素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

授業時間は確保したけれど

2009年08月26日 | 日記
 担当者が四苦八苦して、授業時間をバランスよく確保している一方で、病欠や産休の先生の代わりの講師がすぐに配置できず、授業を長期間自習にせざるを得ない事態が多くの学校で出てきている。

 市内で登録している講師の絶対数が不足しているのである。中学校は、教科がからむから、さらに深刻である。生身の体、病気にもなる。若い教師が増える、産休、育休も多くなる。授業時間の確保も大切だが、授業をする人を確保する方がもっと大切である。講師不足問題の解決を最優先すべき時期にきているように思う。

 教師生活を続けていくと、40歳前後で、大きな岐路を迎える。2つの道の選択である。1つは、現場で、生徒と直接接し続ける道。もう1つは、生徒と離れ、教育委員会又は管理職への道。どちらを選ぶにしろ、それなりの覚悟がいる。覚悟は何かを捨てることである。二兎は追えない。

 私は、前者を選んだ。狭い現場という空間の中で、目の前の生徒達を相手に、喜怒哀楽の毎日を送った。後者を選んだ人は、広い視野を持ち、教育環境の整備に智恵を出し合ってほしい。

 講師問題の解決の糸口は、待遇改善だろう。正教員と同じ責任と同じかそれ以上の仕事に従事しながら、報われないことが多い。意欲のあった人ほど失望し教育現場から離れていくということも聞いた。
 ただ、狭い現場しか知らない者には、法律を含めいろいろな課題はわからない。その部分は、現場を離れ、行政への道を選んだ者にがんばってもらいたい。日本全体で失業問題をかかえている今だからこそ、発想をかえて何かいい方法は考えられないだろうか。リタイアした人間にたよるシステムでは、限界がある。

 『始業式』という言葉を聞いたら、勝手に頭が動き出した。言いっぱなしは基本的には嫌いだが、今回は許してもらおう。
 
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枚方市では、今日から2学期

2009年08月26日 | 日記
 枚方市では、今年から2学期のスタートが1週間早まった。長い2学期が、さらに長くなる。今朝のニュースを見ていると、全国的にも、今日が始業式の所が増えているみたいだ。最初は生活リズムなど、とまどうかもしれないが、かつての土曜日が休みになる週5日制への移行の時と同じで、慣れていくだろう。
 今、一番心配されているのは、新型インフルエンザの感染のほうだ。春先から夏休みを過ぎても流行の衰えはない。始業式から、学年閉鎖という学校も出たみたいだ。

 枚方市の中学校では、たぶん授業時間数の確保ということが気がかりになっていると思う。春にも府下一斉に学校閉鎖をおこなっているので、2学期に、学級、学年、学校閉鎖があれば、非常に困った事態になる。

 枚方市では、7~8年前から、授業時間の確保ということで、教育委員会への実態報告と委員会からの指導が厳しくなってきた。担当者になったことはないので、肌身で感じたわけではないが、大変な労苦であったことは、傍で見ていてもわかった。特に、ここ3年ほどは、総時間数だけでなく、各学年(学級)、各教科のバランスのとれた時間数の確保まで要求レベルがあがり、そのために、非常に不自然な時間割になる日もでてきていた。
 祝日法の関係で、月曜日が休みになることが多くなり、担当者は月曜にある教科の授業時間を保障するために、1年間を見通してプランをたてていくのである。そのようにしてやっと、要求されている時間数を確保するのである。学年の教科によっては、1時間たりとて余裕のないものもでてくる。行事で抜ける授業は事前に計算できるが、閉鎖のような突発的なものは、計算が出来ないし、期間も長いので、場合によっては、通常の時間の中では回復不可能ということも起こる。

 今までは、幸いなことに、担当者の人知れない所での努力によって、なんとか乗り切れたが、今年のような、新型インフルエンザの長期にわたる異常な流行下ではいかんともしがたい事態になってもおかしくない。

 じゃ、どうするか。世の中何が起こるかわからんという大原則がある中で、まるで「数独パズル」を解くような、がんじがらめの報告と要求をやめること。各学年の総時間数ぐらいの報告に留めること。細かいことは、各学校の管理職におまかせすればよい。
 枚方市の歴史の中で、他市よりも厳しい姿勢で、教育委員会が授業時間の確保ということを打ち出してきたことは理解している。しかし、極めて細かい部分までチェックをいれるのは終える時期にきたのではないかと思う。ちょうど、新型インフルという、今まで経験したことのないケースの出現が、いいきっかけだと思う。

 今朝、ニュースを見てから、花木に水をやりながら、頭の中に出てきたことを、フィルターにかけずに 出してしまいました。
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たわいもない 年の差の話

2009年08月25日 | 日記
 昨日、職場の元同僚と話をした。話の中で、年の差のことが出てきた。もうすぐ45になるか、45になったかは、もう定かではないのだが、とにかく私とは13違うということになり、そのことを巡ってとりとめのない話が続いていった。その時にはふれなかったが、年の差ということには ちょっとした思い出がある。

 数学の教師をしていたから、当然、授業の中で数字をあつかうことが多い。いろいろな単元で、2つの数字を比べるということが出てくる。そういう時には、必ず、V.S.O.P.(Very Special One Patternの略)を恐れず、次のようなことを話す。

 「生活の中で、2つの数を比べる時って、たくさんあります。たとえば、身近なことで、中間テストで50点やったのが期末で70点になった。この喜びを1つの数字にして伝えるには、2つの方法がある。1つは加減で伝える。もう一つは乗除で伝える。これしかないのである。なぜなら、計算は死ぬまで加減乗除の4つしかないから。
 前者だと70-50=20と頭の中で計算して『中間より20点もあがったで』
という、後者だと、70÷50=1.4として『中間の1.4倍やった』という、もうちょっとひねりを入れて『14%アップ!』という言い方もある。
 これはテストに限らず、ダイエットでの体重。スーパーでの値引き。塾の合格者数の比較などに、どちらを使った方が、受け手にインパクトを与えるかを考えて使い分けてるから、せっかく数学を勉強してるんやから、意識して見ていって欲しいな。200円を100円にする時、100円引くというか半額というかや」などとしゃべっている時、《愛があれば年の差なんて》という古い歌も思い出し、「年齢はあまり乗除を使わないな」と口に出したとき、頭の中で(ちょっと待て)の声がした。

 授業は、本題に進んでいるのだが、頭の中は(年齢差)で止まっている。当時35歳になった私は、帰省した時、父親との関係が微妙に変化してきているの感じていた。高校生の頃はずうっと遠い存在で二人でいてもほとんど会話がなかった。最近は、自然な感じで話をするようになってきた。年の差26は同じなのに。そこで、2人の年齢を加減でみていると、永遠に26の違いがあるが、乗除でみてみると18の時は、44÷18で2.44倍だが35の時は61÷35で1.74倍となり、値が小さくなる。微妙な関係の違いはこれか!なんてわけのわからない感動を勝手にしていた。口に出せば、確実に『変な人』になってしまう。いままで誰にも言わなかったが、もういいだろう。

 「先生とは13違う」と言われた時、私が「う~ん、加減で考えると、永遠に13の違いのままだけど、乗除で考えると、私が教師になった23の時は、23÷10で2.3倍の開きが、今では、58÷45で1.28倍となっている。もし、あなたが私の年齢になったら71÷58で1.22倍になる!100になったら87で1.14倍やで!!」なんて興奮気味にしゃべり始めたら、聞かされている方はたぶん、頭の中は「?????」となり「それがどうしたの?」となるだろう。

 それがどうしたと言われたら、答えようのないくだらない計算をしていることぐらいはわかる。せいぜい「お互いに、長生きしような。ということかな?」とはぐらかすしかない。
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忘れられない連載

2009年08月24日 | 日記
  第2、第4月曜日は、子ども会の取り組みで、古紙回収の日となっている。ダンボール、雑誌、本などは普通の業者は嫌がるのだが、これを請け負っている業者は紙であれば、すべて持っていってくれるので有難い。
  そこで、2週間に1度のペースで、今まで置いてあった古い雑誌を片付けて出すときめている。今日で、やっと、雑誌類は95%片付いた。その中に、どうしても捨てられない連載があった。

  和光大学の丸木 政臣氏を中心に活動していた全国生活教育連盟の『生活教育』という雑誌の1984年7月号から1年間(全12回)連載された《子どもの荒廃に挑む~学校再建の道を求めて~》である。書いてる人は 能重 真作さん。

  能重さんは、足立十二中での生活指導の実践を「ブリキの勲章」という題で出版し、ベストセラーになり、映画化もされ、生活指導のカリスマ的存在であった。“ヤンキー先生”でもそうであるが、1度マスコミで取り上げられ、話題になるとその後、なかなか地道な教育実践はできなくなる。という風に、私は思っていた。

  来月から、能重さんの連載が始まるという予告を見ても、どうせ自分とは違うスーパーマン先生の報告だろうと期待していなかった。25年前で当時33歳の私には、マスコミでちやほやされる先生は信用できないという偏見があった。

  そして、連載第1回を読んだ時、衝撃を受けた。内容は足立十二中から荒川四中に転勤し、荒れた状態の中で苦悩する姿を、ありのままさらけだしていたのだ。それでも、どうせ、回がすすむにつれ、劇的によくなっていくに違いないと思っていた。

  しかし、連載がすすんでも、無秩序な状態は遅々として改善されない。日付けをみると、8回になっても、4月のことが話題である。毎日の悪戦苦闘ぶりが想像できた。第7回の中の、《ささやかな励まし》という部分を抜粋すると

 *そんなある日、私を励ましてくれたうれしいできごとがあった。忘れもしない始業式の日から1週間ほどたった、4月13日のことである。
 その日の学級日誌に、次のように書いてあったのである。“先生、いつまでも元気に頑張ってね” その日の日直の一人、石川澄子という女生徒が書いたものである。「私を励ましてくれたうれしいできごと」というのは、たったこれだけのことなのだが、子どもから学級日誌を受け取り、廊下を歩きながら この一文を目にした時、「感激」と言ってもいいような熱いものが胸のうちにこみあげてくるのを感じたのである。まさに、「地獄で仏を見る」思いであった。
  私は、職員室にとんで帰ると、子どものようにはしゃいで、そこにいた先生たち誰かれかまわず、その学級日誌を見せて、しゃべりまくった。今考えれば、なんとたわいのない自分だったのだろうと思うのだが、当時の私はそんなささやかなことでも励まされるほど、精神的にまいっていたのである。*

  連載の最後は、9月の修学旅行への取り組みについて書かれていて、教師が引率しても統率できないのならと開き直り、班による自由行動を打ち出し、成功するところでおわっている。(完)ではなく(未完)とうってあった。

  1年間、連載を読みながら、実態のすさまじさもさることながら、その中で苦悩する姿を飾らずに出してくれたことが、規模は違っても、同じように生活指導で日々振り回されている私にとって、元気を与えてくれた。「成功」物語より「未完」物語のほうが 心に、より響く。
  能重さんは、三十年のベテラン教師であった。そして、前任校では生活指導の輝かしい実践をされ、全国的にも名が知れ渡った人である。それでも転勤先では、そのことは通用しない。一から実践を積み上げていかなければいけない。という厳しい現実を教えられたと思う。
  同じ学校に勤務を続ければ、周り(生徒、保護者、同僚)に対して一定のイメージが出来上がり、指導がスムーズにいくことがよくある。でもそれは、新しい学校では通用しない。前はこれでうまくいったのにという意識を捨て去り、一つ一つ、賽の河原ではないが、石を積み上げないといけない。これが、年齢を重ねれば重ねるほど結構つらいものである。

  この連載を読んだ当時は、10年目ぐらいだったのでそこまで深く考えなかったが、20年、30年と勤務を重ねるにつれ、この連載が心の支えになったことは確かである。

  これだけは、捨てられず、切り取って製本した。ずい分古い実践だが、基本的には今、学校でおこっていることと通じる。自分の手元に置いておいても、意味がないので、勝手に、心ある人に押しつけようとおもっている。    
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デジブック 『みちのく三大半島の旅』

2009年08月23日 | 日記
デジブック 『みちのく三大半島の旅』


四苦八苦して、ようやくここまでたどりつく。旅行前から、一度こういう形で記録を残したいという思いがあった。しかし、まだまだ技術と知識不足を痛感。日曜までにはと期限をきっての作業。少し、ホッとしている。
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