syuの日記・気まま旅

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明治の頃 武蔵野は別荘地 

2019-03-12 | 季節だより

甲武鉄道ーJR東日本管轄中央本線は、明治22年、甲武鉄道 新宿駅 - 立川駅間が開業し、中野駅・境駅、現在の武蔵境駅・国分寺駅・立川駅が開業。
8月に、立川駅 - 八王子駅間、が延伸開業し、八王子駅が。1890年の明治23年、日野駅が開業・明治24年、立川駅 - 日野駅間に多摩川信号所が出来た。その12月に、荻窪駅が開業している。
明治27年、陸軍省の軍用線として新宿駅 - 青山軍用停車場間が開業して、管理を甲武鉄道が受託し、青山軍用停車場が開業した。
牛込駅 - 新宿駅間・が延伸、牛込駅・四ツ谷駅・信濃町駅の各駅が開業し、川越鉄道(現在の西武国分寺線・新宿線の一部)と直通運転を開始した。
明治28年、市ケ谷駅が開業、4月に、飯田町駅 - 牛込駅間が延伸開業し、飯田町駅が開業した。
大久保駅・飯田町駅 - 新宿駅間が複線化・明治29年、軍用線の管理受託が終了している。
明治30年、新宿駅 - 青山仮停車場間が、青山仮停車場(初代)が開業。英照皇太后大葬の御柩列車の始発駅として1日限りの営業でその翌2月廃止。
1899年の明治32年、吉祥寺駅・明治34年、豊田駅が開業・明治35年・37年、千駄ヶ谷駅・飯田町駅 - 中野駅間が電化。
その12月に、御茶ノ水駅 - 飯田町駅間の電車線が延伸開業し、御茶ノ水駅が開業された。
明治39年、新宿駅 - 大久保駅間が複線化され、その6月に、柏木駅(現在の東中野駅)が開業9月に、大久保駅 - 中野駅間が複線化に。

当時の、武蔵野地区は、別荘地が多く、その土地の選定を 国分寺崖線付近に定めたものが多い。
傾斜地の眺望と傾斜地から湧き出る湧水を利用した庭園(池)と門、母屋、待合、離れなどからなる建築形式をもつものが多いと云う。
東京武蔵野の邸園文化は、ここから広がっていったのであろう。別荘文化の発見である。

                 岩崎彦彌太の和洋折衷の別邸ー昭和9年






松は、寸にして 棟梁の機あり  松は、苗木の時から棟・梁になる素質を持っていると云う。

針葉樹、アカマツ・クロマツ・ゴヨウマツ・ハイマツなどがある。多くは高木・雌雄同株で葉は、針形3~5束生、球果は、マツカサ。
建材・器具材・パルプ・炭・盆栽・庭木など。新年の門松にも使われる。遊女の階級の「松の位・太夫」

                        アカマツ並木








「たけ」 イネ科 常緑木質植物
大竹と小竹(笹と呼んでいる)、節の部分から枝を出す、被針形の葉・開花周期は長く、開花で枯死ーよくしゃべる人を「竹に油を塗る」

                         竹の小径




「次郎弁天池」武蔵野・立川段丘の下流域に流路に沿って段丘崖の湧水を利用し、敷地の中央に回遊式庭園の池と石段と木などが。

          「岩崎邸庭園」の清澄・六義園・上野の庭園は、なんとなく似ている。









殿ヶ谷庭園 春の七草 秋の七草

2019-03-10 | 季節だより
「武蔵国」は、古代から使われ旧国名ー埼玉・都・神奈川(川崎、横浜の一部)の地域で、関八州の一つ「武州」とも云う。
牟邪志(むさし)・胸刺・知々夫の3国に分かれていた。
律令制下で「武蔵国」に統一され、国府と国分寺(現在の府中国分寺)に置かれた。
川越・熊谷付近の8世紀頃は、大規模な条里制が敷かれ「荘園」が成立、後管理者の中に、「武蔵7党・坂東八平」の武士団が結成された。
源頼朝のもとに結集した武士社会が中心になってい「鎌倉時代」に。
鎌倉道が開け、南北朝時代に足利尊氏の室町時代と上杉氏の支配下になる・・・・・。
国分寺市は、都の中央部・武蔵野台地南西で、「武蔵国分寺」から地名に。多摩川段丘武蔵野と一部立川面に立地し、国分寺崖線「ハケ・崖」が東西に
走っている。「湧き水」の多い所。歴史は古く、先土器・縄文時代の土器、遺跡が点在している。
江戸時代に入り、新田開発が進んだ、明治22年に「甲武鉄道・中央本線」が開通・中央本線の8年後には、「西武国分寺線」が川越に、昭和30年後は、
東京の別荘地から~ベッドタウンの都市化に。
「武蔵国分寺跡」は、駅から南西約1.2km 西元町にある。
741年聖武天皇のより建立ー東西900m・南北550mと推定・諸寺中最大と云われている。1333年新田義貞軍鎌倉攻めで焼失されている。

                        現在の国分寺駅改札付近


「江口定條」高知県出身。現一橋大学卒、同校教諭に就任・三菱合資会社専務理事、監事等を経て1920年同社総理事。
1925年社団法人如水会初代理事長・満州事変のあった1931年に南満州鉄道の副総裁に就任し、民政党系で、軍部に批判的な立場をとっており、翌年政友会の犬養内閣に罷免される。
当時総裁だった内田康哉はこの罷免に抗議し辞表提出。1932年、勅選の貴族院議員となる。
第二次世界大戦中の1945年、母校、現一橋大学、学部の建物に軍需省の部局が入居してきた際には、キャンパスが軍に占拠されることを恐れた学生の意を受け、ひょうたん池付近の学生集会所を「如水寮」と名付け、学生がキャンパス内に留まることができるようにした。
同施設では本間要一郎(横浜国立大学名誉教授)や蓼沼謙一(第8代一橋大学学長)ら学生のほか、大学附属東亜経済研究所所員の小島清や小山路男も生活したと云う。
父は、土佐士族江口千條で、江口昌條陸軍少将は弟。法制局長官を務めた次田大三郎や、満州医科大学教授を務めた平山達、キリンビール社長を務めた
時国益夫、テニス選手の鳥羽貞三は娘婿。孫にコントラバス奏者の江口朝彦など。
都国分寺市にある「都指定名勝の殿ヶ谷戸庭園」は、江口家の別邸として建てられた庭園。

「岩崎彦彌太」1895ー1967 71歳没。
三菱財閥のオーナー・岩崎家の一員・三菱合資会社元社長・岩崎久弥の長男。

江口氏から岩崎家「国分寺の家」として別荘に、彦彌太は、昭和9年和洋折衷の木造主屋に立て替えている。
芝生地と武蔵野崖線下方の湧水で「回遊式庭園、次郎弁天池」とアカマツ・紅葉・竹林・クマ笹などの和洋庭園に、昭和49年都が買収し、整備され
有料庭園に指定開園された。
               平成23年「殿ヶ谷戸庭園・随宜園」として名勝に指定した。


                  昔、この辺り国分寺村殿ヶ谷戸と云う地名と云う。


     秋の七草 萩・尾花(薄)・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗(万葉集は、朝顔が、朝顔は桔梗のこと)








福寿ー幸福で長生き。
「福寿草」はキンポウゲ科の多年草、シベリアにも分布、正月用の鉢植えにも、花は黄色で多数の花弁がある。有毒あり、



「山上憶良」 奈良前期の官人、歌人・遣唐少録として中国へ。大伴旅人と親交、万葉集に多くの歌を残している。



















「春の七草」セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベ・ホトケノザ(ダビラコ)・スズナ(カブ)・スズシロ(ダイコン)。

昭和天皇在位50年記念 今は梅と寒椿満開

2019-03-07 | 季節だより

立川市砂川と云えば、1957年「砂川事件」を思い出す。住民と労働者と学生が、アメリカ軍立川基地拡張に対して、反対デモ・運動を起こした。
昭和57年7月に基地拡張するための測量が、それに反対したデモ隊が警察ともめ、一部の7人が基地に入り「刑事特別法」違反に問われた事件である。
昭和59年最高裁判決は、「我が国が必要な自衛の措置を取りうることは当然である、、、」と指摘した。
若き頃、そのデモに私も参加し、立川に来ると思い出させる。

都立川市と昭島市にまたがる、「昭和記念公園」
昭和天皇在位50年を記念し、1983年に立川基地跡地に開園。
都心からJR中央線で一本と抜群の立地にありながら、総面積約180ha、東京ドーム約39個分の広大な敷地を。

 桜、チューリップ、ポピー、ひまわり等、四季折々の色彩を楽しめる。










「寒椿」
紅色系・白色系・ピンク系で愛らしさ・美しさ・理性を象徴。
サザンカとツバキの交雑種である園芸品種といわれツバキ科・ツバキ属の常緑低木で、
高さは1.5m〜3mほどになります。
樹高の高いタイプは「立寒椿」または「獅子頭」と呼ばれる。
耐寒性のある寒椿の開花時期は冬の季節11月〜2月。つける花の色には赤・白・ピンクがありその模様の入り方も色々あるので楽しい。







                           梅は、満開でした。
















「コブシ」 モクレン科 落葉樹・高木・春一番に他の木々に先駆けて白い花を咲かせる。
果実は集合果であり、にぎりこぶし状のデコボコがあり、この果実の形状がコブシの名前の由来。
高さは18m、幹の直径はおおむね60cmに達する。
3月から5月にかけ、枝先に直径6-10cmの花を咲かせる。花は純白で、基部は桃色を帯びる。
花弁は6枚。枝は太いが折れやすい。枝を折ると、芳香が湧出する。
果実は5-10cmで、袋果が結合してできており、所々に瘤が隆起した長楕円形の形状を成している。
アイヌ地方では「オマウクシニ」「オプケニ」と呼ばれ、それぞれ、アイヌの言葉で「良い匂いを出す木」「放屁する木」という意味を持つ。
樹皮は煎じて茶の代わりや風邪薬として飲まれる。一方、北海道のコブシは「キタコブシ」と呼ばれることもある。
遠見だと桜に似ていること、花を咲かせる季節が桜より早いことから、ヒキザクラ、ヤチザクラ、シキザクラなどと呼ばれる。
これらの呼称は北海道、松前地方を中心に使われる。







「お山の杉の子」の歌- むかしむかし そのむかし しいの木林のすぐそばに 小さな おやまがあったとさ あったとさ~で始まる。「シイの木」
シイの木は、身近な存在、実は少し炒って食べるとおいしい。花は、眺めた人は少ない。
花は、花粉をメシベに運ぶ方法から、風媒花、虫媒花、鳥媒花などに分けられ、虫媒花や鳥媒花は虫や鳥を呼ぶために美しい目立つ花を咲かせる。
シイの花は、一つひとつは、小さく、形態からすると風媒花のよう。
においで虫を呼ぶ虫媒花。
シイの葉は、少ない光でも光合成ができますので、シイ林の中は昼でも薄暗くなる。
林冠と呼ばれる林の外側に向けて花を咲かせる方が、虫たちに飛んできてもらい、花の時期にシイ林に入っても、甘い香りはしますが、上を見上げても、なかなか花を見ることはできません。 
谷を挟んだ向こうの斜面に咲いたシイの花は、一つひとつは小さく、美しいともいえないのですが、葉も見えないくらいになる。
外から見た林の色が変わることで、林全体で花が咲いているので、これなら遠くにいる虫たちも花が咲いていることに気づき、集まる。


昭和記念公園 東京ドーム39倍の広さ 2月の真冬日

2019-03-04 | 季節だより
「武蔵七党」
平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団。
平安時代武蔵国は、台地が広がり牧畜に好都合で、関東にいた人が馬飼部として牧畜に携わったことから、多くの牧が設けられ、その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。
武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられ、保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍し、生産条件の良好な典型的な条里地域を根拠地としている。
各党は婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能し、各領地も離れており、具体的にどの程度の結束力であったかまでは不明と云う。
鎌倉時代は、武蔵武士は御家人として鎌倉幕府を支えた。
武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だったとある。
「吾妻鏡」に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。
「六条八幡宮造営注文」-469人中84人と圧倒的に多く、日本全国に拡大移住していった。
承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来(元寇)の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なり、南北朝時代以降は、武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成し、「太平記」では、平一揆や白旗一揆が有名。その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。
国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦ったと云う。
 
「武蔵七党系図」-横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)。
東京都立川市は、都の中央部に位置し武蔵七党の土着した武蔵国司・日奉宗頼の子孫が西氏を称し、庶流が土着した地名を苗字としたとされる。
一族には、一ノ谷の戦いで熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる平山季重を出した平山氏のほか、由井氏、立川氏、小川氏、田村氏等が。
立川市の名の由来は、その一族「立河氏・立川」旧神奈川県北多摩郡立川町が、明治26年東京府・大正12年立川町となり、昭和15年「市」に。
ここ、砂川町は昭和63年編入された。一置は、武蔵野台地の南端に、多摩川沖積地と武蔵野段丘面。
江戸時代は、砂川・柴崎の2村、玉川上水の分水で開拓が進んだ。藍染の砂川太織で知られている。現在は、三多摩の商業都市として発展。
大正11年陸軍航空大隊が岐阜から移転移転し、立川飛行場・研究所・軍用工業基地に。



               JR青梅線「西立川駅」(立川駅一つ目)


「昭和記念公園」
昭和天皇御在位五十年記念事業の一環
戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川市と昭島市の両市にまたがる立川基地跡地のうち、180haを記念公園として建設された。
「緑の回復と人間性の向上」をテーマに、昭和53年から施設整備が進められてきた公園。
昭和58年10月ー昭和天皇臨席のもとに約70haで開園した後、レインボープールや子供の森、日本庭園、砂川口、盆栽苑等次々と施設が整備され、
平成17年、みどりの文化ゾーンが共用され、同時に昭和天皇記念館が開館した。
又、大規模な災害が発生した場合は、避難場所としての機能を果たすよう設計されており、立川市と昭島市の広域避難場所の一つに指定。
園路はスムーズに避難を行うために幅が広く作られており、芝生が広がるみんなの原っぱは避難所として、立川口駐車場・みどりの文化ゾーンは救援隊のベースキャンプ・救護所・物資集積所などとして活用できると云う。
防災関係機関が所在する立川広域防災基地が公園に隣接し、早朝にはヘリコプターが訓練。

            入園有料¥450   1983年開園・面積 165.3ha


  約15,000㎡の広大な花畑が、春ポピー、秋コスモスが花の丘一面に咲く、丘の上から、立川駅方面が一望。


「桜の花見」
みんなの原っぱの北側にある「桜の園」
全園で約1500本、約30品種の桜はどれも見事。
中でも緑色の花をつける珍しいウコンやギョイコウの見頃は4月中旬。
3月下旬から5月下旬にかけて、桜をはじめ、菜の花やチューリップ、シャーレーポピーなどが楽しめる。
桜の本数・種類は、 約1500本(ソメイヨシノ、オオシマザクラ、ヤマザクラなど約30種)ライトアップは、まだ実施未定と云う。
3月下旬~5月下旬見頃。
                       東京ドーム39倍の広さを