが特急かいじとして行き先別に区分、東京を発着する普通電車も通勤快速、通勤特快、青梅特快などニーズに合わせた停車駅・行き先の列車が誕生現在に。
平成4年には、E351系を使用した特急スーパーあずさが登場。
平成13年よりあずさ、かいじに新型車E257系が投入・
(183系は、中央線の定期特急運用からに引退しています(ホリデー快速河口湖号運用、臨時の特急運用などはある)
名古屋方面の中央西線は昭和44年に、特急しなの(名古屋~長野)がキハ181系特急型気動車を使用して登場し、昭和48年に、振り子式制御という特殊装置を取り入れた381系特急型電車に置き換えられた。
平成8年より特急「しなの」には新型の383系が登場。
順次置き換えられ、定期特急列車はすべて383系に、平成12年より全車指定席の快速セントラルライナーが登場。新型313系を使用。

   西国分寺~立川駅の間にあるモダンな駅に改装された「国立駅」(特快は止まりません)

 

市内を横切るように流れる桂川という大河川がもたらした河岸段丘という珍しい地形ではある。山梨県外では相模川


「青苔寺」 ー飯盛山ー
                 美宝観音像


臨済宗南禅寺派の禅宗のお寺.
鎮守は,青苔寺の上に位置する神明社の神明大明神として,応永2年・1395年、今から約600年前に敕謚法光圓融禅師(峻翁令山)に拠って開創。
開基は小俣家とされている。先住宗哲和尚が入寺する昭和43年以前、約80年余り無住であった為、境内地の荒廃、昭和4年の落雷による火災で伽藍、資料の消失。
          本尊・薬師瑠璃光如来、 襖絵8面が。


境内外に残存する遺構や遺石、地域に伝わる口伝伝承画残る。先住職は入寺以来、檀信徒と供に当寺の復興と興隆。


「桂川河川公園」寺境内から

河岸段丘として日本中に知られ、与謝野晶子が歌を詠んだことでも有名な、桂川に面した水辺の公園が。


「鶴島のムクノキ」
案内板ームクノキ・樹高 23m・目通り幹囲 6.3m・推定樹齢 700年・上野原市鶴島西区。

              山梨県指定天然記念物・


島田湖(桂川)を渡った所が鶴島、住宅地の中ほど、道路に面して立っている。
根元には道祖神が祀られ、根が大きく成長して、石塔を巻き込んでいる。
幹はかなり傷んで、南西に伸びていただろう大枝の痕は、ぽっかりと大穴を開け、長い空洞が最頂部にまで至っているが、これは落雷による傷痕。
狭い道に自動車を通すための処置が。





谷中・根津・千駄ヶ谷

2017-11-14 | syu散歩

「谷中七福神」は、台東区・荒川区・北区の7寺院に祀られている七福神の巡礼札所で、約250年前に始まったと言われるー江戸最古の七福神。
谷中七福神は寺院だけ、巡礼距離は、約5.5km・約2時間程度。
1-寛永寺(不忍池弁天堂)または養泉寺 - 弁才天・2-護国院 - 大黒天・3-天王寺 - 毘沙門天・4-長安寺 - 寿老人・5-修性院 - 布袋
6-青雲寺 - 恵比須・7-東覚寺 - 福禄寿。

「田端駅にある福禄寿・東覚寺」ー真言宗豊山派・山号 白龍山
1491年「源雅」が神田に創建し、台東区根岸から1600年頃現在地ー北区田端に移転とある。7石朱印地を受けている。
「赤紙仁王」で知られている寺。
体中に赤紙が貼られた金剛力士像が山門に。
これは、通称「赤紙仁王」と呼ばれ、病を患った人がその部分に相応する箇所に赤紙を仁王像に貼ると治癒されると言われており、現在においても赤紙を貼る人が絶たないと云う。
その後、病が治癒すると、草履を供えるものとされており、その風習も現在残っている。
仁王像は寛永18年の1641年、賢盛の時代に造立されて、江戸市中において疫病が流行っていたのでそれを鎮めようとして建立されたものと云う。
しかし、仁王像に赤紙を貼るという風習はこの時存在しておらず、この風習は明治時代に入ってから広まったものと伝わっている。
仁王像は、江戸時代までは東覚寺が別当寺を務めており隣接する田端八幡神社の前にあった。
その後、神仏分離令が出来て、明治時代に東覚寺の前にあった九品仏堂の前に移転し、2008年に道路拡張の際にさらに後方に移転、
(北区の指定文化財)


             鉢植えから見事な大木にー「ヒマラヤスギ」台東区谷中


             江戸の大火で、お寺が集中し、門前町に。


「大名時計博物館」
大名時計を展示した我が国唯一の博物館。
江戸時代に大名がお抱えの時計師達が、長い年月をかけて手造りで制作したもので、櫓時計・台時計・柱時計などいろいろな種類の時計が展示
時計の資料などもある。

休館日ー月曜日 7月~9月・ 12月~1月中旬

                  休館日でした。  (有料)


                   谷中、よみせ通り


                  外人観光者で賑わいを


                  日暮の里・谷中ぎんざ





SYU散歩下町は、終わります。

日暮里・幸田露伴と 谷中霊園

2017-11-12 | syu散歩

昭和4年、田河水疱は、「目玉のチビちゃん」連載開始と前後して結婚。連載終了後、「のらくろ」の執筆に取り掛かる。
執筆のきっかけは、結婚後犬を飼い始めた事によりと云う。
昔写生中に見た陽気な真っ黒な犬を思い出し、あの犬が今どうなっているか気になったので描いてみたと、軍隊にすることにより、自らの徴兵時代を反映させる事が可能になり、独特の世界観を作り上げていった。
主人公の階級が上がるたびにタイトルが変わっていくという実験的な作品、爆発的な人気を得ていく。
戦前としては異例の長期連載・のらくろグッズが市場に溢れることになり、日本で初めて漫画のキャラクターが商業的に確立した作品。
昭和16年、に打ち切られるものの、その影響力は凄まじい。
戦後は「のらくろ」の執筆を再開する一方、落語の執筆も再開、笑いの研究に取り掛かる。
漫画以外の書籍が増え、文化人的な存在へと変わっていく。
昭和44年、紫綬褒章を受章。同年、山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始めたことで知られる玉川学園八丁目に移住。
小田急線を挟んで、南北反対側の高丘の上に居を構えた遠藤周作と並んで、玉川学園という住宅地の代表的な文化人のひとりと云う。
後半生は、クリスチャンで、長谷川町子が内弟子になったときにクリスチャンである長谷川に夫妻で付き添って自宅の隣にあった教会に通ったところ、長谷川が実家に戻った後も妻は教会に通い続けて洗礼を受け、戦後、水泡も洗礼を受けることに、死後に妻が出した「のらくろ一代記 田河水泡自叙伝」(1991年)入信の理由は何度も失敗してきた禁酒を今度こそ成功させるために信仰の力を借りようというものだったとされる。
代表作「のらくろ」が戦前の作品であるせいで、昭和の終わりごろにはすでに物故者と勘違いされることが多く、新聞記事等で「故・田河水泡」と誤って表記される事件が何度も起こったと云う。
平成元年12月、肝臓癌のため逝去した。90歳没。
平成10年、に水泡の遺族は、水泡の遺品を生地の隣区である江東区に寄贈し、公益財団法人江東区文化コミュニティ財団が運営する「森下文化センター」1階を、水泡の常設展示館「田河水泡・のらくろ館」として、ここで常設展示されている。

水疱の叔父・高見澤遠治 1890(明治23)年ー1927(昭和2)は、
太平洋画会研究所で油絵を学ぶ。破れた喜多川歌麿の絵を独力で修復し、浮世絵の直しに関心をもつ。
その後、浮世絵と南蛮美術の研究家だった弟が兄の遺志を継ぎ、戦後に「高見澤木版研究所」の名前で浮世絵の復刻版を刊行。

                     日暮里駅・舎人ライナー入口


            大田道灌銅像  日暮里は、江戸城から見ても重要の位置


「朝倉彫塑館」
鉄筋コンクリート作りの旧アトリエ部分と、丸太と竹をモチーフにした数寄屋造りの旧住居部分からなり、その和洋折衷の特異な建築は朝倉文夫本人が自ら設計し、その意向が強く生かされていると云う。
展示室は、彫塑作品を展示する旧アトリエ部分を中心にして、遺品や蔵書を納めた書斎、コレクション品などを収めた応接室等があり、他にも掛軸、陶磁器など朝倉文夫のコレクションを展示。
東洋ランの温室であったサンルームは「猫の間」とよばれ、朝倉の愛した猫をモチーフにした作品が一堂に会している。
庭園は、中庭の池を中心とした日本庭園と、大きなオリーブの樹が印象的な屋上菜園である。
池は谷中の湧水を利用しており、四季折々必ず白い花をつける木が植えられ、儒教の五常「仁・義・礼・智・心」を造形化した5つの巨石が配された
ユニークな造園様式。
最初の屋上緑化ともいえるその菜園は自然に触れることを芸術の基本と考えていた朝倉文夫の理念そのもので、大根やトマト、東洋ラン等が育てられていたと云う。
        彫刻家朝倉文雄旧宅玄関(出入りはここの玄関であったと云う)


                    アトリエでは、「猫百態」開催中



「幸田露伴」 1867-1947 随筆家・小説家・考証家ー下谷生まれ。文学博士・1937年第一回文化勲章受章。

           風流仏・五重塔・頼朝・運命・芭蕉七部集・一国の首都・長語など。


              幸田露伴旧宅ーここで「五重塔」の作品を


「田河水疱」 1899-1909 漫画家・落語作家ー墨田区生まれ
「のらくろ軍曹」の漫画でよく知られている。
朝鮮・満州にて軍隊生活、大正11年除隊後、日本美術学校入学した。
兄は、漫画本や連載新聞漫画を切る抜き集めていた影響で、よく見ていたのと「兵隊ごっこ」が流行っていた。

                    勲四等旭日小綬章


                     田河水疱旧宅の玄関


                     谷中の昔ながらの長屋


「谷中霊園」
明治5年、徳川家の墓地と天王寺境内。

     岡倉天心・鳩山一郎・朝倉文雄等多数の墓地がある。桜並木で知られている。


                        高橋お伝の墓


                       川上音二郎の墓


「徳川慶喜」 1837-1913 15代将軍(水戸斉昭の7男)・大政奉還。

                         慶喜の墓



          昭和32年放火で焼失した。(幸田露伴のモデルの五重塔はここにあった)




「天王寺」
江戸時代の落語講談に出てくる「富くじ」で有名な寺。




                本殿


西日暮里 道灌山 日暮里

2017-11-09 | syu散歩
「太田道灌・斥候台」
太田道灌が長禄元年の1457年、に江戸城を築いた際、眺めの良いこの地に「物見塚」と呼ばれる斥候台(見張り台)を造ったという。
寛延3年の1750年、に本行寺の住職日忠や道灌の後裔と称する掛川藩主太田氏などが、道灌の業績を記したこの碑を塚の脇に建てた。
塚は鉄道敷設でなくなりこの碑だけが残った。
この辺りの道灌の言い伝えは古くからよく知られていて、小林一茶も当地で  「陽炎や道灌どのの物見塚」と詠んでいる。(標柱説明より)
                          
「道灌山」
荒川区西日暮里四丁目にある高台である。上野、鶯谷、田端、王子へ連なる台地の一際狭く少し高い場所。
名称の由来は江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族・「関道閑」の屋敷址という説が。
道灌山からは、古くは西は富士山、東は筑波山が見える景勝地。
江戸時代には、薬草の採集地として、また、虫の音の名所としても知られている。
明治時代、この台地を訪れた正岡子規が
          「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」と詠んだ。

余命が短いことを悟った子規が高浜虚子を誘い出し議論をした挙句、決裂したのはこの高台にある茶店でのことであったと云う。
開成学園のグラウンドを中心に台地上に広がる縄文時代から江戸時代に至る複合遺跡である。縄文時代および弥生時代の竪穴式住居跡、平安時代の住居跡、江戸時代の溝などが発掘され、縄文式土器や弥生式土器が出土している。

「開成学園」
明治4年、 佐野鼎先生「共立学校」創立. 明治11年、 高橋是清 初代校長に就任.明治18年、ペンケンの校章.明治19年、


「道灌山遺跡」
縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡。
昭和29年を皮切りに、過去6回に渡り発掘調査が行われ、縄文時代の竪穴式住居跡、弥生時代中期の竪穴式住居跡(約5.6m×4.4m、深さ約20cm、ほぼ中央部に炉址があり、周囲には4本の柱穴が確認されている)、溝(環濠。幅約1.8m~2.2m、確認面からの深さ約1.2m~1.5m、断面はV字形でほぼ東西に延びている)、平安時代の住居跡、江戸時代の溝などが確認された。
この辺り、文化の香り漂う街の様相が潜んで、大正初期に、文化的まちづくりが行われている。





道灌山の奥の崖下に、臨済宗の浄居山青雲寺が.
道灌山から道灌山通りにでて迂回すると、奥まったところに青雲禅寺と記された石碑が見える。
境内正面の本堂右脇に

「日暮里舟繋松の碑」が、船繋松とは、舟人が目印とした高台の松すなわち現在の灯台。
道灌山、青雲寺境内東北の崖に、(明治7年、道灌山が加賀前田家に売却され碑は現在地)


道灌山は、「太田道灌」の砦跡伝説のある丘陵地。
道灌山はその名の通り、太田道灌の砦跡だと「江戸志」には記され、一方「新編武蔵国風土記稿」には後北条氏家臣の関道閑の屋敷跡と伝わると、日本城郭大系は説明している。
                城造りの天才道灌が、道灌山を見逃すわけがない。



           草花と薬草と鈴虫などが、江戸庶民は、風物詩、ここで虫聴を


諏訪台に鎮座する「諏方神社」

創建以来800年あまりの歴史がある古社。
縄文・弥生時代から人々が生活していたと云う景勝の地としても有名で、安藤広重の「名所江戸100景」にも登場。

江戸時代より四季折々の景色を楽しむ人々で賑わっていた「諏方神社」は、この地域の”総鎮守”として崇敬の的。


石碑は、諏訪神社と鳥居の神額「諏方神社」。

本来は、諏訪の字ではなく、古来表記である“諏方”の字が使われる。
当社所有の元禄時代に描かれた軸に「諏方大明神」と記されていることから、諏方神社の社名を続けていると云う。全国でも数えるほど。



                          狛犬


「浄光寺・雪見寺」
創建年代は不詳、寺は、諏方神社の別当寺であったことから、
諏方神社の創建年代と同時期の元久2年の1202年、前後の創建と推定されている。
元禄四年の1691年、には空無上人の勧化により「江戸六地蔵」の一つが安置された他、
元文2年の1737年、以降には将軍鷹狩りの際の御膳所となっている。

「新編武蔵風土記稿による浄光寺の縁起」
(諏方神社)別当浄光寺
新義真言宗田端与楽寺末、法輪山法幢院と号す。本尊薬師。元文2年4月14日、有徳院殿御遊猟の時始て当寺へ成せ給ひ、同5年正月25日御膳所に命せられしより、今も此邊放鷹の節は御膳所となれり。
御腰掛石。庭前にあり。有徳院殿始て渡御ありし時憩せ給ふ石なりと云傳ふ。
人麿社。頓阿作の像を安す。享保年中起立す。
地蔵。銅像にて近郷六地蔵(江戸六地蔵)の一なり。(新編武蔵風土記稿より)





「養福寺」
真言宗豊山派の寺院、江戸初期元和6年の1620年、の開山、木食義高の中興と伝えられている。

仁王門は、宝永年間(1704から1711)の建立と伝え、門の裏側には広目天と多聞天の二天王像が安置。


江戸時代初期に活躍した俳人西山宗因の「梅翁花樽碑」をはじめとする談林派歴代の句碑、柏木如亭の碑、自堕落先生の墓など。


「大黒天・経王寺」ー日蓮宗の寺ー
明暦元年の1855年、豪農・冠勝平(新堀村名主冠権四朗家の祖)が要詮院日慶の為に寺地を寄進した事に始まるという。
本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝わる大黒天が鎮守としてまつられており、地域の人々の崇敬を広くあつめている。

慶応4年の1868年、「上野戦争」
敗走した彰義隊士を匿ったため、新政府軍の攻撃を受けることとなり、山門には今も銃弾の跡がのこっている。 (荒川区教育委員会)

「高札説明」
新潮社「彰義隊遺聞(森まゆみ著)」によりますと、「この辺り(経王寺)は民家等無かった場所」とありますが、現在ではその様な事案があったと想像も出来ない程の人家が密集していました。
ここでの戦いは、上野山の谷中天王寺等に駐屯(自然集合)していた彰義隊士が、銃撃戦で新政府軍に追い詰められ、「最後に刀を用いた切り合いとなった」等と土地の長老様等に語り伝えられています。
その様な戦いの図は、上野公園内の「彰義隊の戦い」のプレートにも描かれていますが、今回探訪しました弾痕はこの戦争が背景で誕生したといわれています。
                 経王寺山門



                 新政府軍の銃弾跡が



               JR日暮里駅谷中方面「御殿坂」



              駅前陸橋ー向かいに舎人ライナー・私鉄京成電鉄ー


芥川龍之介と田端

2017-11-05 | syu散歩
「谷中七福神」は、台東区・荒川区・北区の7寺院に祀られている七福神の巡礼札所で、約250年前に始まったと言われるー江戸最古の七福神。
谷中七福神は寺院だけ、巡礼距離は、約5.5km・約2時間程度。
1-寛永寺(不忍池弁天堂)または養泉寺 - 弁才天・2-護国院 - 大黒天・3-天王寺 - 毘沙門天・4-長安寺 - 寿老人・5-修性院 - 布袋
6-青雲寺 - 恵比須・7-東覚寺 - 福禄寿。
田端駅にある福禄寿「東覚寺」は、田端2丁目にある「真言宗豊山派の寺院」
延徳3年の1491年、「源雅」により神田に創建・その後根岸(現在の台東区)・1600年頃にに田端の地に移転されたと言われている。
7石の朱印地を受けていたと言われ、赤紙仁王でも知られている。
山門に体中に赤紙が貼られた金剛力士像がある。
これは、通称赤紙仁王と呼ばれ、病を患った人がその部分に相応する箇所に赤紙を仁王像に貼ると治癒されると言われており、現在においても赤紙を貼る人が絶たないと云う。
その後病が治癒すると、草履を供えるものとされており、その風習も現在でも。
仁王像は、1641年に、「賢盛」の時代に造立されており、当時江戸市中において疫病が流行っていたのでそれを鎮めようとして建立されたものとされている。
仁王像は、江戸時代までは東覚寺が別当寺を務めており隣接する田端八幡神社の前にあったと云う。
その後、神仏分離令が出来て、明治時代に東覚寺の前にあった九品仏堂の前に移転し、2008年に道路拡張の際にさらに後方に移転、1998年に北区の指定文化財になった。また新年に。

日暮里・田端とお寺が多く、「正岡子規」のお墓ー大竜寺も近い。
「田端は、明治末期から、作家・詩人・画家など文化人が移住するようになった。今日訪ねた「芥川龍之介」は、1914年の大正3年に移り住んだ。

                   JR東日本東京支社があるJR田端駅へ

「田端文士村」
芥川龍之介(小説家)・板谷波山(陶芸家)・香取秀真(鋳金工芸作家・歌人)・菊池寛(小説家・劇作家・ジャーナリスト)
久保田万太郎(俳人・小説家・劇作家)・小穴隆一(洋画家・随筆家・作家)・小杉放庵(洋画家)・佐多稲子(小説家)・田河水泡(漫画家)
萩原朔太郎(詩人)・正岡子規(俳人・国語学研究家)・室生犀星(詩人・小説家)等。

                   開館は、1993年完成。




「芥川竜之介」 1892-1927 大正期の代表作家。
母方の実家、江戸文人芥川家に入籍、東大英文科卆、在学中「新思潮」同人となり、早くも「鼻」が、師の夏目漱石から激賞され、「羅生門」
「地獄変」など歴史小説を。
森鴎外の歴史小説・翻訳と漱石からの感化が強かったと云う。一語一句と知的表現を大事にした。
短編作家ー1921年中国に遊ぶ、その後神経衰弱に悩み、その当時の社会不安も影響し自殺する。

                  大正3年頃から住んでいる。




                   駅前の田端ふれあい橋


竜之介が引っ越ししてきたのが大正3年・室生犀星が大正5年・萩原朔太郎・窪川鶴次郎・中野重治・堀辰雄などの詩人たちが。
坂下は、三河島・千住の工業地帯、遠くは、千住のお化け煙突から煙をモクモク吐き出している姿が見えたと云う。