神の黙示は、則ち、吾俯仰観察する宇宙の霊力体の三大を以ってす。
一、天地の具象を観察して真神の体を試行錯誤すべし。
一、万有の運化の毫差なきを以て真神の力を思考すべし。
一、活物の心性を覚悟し、真神の霊魂を思考すべし。
霊学の要は浄心にあり。
その証しである鎮魂石をもって、そこに、意識を集中する。
その証しである、磐笛を以て、神界と人界を宥和するのであります。
鬼雷述べる。磐笛とは神霊を呼ぶ為の神石ではありません。人と神と磐笛の精霊と共に、地球を癒す、神と人と精霊を和す、音霊の発露で御座います。
共に神縁ある身魂に授かれし神石でございます。
神が、鎮魂石や磐笛を授ける由縁は一重に、随神あるのみであり、神は常に、人との繋がりを大切にされておられます。
ただの、自然に落ちている石。そのただの石は生物で無い為に、地球創世から億年と活きているので御座います。。。神なる石をもって活石と申しますね。
鎮魂石は一センチ内外の玉石、真丸に近い石であります。
磐笛は吹けば鳴る石。共に自然石であり、鎮魂石を水晶石に代用するお方もありますが、それは、ナンセンス。磐笛をお金で買うのもナンセンスでございます。
鎮魂石、磐笛は神域の海岸や川、縁ある神社にて賜れれば、良き哉。
扨て。
最初は、鎮魂印を示し、吾が御魂や心が鎮魂石に入り至り、尚且つ、天之御中主大神に通じると思念もする。
言わば、鎮魂法とは、人々の生活想念から、神為る存在に意識を変える行いでもあります。
鎮魂の法。
「神霊に通じ、神の御心を覚り、その心を吾が心として、まつりごとに誤りなきを期す。」
「人間の奥底に眠る天授の霊魂を神霊との交流によって目覚めされ、自己の霊魂を覆っている先祖からの罪穢れを神霊の御光に浴する度に、一枚一枚薄神を剥ぐように、徐々に祓い清めて、遂に本来の神授の霊魂の輝きを発揮し、遂には、霊肉分離し得て、自己の意志に基づき自由に霊魂の運転活用を計り神霊に接して神慮を覚り、神の御心を吾が心として、霊止(ひと)たる、道を完(まっと)うせんとする神法である。
かつて、戦前の大本教では、大本霊学として、出口聖師が受けられた神伝の鎮魂法と本田親徳霊学の鎮魂法帰神術をもって、神人合一の法として、その行法を行っていたが、みな、神による不可思議な神憑りに心を奪われて、その基(もとい)の鎮魂法をおろそかにされた。ゆえに、常に低級霊が憑きまとい、出口王仁師は、この道を断念されました。
言わば、御魂相応、心相応の神霊としか感合せず、多くの大本人には、真の神使が懸かることが無かった事によると考えます。
現在の大本教にも、鎮魂法があるようですが、一種の精神集中する為の行法であるようであり、真の鎮魂法では無いようです。
ちなみに出口聖師に縁ある身魂の信仰者は、霊界物語を音読されることによって、弥勒の世の到来を成す神業として、奉仕されておられます。
予言のみ、好きな信者は、ともすれば、妖言過言に、脱線するなり。
占いを、好きな信者は、ともすれば、自己の内神、覚えること無し。
神の道を歩む者には、全て、ありがたく、病、苦しみ、楽しみ、孤独、仲間たち、家族、全て嫌悪せずに、受け入れる。占いに頼らず、預言を好まず、随神のごとく、惟神のごとく、自然に従順であるのみ。
悪しきこと、破滅こと、良きこと、学べること、なんにでも、ありがとう。
(鬼雷述べる。私は、このような、綺麗事は嫌いであり、私自身、善なる者を愛し、悪なる者を憎む心は百倍界王拳であります。されど、此処に到達天、恬然であります。ああ、嫌いな者に心からありがとうと言える日が来るのであろうか。ああ、かむながらたまちはえませ。)
魂(たましい)は、賜りしヒ(霊)
「幽冥に通じる道、唯其れ専修に在り
」「鎮心活動」「神性の発揮」
「或いは己の霊を以て己の霊に対し、或いはおのれの霊を以て一人の霊に対し、或いは己の霊を以て一国の霊に対し、或いは己の霊を以て億萬無数の霊に対す。」
本田親徳翁。
鎮魂は、その人の強い意志と真心、努力さえあれば、専修によって一定の境地には、誰でも達するものである。
霊学は「真心を練る法」であり、これによって人生の意義人たる道を覚り、社会国家に各自の天職を通して、奉仕の誠を尽くすこそ、霊学の真の目的である。
鎮魂の要諦は、自己の奥底に眠っている霊魂の運転活動にあり、心が騒然としていては、魂の活動も発揮できないのである。(鬼雷述べる、渡辺勝義師は、鎮魂中、無念無想とならなければ、それは、真の鎮魂と、ならないと申されておられます。)
鎮魂は魂降り、魂触れ、魂殖ゆ、祓い、受霊等、密接に関連する。
即ち本田翁によれば、鎮魂の要諦は自己の霊魂の運転活動にあり、鎮魂の法を修する事により、霊肉分離の境地を会得し、ついで神界に出入りし得て、様々なる神霊の実在を探知し得るに至ると言うものである。
神ごとに、お仕えする時に一番気を付けなければならない事は、そこにお仕えする人が、見苦しい人間心(自我)を出して、道を穢し、知らず知らず、尊い御神業を、ご人業に堕とせしめてしまう事である。
神の道の畏しさ、厳しさというものを、知らない者は、おうおうにして、こうした誤りを犯すものであるから。
(鬼雷述べる。神の道とは、人欲を排した天理に至り、人心を捨て道心あるのみでして、人の見ていない日常生活のなかで、如何に神に仕えられるかが課題であると考えます。「小人閑居して不善を為す、のち君子を見て嫣然とその不善を覆い隠し、善を表す。」)
渡辺勝義師。
何事も鎮魂が必要である。
ある事を成さんとせば、まずその始めに当たって、いわゆる鎮魂をなさねばならぬ。
すなわち、四散している霊をその点へ集中する事が必要なのである。
もし、この事なしに着手しても決して成し遂げられるものではない。
レンズで集中すれば太陽の光線も家を焼く事ができる。
われわれの意念でもこれを一点に集めなければ、けだし、思いもおよばざる、大偉力を奉ずるのである。
吾人の生活の常住坐臥、これ鎮魂の姿勢でなくてはならぬ。
鎮魂の出来ない人は、一生涯になに一つできようはずがない。
吾が人の活動の準備としては、先ず何より第一に鎮魂の修業をなすべきである。
鎮魂の極地は、時、処を超絶しうるのである。
しかして、心身が健全でなくては、真の鎮魂は出来ない。
出口日出麿 運霊師。
かつて、出口王仁三郎 尋仁聖師は、鎮魂法帰神術を断念されました。そして、大本は聖師亡き後、神伝の鎮魂法は失伝されました。(本田霊学を継承されている方も殆どのおられないかと考えます。)
そこで、昭和の時代、大本の御神体を崑崙山へ遷神した、笹目秀和仙人は、戦後、和の大本、中の道院の連携をもって、神伝の先天坐法を鎮魂法の復活とし、大本と道院により、霊界物語の三五教のごとく、より弥栄に、綿密になろうとされましたが、当時の大本の三代教主直日さんはこれを拒絶されました。
出口聖師亡き後、大本教では、道院紅卍字会は中国の宗教であり、かつて、大本皇大御神=至聖先天老祖と唱された事実は失われて、別の神さまとなっていたからであります。
鎮魂法と先天坐法の違いは何であろうか。
鎮魂法は鎮魂石を以て、意識を集中する。
先天坐法は、意識を放棄し、虚心で坐る。
共に至る頂きは同じで御座います。。
鎮魂法は舟を自力で漕ぎ至る道。
先天坐法は筏に乗り自然に任せて流れて至る道。
自力あり 他力とありて 合わされば 十字の光 全てを救わん。