仲春やポイント10倍デー終はる 仲春や前に進めず立ち竦む 仲春の庭無き家に四十年 ヨガ真似て背筋を伸ばす春なかば ゴォーゴォーとスケボー走る春なかば まだ続くゴッホとゴーギャン春の闇 ウインズで老いの一喝春なかば 戦争と呼べぬ儚なさ春の闇 鴨引かぬ虚空の深さ知らずゐる ネット俳句の白さつのりし春なかば ハイソックスの紺の食い込む春の闇 エレベータどーんと着地す春なかば
凍て戻る1980年の厚い壁 まほろば
1960年代の末に全世界に吹き荒れた新左翼(反帝国主義・反スターリン主義)とベトナム反戦運動、そして「Vサイン」として現在も残っている【ラブ&ピ-ス】のカウンター・カルチャー運動への憧れは青春の全てであった。中学から高校にかけて地方に身を置きながら、一日も早く上京し、これらの運動に飛び込むことを望み、悶々とした日々を送っていた。そして、念願かなって上京すると、そこには無惨な敗北の残滓が横たわっていた。ニューエイジなどの空々しさに耐えながら、70年安保の残り火に震えながら手を翳し続けるのと同時に、時代の静かだがとてつもなく巨大な流れに耳をそばだてていた。私は真っ二つに引き裂かれていた。1970年代とは何なのかなどと考える余裕はまるで無く、いつしか70年代半ばに突入し、後半の文字通り何も無いただ巨大化した【空虚】の渦中で、突然、海の向こうからやって来た【パンク・ニューウェイブ】という闘う標的を喪った、ただひたすら毒々しいだけの《徒花》が視界に入って来た。しかし、それはわずか5年ほどしか離れていない新世代によって、少数だが計り知れない深度をもって担われていた。私はまさか今になってと躊躇しながら一歩踏み込もうと試みたが、アッサリと撥ね返された。彼らは《新世代》ではなく、前時代へのアンチテーゼとしての【空虚】そのものだったのだ。1979年のいつだったか、東京青山のベルコモンズというファッションビルの一角で日本のニューウェイブの女性ボーカルを連れた坂本龍一さんを階段の踊り場で見かけたことがある。その頃、坂本さんはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を率いて世界を席巻していた。坂本さん以下のメンバーは全員70年安保世代だが、運動の破綻後は安倍薫とユニットを組んで【フリージャズ】に取り組んでいたようだが、この音楽はその後の【パンク・ニューウェイブ】にもろに影響を受けていた。この時の女性アーチストは小柄でひ弱な印象で、すぐにミュージック・シーンから消え去ったように記憶している。私が出遭ったパンクの若者たちも80年代に入ってどのような活動を続けたか全く聞かない。海外では毒々しい《パンク》の文字を削ぎ落とした【ニューウェイブ】として、80年代前半に実に多様な音楽表現として続いて行った。それでは、私自身のその後はどうなったのだろうか。・・・《続く》