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1976年の八王子アローンは出演予定のミルフォード・グレーブスの突如の出演中止で徹夜討論の場と化していた。もう41年もの時が過ぎ去り、記憶にはその時のいくつかの場面と人の顔が残っているだけだ。おそらく、こういうことだったように思う。ミルフォード・グレイブスの演奏は彼一人の独占物ではなく、聴衆一人々々に共有されるべきものであった。それが、彼一人の独断で消滅してしまったのはどうにも理不尽であるということである。彼の演奏の不在を我々はどのように受け止めればよいのか・・というどうにも出口の無い意味不明の【空虚】の中に誰もが放り出されていた。ただ出演予定者に対する怒りはそれほどなかったように思う。たとえ不成立に終ったにしても、そこに足を運んだ自分の【現在】の在り方にさしたる変化はなく、むしろ【不成立】という出来事を共有するという突発的な状況を楽しんでさえいたのかもしれない。終電時刻の0時過ぎが迫ると帰る者が出始め、終電が過ぎると、店のスタッフがクルマで送るという呼びかけもなされた。それでも、大半が始発の4時半までフロアに座り込んだり、店の前の路上に立ち竦んでいたりしていた。そこにいた誰もが1970年代後半のとば口の、何もかもが宙に浮いた行き先不明の時代の空間にあって孤絶しており、このようなことが起こってもそれほどの衝撃は無かったように思う。謂わば、この手のことは気分として日常にありふれたことだったのかもしれない。いずれにしても、1970年代の国内におけるフリージャズ・シーンの一大イヴェントは水泡に帰した。この年から3年間は相変わらずの昼夜逆転生活が続き、日夜、現代詩を読んだりフリー・ジャズのイベントを企画したり、ジャズスポットで友部正人さんのライブを企画したり・・の日々が続いていた。このフリージャズのアーチストと出遭ったのは、あの日比谷野音の小スペースでの彼らの定期ライブでのことで、聴衆は何と私一人であった。ちなみに、このアーチストはこの数年前にジャズ雑誌で16歳の天才ドラマーと騒がれていた。この時代は、誰もが単独者として共通の【空虚】と向き合っていたのだ。友部正人さんの場合も、会場側もジャズ以外のアーチストは初めてで大いに乗り気だったのを覚えている。友部さんとは中央線の吉祥寺の縁で何度か会っていたが、彼との最初の出遭いも高円寺の小ホールでのライブであった。この時の聴衆も私一人だったように記憶している。・・・《続く》