素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

器に合わせてか こまわりです ひまわり育て記(3)

2009年08月06日 | 日記
 毎日、花が開いていますが、超ミニサイズです。やはり、地植えにして、しっかり根を張ることが大切かな。限られた土地、可能な限りの深めの鉢にしたのだが、次の南光町のひまわりと比較してみよう。

 今日の毎日新聞の、大阪大学総長で、哲学者の鷲田 清一(わしだ きよかず)氏の毎月1回掲載されるコラム「都市の微熱」~身近にあった おおらかな学び~がおもしろかった。今、自分自身の中にある『学ぶ』というテーマとマッチしているからだ。かいつまんで まとめると

 *情報にアクセスしやすいというのは、人が知的になる一つの手段であっても、不可欠の条件ではない。
 *無数の情報を腑分けし、使いこなせることが、知的であるということ。
 *このわざを磨くのは並大抵のことではない。
 *大事というものを直感的につかむわざ。それに向かって必要な情報を動員するわざ。求めるものの形がぼんやり見えだしたときに、これまで自分の支えであったものの一部または全部をすてたり、組み換えたりする柔軟性。などを人は他人から学ぶ。
 *他人とは、何かを究めつつある隣人や市井の「賢人」や頑固一徹の職人かもしれないし本で出会っただけの思想家や詩人であるかもしれない。
 *『知的』になるためにいちばん必要なのは、そうした『師』とすべき未知の人に遭遇できるような場である。その人の言葉だけでなく、身ごなしから、気配から、仕事ぶりから、大事なことは何かを学ぶのである。
 *あるいは、自分とは異なる地点から世界を見ている人、そういう知的に遠距離にある人の考えや感じ方にふれることで、世界をまなざす自分の遠近法をたえず修正しつづける。砕けることなしに学びはない。
 *学びは機関によってではなく、人を通じてなされる。
 *都市がインテリジェントであるというのは、未知の『師』から至近距離で何かを盗むかのように学ぶ、そういう場や機会が町中にさまざまな形であるということ


 自分にとっての心の『師』であった。という人ともう一度ゆっくりと向き合っていきたいと思っている。
 
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