続・知青の丘

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去年と今年の現代俳句評論賞について~ 「後塵を拝した」のは誰か

2020-10-03 13:30:54 | 俳句
私、加藤知子は、
「高漂浪」(たかざれき)する常少女性―石牟礼道子の詩の原点へ
というタイトルで
今年度2020年度の第四十回現代俳句評論賞に応募いたしました。
(この応募作は、句集『たかざれき』に併録しています)

その評論賞選考委員・高野公一氏の選後評が
『現代俳句』10月号において
「昨年度の受賞作を越えるところが無く、後塵を拝した感は免れない」
と掲載されています。

高野氏のこの選後評からは
昨年度(2019年)の武良竜彦氏の第三十九回現代俳句評論賞受賞作
「桜の花の美しさようなあー石牟礼道子俳句が問いかけるもの」が、
『We』7号の私の先行石牟礼道子論と被っているところがある
ということになります。

その理由は次のようなこと。

私は、今年度の応募の際、
現代俳句協会に『We』7号を添付して
原稿を送っています。

だから、高野公一氏も
2019年3月1日発行の『We』7号は
選考の際に読んでおられるはずです。

わたくしの論の発表のほうが
武良氏の論より先行しています。
私の今年の応募作は、これに加筆しており
俳句作品を増やし
(8647字で規定数に満たなかったため)
ページ数を30枚までもっていったところはありますが
方法論も変わっていません。

もっと厳密に言えば
谷口慎也代表が発行している『連衆』No.82
(2019年1月発行、30~31ページ)掲載の
「律動し行動する常少女性~石牟礼道子の詩の原点へ」から
石牟礼論の拙論の発表は始まっています。
タイトルは少し違いますが、
内容(切り口)は同じです。
ただし、一人2ページという縛りがあったため
その前半にしかすぎないですが
後半は『連衆』No.83に掲載。

『We』7号の発送は、2019年2月27日。
評論賞の締切は同年3月31日です。

「後塵を拝した感は免れない」と
第三者の高野公一氏はおっしゃっていますから
私の主観ではなく、
彼の見解によって
私の主張が裏付けられたということになります。

だれが「後塵を拝した」のか
どちらの評論が「後塵を拝した」のか

ある知人が『We』7号拙論コピーを武良氏に送ったことから
武良氏からは
「T氏を経て」、「『We』7号を読んだ」
旨の長文の手紙が来ました。

兎に角、『We』7号の拙論と
昨年度の武良氏の論とを比べてください。

高野公一氏におかれましては、それを読まれたうえで
「昨年度の受賞作を超えるところがなく、後塵を拝した感は免れない」
という論評を下されたのかということを
確認したいものです。

高野公一氏の選後評には
むかっ腹が立ちます。
私の論に「後塵」とよくも使ってくれました。

ちなみに
『We』7号は、手前どもの『We』発行所にはもう1冊もないので
現代俳句協会や鳴弦文庫、日本現代詩歌文学館、国立国会図書館などに寄贈してありますから、
お暇な方はお読みください。

お時間の無い方のために
短歌俳句誌WeのブログにUPしました!!

武良竜彦氏の評論賞受賞作品はこちらで

このような論争はいいことです!
表現者の良心を問いたいものです。

(追記1)
おともだち同士や結社内で賞をあげたりするのではなく
協会内部の会員相互間では、開かれた場で開かれた議論を望みます。
(追記2)
現代俳句協会に質問状を出したら
私が、評論賞応募する時に添付した『We』7号は
公平性の見地から、
選考委員の方々にはお知らせしてはいないということでした。

でもね、公平性を盾にとるというなら
先行論文を選考委員に知らしめるほうが
遥かに公正明大ではないでしょうか。

結局のところ、賞は結社の力(後ろ盾)なんですよ。
と言われても仕方ないのでは?






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