まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

ぽんぽん大将/新雑句雑感(189)~プロローグ5の終わり

2017-03-15 20:15:41 | 新雑句雑感

オタクとは滅びの美学冴返る  平成はや獣の領分冴返る  ぽんぽん船のぽんぽん大将冴返る(1960年代のNHK人気ドラマ)  I shall be releasedまたも冴返る(ボブディラン&ザ・バンド)  冴返るスカイツリーのもっと上  猫を追ふ足のもつれに冴返る  APA森友まだ滅ばざる冴返る  心経を胃で撹拌す冴返る  プレおたく世代の現在冴返る(当ブログで連載中)  「過渡の詩」がまたも入札冴返る(坪内稔典著の画期的俳論1978)  グレゴリア暦では真冬冴返る  造影剤効かぬ歯がゆさ冴返る  永山則夫の「無知の涙」よ冴返る  冴返る回転木馬加速せり  ハーケンの影深々と冴返る


【俳句の此岸】誰もが見上げた70年代の空虚/私とは誰か~プレおたく世代の現在(13)

2017-03-15 02:45:49 | エッセー・評論

1976年の八王子アローンは出演予定のミルフォード・グレーブスの突如の出演中止で徹夜討論の場と化していた。もう41年もの時が過ぎ去り、記憶にはその時のいくつかの場面と人の顔が残っているだけだ。おそらく、こういうことだったように思う。ミルフォード・グレイブスの演奏は彼一人の独占物ではなく、聴衆一人々々に共有されるべきものであった。それが、彼一人の独断で消滅してしまったのはどうにも理不尽であるということである。彼の演奏の不在を我々はどのように受け止めればよいのか・・というどうにも出口の無い意味不明の【空虚】の中に誰もが放り出されていた。ただ出演予定者に対する怒りはそれほどなかったように思う。たとえ不成立に終ったにしても、そこに足を運んだ自分の【現在】の在り方にさしたる変化はなく、むしろ【不成立】という出来事を共有するという突発的な状況を楽しんでさえいたのかもしれない。終電時刻の0時過ぎが迫ると帰る者が出始め、終電が過ぎると、店のスタッフがクルマで送るという呼びかけもなされた。それでも、大半が始発の4時半までフロアに座り込んだり、店の前の路上に立ち竦んでいたりしていた。そこにいた誰もが1970年代後半のとば口の、何もかもが宙に浮いた行き先不明の時代の空間にあって孤絶しており、このようなことが起こってもそれほどの衝撃は無かったように思う。謂わば、この手のことは気分として日常にありふれたことだったのかもしれない。いずれにしても、1970年代の国内におけるフリージャズ・シーンの一大イヴェントは水泡に帰した。この年から3年間は相変わらずの昼夜逆転生活が続き、日夜、現代詩を読んだりフリー・ジャズのイベントを企画したり、ジャズスポットで友部正人さんのライブを企画したり・・の日々が続いていた。このフリージャズのアーチストと出遭ったのは、あの日比谷野音の小スペースでの彼らの定期ライブでのことで、聴衆は何と私一人であった。ちなみに、このアーチストはこの数年前にジャズ雑誌で16歳の天才ドラマーと騒がれていた。この時代は、誰もが単独者として共通の【空虚】と向き合っていたのだ。友部正人さんの場合も、会場側もジャズ以外のアーチストは初めてで大いに乗り気だったのを覚えている。友部さんとは中央線の吉祥寺の縁で何度か会っていたが、彼との最初の出遭いも高円寺の小ホールでのライブであった。この時の聴衆も私一人だったように記憶している。・・・《続く》