玄徳道

道を語るブログです。

尚真人訓(南極老人を仲介され、天帝老祖を現化された、礎の神仙)

2022-06-30 20:45:00 | 道院
人生は、身を治めることが根本である。

身を修めるには、心を正す事が肝要である。

心を正すには、意を誠にすることが先決である。

心とは身を主(つかさど)るところであり、意とは、心の起こるところである。

いわゆる、「その意を誠にするとは、自らを欺くことなきなり、悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如し」(大學)と。(注 好色を好むとは、欲心の代名詞であり、ここでわざわざ大学で記されている意は、大善を好むが如しの意であります。多くの人は真に好色を好まれておりますが、その道は、上辺だけの世界であり、実相世界の美意識とは異なります。)

誠意正心。

これは、本心より出た自然の発露であって、外面をいつわり飾っている状態ではない。

もし、意を誠にすることによって自らの、慊(快くすること)を求めれば、心は正しく無いことはなく、善く意を誠にすることを、推して他人に及ぼせば、感じて通じないものはない。

したがって中に誠あれば、外に形(あら)われる。

そこで、君子は必ず、その独りを慎むのである。

蓋し、意の起きるところには善があり、不善がある。

これは人の知らないところで、自分独りだけが知っている境地である。

故に意を誠にするか否かは、まさにこれ善と悪、昇と沈のキーポイントであり、又聖人と狂人、人間と禽獣の由って分かれるところで、全ては自分の心意によって決定する。

そこで篤く修める者は、天理を存して、人欲を去り、善を為して悪を去るだけである。

もし、一念の発するところが悪を悪(にく)む、ことにあれば、即ち誠誠実実に、善を好んで行い、一念の発するところが悪を悪むことにあれば、即ち誠々実々に悪を悪むことを行い、この心意に基づいて善を為すには、当面の事柄について、全力でこれを為し、この心意にもとづいて悪を去るには、日常生活について、旧い(悪い習慣)を洗い流して、自ら新しくなることである。

悪を去ればもとより、善に遷ることが出来、善を為せば自ら悪に遠ざかることが出来、皆、その不正を正して以て正に帰し、徹頭追尾、内より外に達し、自らの修を純粋に全うすることが出来るのである。

明らかに善と分かっていながら、誠意を以って実行しないのは、善を好むところの初めの衷(こころ)に違うことになり、既に悪と分かっていながら、誠意を以てこれを阻止しないのは、いぜん、自らその悪を悪むところの本良(本来の良心)を昧(くら)ますことになる。

少しでも違うところが有って定まらなければ、たとへ、最初の意念は良くても、それが、一念の心変わりによっておかしくなるのは、多くが識神(知識による偏向)、客魄(客は欲心であり、魄はそれを喜び従う汚い心)の為に奪われて、自らの身心の主宰を失うからである。

故に王陽明は良知を直指して、これを致すところの功を貴んだ。

いわゆる良知を致すとは、また、その誠意を推し極めて、これを実修に証するのであり、真に能(よ)く、その良知を欺かないもの、その意を誠にすれば、心は正しくないものはないのである。

意が誠で心が正しく、身が修まって道が立ち、俗塵によって乱され、情欲によってひかれることなく、世俗の悪習に染まり、時勢に流されることがなければ、吾が心の虚明霊覚は遇うところの縁にしたがい、感ずることろに応じるので、それは衷(うち)より自らの発するものであり、これを本意(本来の意)というのである。

その意を誠にして以て親を愛し兄を敬えば、自らの孝悌の道に合し、その意を誠にして、以て君に仕え友に交われば、自らの忠信の道に合し、その意を誠にして人に対し、世に処すれば、礼儀の道となる。

その意を誠にして世のため、人のためにすれば、化度の道となる。

吾が心の良知に基づき、虚中の真意を充せば、自ら理にしたがって分を盃くし、素位(中庸に「君子は素位にして行い、其の外を願わず」とあり、君子はそのおかれている境遇、位に全力を尽くし、勤めるべき事を勤め、外にその報いや期待を考えないこと。)にして行う事ができる。

その事に因ってその事に応じ、縁にしたがって縁を悟り、常に処し変に処し、平常に臨機応変にも対応できる。

この故に純全の修功は、自らの体用に徹し、真実の徳行は形式にこだわらず、誠孚の感応は、その地域だけに限らないのである。

ただ、至誠なるが故に至純であり、ただ至純なるが故に至真であり、ただ至真なるが、故に至善である。

修子はこれを明らかにして、己れ自身にとって最も切実なる身心に自ら問うて、意念の初めに起こるところ、即ち初一念から体認黙省(黙して省みる)すべきである。

隠れて幽(奥深い静寂)なるところの人心と道心のきざしが、顕れては日用の人倫の常となり、さらに起居進退辞受取興(辞退と受諾、取ることと与えること)の至順逆窮通より、とっさの間や緊急存亡の時に至るまで、誠意正心の修練に努め、表裏始終を貫徹させて、正宰は常に直く、天地に愧じることなく、天地にありて肖子(立派な子)となり、宇宙にありて完人(完全無欠な人)となることが出来る。

諸修は努めよ。





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