素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

梅雨明け宣言とともに  自転車で淀川へ

2009年08月03日 | 日記
 ようやく梅雨明け宣言となった。久しぶりの好天気なので、自転車で、淀川の河川敷を走り淀川河口まで行くことにした。
 10:15家を出て、起点の淀川新橋を目指す。11:00着。そこから下流に向かって、河川敷につくられた歩行者・自転車専用道を走る。河口までには淀川新橋⇒鳥飼仁和寺大橋⇒鳥飼大橋⇒豊里大橋⇒菅原城北大橋⇒長柄橋⇒十三大橋⇒新十三大橋⇒淀川大橋⇒伝法大橋とあるが、河川敷の最終地点にある淀川大橋で、左岸から
右岸に渡り帰路につくという大雑把な計画をたてた。

 木津・嵐山往復の教訓を生かし、日焼け対策、水、ペース、休憩はきっちりとしていった。長柄橋の手前まで来た時12:00。安くて、うまくて、ボリューム満点の中華料理店『新京』を見つけ、英気を養う。12:25出発。12:45淀川大橋に到着。対岸に渡る。河口付近の川幅の広さを、自動車で渡った時は意識しなかったが自転車だと実感する。

 対岸に渡ると、雰囲気も景色も変わる。8日にある淀川花火大会の会場準備をしている中を走る。長柄橋をすぎて少し走ると、淀川大堰がある。往路では、昼食のために、そこは離れ市内に迂回したため見なかったが、川の四分の三ほどがせき止められ、狭い部分から流れ落ちるので、ゆったり流れる淀川ばかり見てきた者にとっては、荒々しさを感じた。もともと淀川は暴れ川で、その治水の歴史だけでも一冊の分厚い本になる。その姿を垣間見た気がした。

 帰りにもう一つ確かめたいものがあった。往路は堤防ではなく、河川敷の方を走っていたので、こんな橋あったかな?と思いつつ、ゆとりもなかったので、下を通り過ぎただけの奇妙な橋である。それが上の写真。13:30に到着。名前は『赤川仮橋』

 もともと城東貨物線淀川橋梁(通称:赤川鉄橋)として、複線の幅でつくられたのだが、ずっと下流側の単線で運行しているため、余った上流側のスペースが自転車・歩行者の専用橋になっている。しかも、木造。走ってみると、ガタガタと音はするし、雑なつぎはぎがあったり、木がはずれたような音も時々するので、結構「こわ おもしろい」 貨物列車と遭遇しなかったが、かなり接近しているから、揺れ、音、風と三拍子そろって、相当の迫力になると想像できる。10年後にはなくなる可能性もあるので、貨物列車の走っている横を自転車で走りたいのと歩いてじっくり渡りたいものだ。何かタイムスリップしたみたいな ワクワクする橋である。

 14:30淀川新橋に戻る。寄り道をしながらダラダラと家に帰る。16:15着。シャワーで思い切り体を冷やす。最高に気持ちがよかった。

 

 


 
 
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続・『学ぶ』ということ

2009年08月03日 | 日記
 まもなく5歳になる孫がいる。3歳の半ばを過ぎたぐらいから、自分にとって目新しいものへの関心が強くなってきた。食べ物であれば味わってみようとする。物であれば使ってみようとする。すべてに名前がついているということがわかってきてからは 「どう 呼ぶのか?」とかならず尋ねてくる。1ヶ月に1~2度会うぐらいだが、言葉の数がどんどん増えていっているということを実感する。
 この前は、私の部屋でホッチキスを見つけ、のりとセロテープしか知らなかったので、感心しながら必死になって使っていたが、最後の一押しがなかなかできず降参。次に、方位磁石を見つけ、「時計?」と尋ねてきた。時計とは違うということはわかったが、クルクル動く針は何を表すのか?という疑問に答えるのは こちらが降参。まだ東西南北という方角が意識の中に入っていない孫に「北」といっても「何それ?」となってしまう。
 孫だけではなく、近所にいる同じぐらいの子供たちに接する機会も増えたが、貪欲に、新しいものを吸収していこうとするエネルギーを強く感じる。私の心の師の一人である、教育学者の村井 実さんは「善くなろうとする子ども」という言葉で強調している。
 「善くなろうとする子ども」は、同じように「善くなろう」として生み出されてきた既成の文化と「出会い」、衝突したり再発見したりしながら、その結果として文化を継承発展させていくのである。その『学び』の場として、人間は、試行錯誤を重ね「学校」というものをつくってきた。
 その「学校」が今、やせ細ってきたのではないか?という感じがする。そのことは、これからも折に触れ考えていきたいと思っている。
 
 私自身についていえば、退屈してませんか?とよく尋ねられる。自分自身の見方、考え方を新しくしてくれる『学び』の場はいたるところにある。世の中は広い
根本のところでは、未知のものを毎日発見している孫と同じである。
 
 
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