再び、200DOORSに行ってきました。旭区にある大阪市立芸術創造館であった『演劇体験』に参加した。講師は演劇的詩的身体表現を模索するため「KARAGARA」を結成し、大阪、神戸で活動する『ぐん』さん。「演じる前の準備」から「セリフを読むまで」を、本当は1年間かけてすることを90分のダイジェスト版で、ポイントを押さえて指導していただいた。
もともと、私自身の中に、教師は、基本的な知識は当然必要だが、それらを、生徒という観客に伝えるためには、芸人(役者)としての技術が必要と思ってきた。立ち振る舞い、声の抑揚、大きさ、リズム、間などを場に応じて使いわけることができないといけない。大学時代には、寺で定期的に開かれる落語の独演会やデパートの実演販売をしている所によく行った。職に就いてからは、時間的な制約が多いが、生の舞台(ジャンルは何でもいい)を、機会があれば観ることをこころがけた。ライブでないとだめだと思う。「表現」のプロとして鍛えられてきた人達の発するものを体の中にしみ込ませていくことが、目に見えないパワーとなっていくように思う。
教師も、教科書という台本を持つ演技者という意識が必要。しかも、台本どおりにはないアドリブも必要だし、観客もマナーがよろしくないとなれば、それなりの技術は必要になってくると思う。つまらない研修するぐらいなら、1年間通じて、発声など「相手に伝えるための」基本訓練を継続してやっていったほうが良いと思っていたが、実現できなかった。もう、現場に立つことはないが、演技者としての訓練をプロから受けることは、やり残したことなので、ワンコインでかじってみた。
ストンストンと心に落ちることがたくさんあった。また、頭の中でまとまったら紹介したい。生の声で「相手に伝えるためには」何が必要かということを再確認した。
その後、茶屋町画廊で、元同僚の美術の先生が、大学時代の友人と開催しているグループ展『10覧会(TENRANKAI)』展の案内をいただいていたので寄らせてもらった。第26回ということに感心した。仕事をしながらの創作活動、容易なことではないと思う。10人の方の出品作品はバラエティーに富んでいて、さぞかし個性豊かな方々やろな。と勝手に想像した。仕事場だけの姿しか見ていないが、「ああ、こういう作品を創っていたんや」と違う角度から見ることが出来た。
今日は、形こそ違え、自分を「表現する」ということを考えた一日であった。
もともと、私自身の中に、教師は、基本的な知識は当然必要だが、それらを、生徒という観客に伝えるためには、芸人(役者)としての技術が必要と思ってきた。立ち振る舞い、声の抑揚、大きさ、リズム、間などを場に応じて使いわけることができないといけない。大学時代には、寺で定期的に開かれる落語の独演会やデパートの実演販売をしている所によく行った。職に就いてからは、時間的な制約が多いが、生の舞台(ジャンルは何でもいい)を、機会があれば観ることをこころがけた。ライブでないとだめだと思う。「表現」のプロとして鍛えられてきた人達の発するものを体の中にしみ込ませていくことが、目に見えないパワーとなっていくように思う。
教師も、教科書という台本を持つ演技者という意識が必要。しかも、台本どおりにはないアドリブも必要だし、観客もマナーがよろしくないとなれば、それなりの技術は必要になってくると思う。つまらない研修するぐらいなら、1年間通じて、発声など「相手に伝えるための」基本訓練を継続してやっていったほうが良いと思っていたが、実現できなかった。もう、現場に立つことはないが、演技者としての訓練をプロから受けることは、やり残したことなので、ワンコインでかじってみた。
ストンストンと心に落ちることがたくさんあった。また、頭の中でまとまったら紹介したい。生の声で「相手に伝えるためには」何が必要かということを再確認した。
その後、茶屋町画廊で、元同僚の美術の先生が、大学時代の友人と開催しているグループ展『10覧会(TENRANKAI)』展の案内をいただいていたので寄らせてもらった。第26回ということに感心した。仕事をしながらの創作活動、容易なことではないと思う。10人の方の出品作品はバラエティーに富んでいて、さぞかし個性豊かな方々やろな。と勝手に想像した。仕事場だけの姿しか見ていないが、「ああ、こういう作品を創っていたんや」と違う角度から見ることが出来た。
今日は、形こそ違え、自分を「表現する」ということを考えた一日であった。