玄徳道

道を語るブログです。

悩み道。

2022-06-08 19:24:00 | 神示道
人なる種は、必ず悩むことあり。

利己主義な悪人でも悩む。真面目な人から、見れば勝手きままに、生きているようで、実に悩んでいる。それは、古参のパートの親分のおばちゃんでも、マフィアのボス、暗殺集団、八九三やくざでも然りなり。

例えていえば、安寧する仕事、公務員にしても、その仕事で悩んでいる。

多くの聖職者を観ても、多くの神主や巫女を見ても、安心立命を得ている者は、非常に少ない。

また、スピチュアルの世界の活動する人、霊能により、セッションをされる人々、レイキで活動される方、全てがその活動をするほど、悩み苦しんでおられる。

宗教やスピチュアルによる、答え合わせは、活動や因果律、心の顕現をもって、道とする。

一時の納得も、また、不安が生まれて、悩むなり。

人は知らないのである。

悩める素晴らしさを。

自死する程の悩みが素晴らしいとは、如何に。

天や地や、動物は、悩んで死ぬことは無い。

悩んで自死すれば、地獄に陥る。そこから、復活することは、皆無のようであるが、それでも、悩む心は、素晴らしい。

そこには、暗黒の世界がある。常にぼやき、恨み、怨み、妬み、嫉み、愚痴をぐちぐち述べ、自らを堕すのみ。

悩み、死んだ人間は、残念であるが、太乙北極真経の炁水は、甘露水となり、自死された存在も最終的には、済う事を此処に記すなり。

悩める、善人と悪人は、幸いである。何故ならば、悩みは、心を常に動かすからである。

心が動く、躍動は、神が授けた、人の幸魂の発儀でもあります。

悩みをもって、人は、あらゆる道を求めようとする。

求道心なり。

坐道を歩む人間も相当に悩むなり。

坐して、悩みごとが無くなることは皆無で御座います。

坐して、悩んで、何のこっちゃと思うかも知れませんが、坐の道は、安楽なる、引退や隠居、出家して、山に入り人との繋がりを捨てる道ではありません。

多くの人々は人との繋がりが無くなれば、悩みも少なくなるようですが、そこに道慈はありません。

坐の道は、人と繋がりを持ちながら、坐して、一時、心を忘れる道でございます。

即ち、坐忘。一時、無敵ワールド。

人としての、生活や働きの中、どうしても社会生活には、人との繋がりがあり、交わります。

嫌いな人、文句を言う人、合わない人、悪口陰口を叩く人、虐めてくる人、優しい人、愛くるしい人、合う人、さまざまな人々と交わり、様々な、ストレスを蒙ります。

坐は、その最中に、そのストレスを軽やかにし、忘れさせる道であります。

扨て、全ての人は、悩んでいます。それが人間なる種であり、縄文人も弥生人も、歴史を振り返れば、幸せな時代であったと、妄想しようが、その時代の人々全ての方に悩みがあったのは真実でございます。

悩みとは、人の暗黒面であるかのようですが、人々が、悩んだからこそ、進化へ、神化への道があったと考えます。

陰極まりて陽、ようですが極まりて陰。

神は陰陽ありて、中府に、スあり。

スは、我無く、意図なき、産心なり。



産む心とは、愛であり、愛の「あ」とは、天であり、「い」とは意志であり、愛とは天の意志でありますが、愛の字句を鑑みるに、旡と心、久を以て愛と完成します。旡は無心であり、心は有心であり。久は時間を表し、即ち愛とは有心と無心との発露こそが悠久の現れであり、悩みもまた、無心と有心とのせめぎ合いでもあります。

故に、多く悩める者にこそ、大愛があり、多くの悩みや経験により、慈しみの心となると考えます。

仁とは、慈愛の意味を持ちます。仁とは人が二人と書き、二人の人がおれば、互い思い遣りをもつ、象徴の文字であり、悩み傷ついた事があるほど、人は優しくなれるのです。

まあ、なんせ、神もまた、悩む存在である。悩める人類の御祖である由縁でございます。

人間
しまつに おえんなあ
ゆれ 動いて
うおうさおう
浮き草さえも
時々かまくび
もたげて刃物になる
いつも 汗かいておる。

気を配りすぎるのも
ほねがおれる
無神経にも
いらいらさせられる
どちらにもかたよらないでと
様々な人間が
用意されている
決めるのは はやすぎる
体の中から突き出てくる声が
本当の声
ゆったり学べばよいのです

愛をいっぱい受けて育ったことを
愛を与える立場になって
人は 初めて知る
小さな者は 暖かさを
柔らかさ かぐわしさを
与えられた喜び
親から受けた愛を
子にいっぱいに注ぐ
それは定められたものです
小さな者を
しっかり抱きしめられる
その 充実感を
大切にしたいものです。

迫登茂子。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欲と神の道。

2022-06-06 19:53:00 | 神使道
住之江の神
位(暗い)やま、峰の桜をかざしても、人は物をや、なほ思ふらん。

人の心には欲がある。そして、欲無し人は、死骸でもありますが、なんて。

仕事欲、名誉欲、金銭欲、支配欲、安心欲、家族欲、恋愛欲、神様欲、etc。

されど、無欲の中、無心の中にも超意識もあり。

私がかつて、教わった日本紅卍字会の前の会長でもあり、深見青山氏の師でもあられた、故根本誠乾(道名)師は、良く言っておられました。

「人欲を排し、天理に還る。人心を捨て道心に帰る。天下にあっては、無くてはならない人になるか、有ってはならない人になれと。」

即ち、中途半端な人間になるなと、言われておられました。

善も悪も、極めれば、この地球において、光なる輝きもあり、真なる暗黒もあり、そして、条件が調うと、宇宙へと参画を意味します。

何故ならば、闇も光も神の領域であるからであります。

そして、根本先生曰く、「私は、根本宏(本名です)。根本なる、根元を拡げる役割があると。」 

名は体を表す。

道慈の道に於ける根本は大切であります。

根本先生は、大学中庸孔子孟子易經に通じておられましたが、中庸なる太極を得られなければ、善を超えた勇猛を為せといわれておられました。

すなわち、腐儒の如く、学説や理屈に拘り、行動を起こさない、腐った人間に成るなと。

故に、師の感化を受けた、私は、大善人でも、大悪人でも、宇宙自体に、その意義なく、神は、人にその、活動に重きを置くと考えております。

故に、神は悪を為して善とし、善を為して悪とし、善悪あわせて、神の働きとすると。

すみません。

さて、単純に人の欲を悪しきとは言えません。欲があるからこそ、目標があり、使命感を感じ、行動するからです。

神様に携われる人の中で、神に仕える人の多くが欲するのは、人気欲であります。尊敬して欲しい欲。

神に仕えると称しても、無形の神に認めて貰うより、多くの人々から、尊敬されるほうが報われると。そして尚且つ、金銭に恵まれればと。人気者となり、鼻高々と。

ははは。

神の道とは芸能に非ず。また、民主主義や共産主義ではない。

確固たる。そして、

神の道とは組織に非ず、孤独あるのみ。

神の道に金銭は絡まない。

神の道に自己顕示無し。

ただ、人知れず行う道々の働き。

そして、愛と真心があるのみ。

もし、貴方が、神の道を歩んでいる、つもりでも、金銭を受けたり、接待を受けたり、賞賛を受けたり、すれば、その全ては人事と成り、神事と離れてしまいます。なんせ、真に賞賛されるのは、共に働いておられた、神であり、眷属神にでありますから。

神の道は無償であるのみ。

されど、多くの神なる社や聖域、神域には、保全する経費が掛かります。そこに於ける矛盾は無く、個人的な霊的背景により、私欲あるか、公であるかに因ります。

そもそも、神業とは、表も裏もありますが、神に対して、誠あるのみでございます。

誠に表も裏もございません。

本田霊学でいえば、顕斎と幽斎があり、人の生活における祈願が顕祭であり、人のカルマに対するが幽祭であります。


さてさて、この間、久しぶりに、早朝に西宮神社にお参りしました。

身体が震えるほど、気持ち良かったです。

その感合はどこからくるのであろうか。往来する行動と、神に親しむ心から来るのでした。

これは、お覚しであります。

磐座磐境のみを神聖視する偏見なる心をへの戒めでございます。

また、住吉大社では、何年かぶりにおみくじを引きました。引きたくて引いたのではありません。

私は住吉大社で引くおみくじの大半が凶である事が多く、また、おみくじによる吉凶による、心の変遷を無くす、べく、また、神の直心に叶うべく、おみくじを引いておりませんでしたが、何故か、引いてしまいました。

坐して、十数年。欲を無くしていた、つもりが、まだまだ、人に慕われたいと思う欲があり、神に使われたいと、思う欲もあり、まだまだ、身も心もからっ尻とは、生きません。すみません。申し訳ございません。


かつて、私はコスモメイトなる組織の出身でありました。。若い時ですが。今は、どこの組織にも汲みしていませんが。

そして、深見青山さんは、神人合一とは、人が、神か人か区別出来ない人ような人が神人であると。

何度も書きますが、神は無欲なり。

神人も無欲なり。

ここで神人合一なる人が発揮するのが普遍的なる超意識であると考えます。

故に神人合一とは、無欲の中の無償の愛の発露。

しかし、コスモメイトの開祖、橘カオルさんは、どこに行ったのであろうか。ネットでは認知症になった云々と。彼女も道名を調べれば解るであろうが、老祖の弟子でもある。もちろん、深見正瑃さんも然り。

ただ、開祖を隠したい欲がある。

なぜ、人は無欲に正直になれないのであろう。

人気を得ようとするから。

神様に直なる人を素朴で素直と言うが。

故に、思惑あれば、神に通ぜず。

神は無欲なり。なんせ、神は欲しない。

人のみが、欲する。

真の神人なる、迫登茂子刀自は、「私は、何にも考えないの〜」と笑っておられる方。

風に向かって
胸を張り
足を踏ん張って進む時なり

やさしさは大切に
ふところでふくらませ

迷わずともよし
何にせよ
新しい旅立ちの
時になのだから。

迫登茂子。


暗い山とは、我が心でもある。私にとって、闇は我が同胞であり、そこから、育まれたきた由縁があり。

そして、尊い、老祖の弟子でありながら、我と魔道へ堕ちる憐れさがある。

やれやれだ。日々反省あるのみ。


闇になれた目がとらえる

冷たい気の流れ
すがるすべもない
振り絞った勇気もあっけなく
ふりほどかれ

冷たい星あかりまでが

振り払う

罪深き我をほどき
祓う。

迫登茂子。


元住吉神宮寺

日が登る 前の闇夜に 目に見えぬ 黎明ありて 誠を照らす。

月照らす 朧気な世に 水かがみ 

誠の道を 映してさがな。



コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松の神示道。

2022-06-01 18:51:00 | 神示道
松って、不思議に神域を育んでいる。

いや、多くの人が神域に植えたのかも知れない。

それでも、松は素晴らしい。

松ぼっくりには、多くの不思議があり、その一つ、人の松果腺なる充ちの未知の働きに干渉される。たまたま、気に入った松ぼっくりは、神棚に捧げよう。瞑想や坐の糧とならん。

松を喰えと日月神示は言う。然り。良きかな。

松はハンセン病すら、正体不明の感染病すら癒すなり。

松の世とは、一年中、安心をもって、松木と同様に松葉か、光に伸びて行く樹木精霊の世界。

神が人に与えた樹木が松なり。

松は如何なる季節でも、松葉があり、人を癒す葉と機能を発揮し、發生される。

さて。松は、実に岩に生える。

特に、神なる気を発する磐座に生える。

何故であろうか。松は最も神に近しい樹木であるから。

多く不可抗力な病を持つ者よ。松を食えよ。

効果は、簡単にでる。一日二食、少量の松葉をもぐもぐ。良薬は口に苦しの如く食べるなり。よく噛んで。

ふふふ。たまに、良く噛まないと、喉に刺さるけどね。

噛むは、神。咀嚼力とは、神の領域なり。

さてさて。

相手の心に
かげのひだが出来た時
スッと気付くのは、あなたです。

気付いた時に、進むか引くか一瞬の決断が 人生を変えます。

明るい心に回転させようと 念じれば

行動は先ず出来ます。

いつも、明るく ときほぐそうと

気持ちを神にゆだね行動すれば

心の暗いひだなどはすぐ消えます。

ぐずぐずより、

明るい行動が一番です。

迫登茂子。

私は鬼雷は、つまらん人間である。かつてのカルマにより、永い間、その精霊と本性は地獄に堕ちていた。
人は地獄に陥るべきではない。その地獄の挟まりが我を自由とする事を阻む。

いえいえ、人の不可思議な行動には、全て因果律が働いておるお話でございます。

されど、人間界には多くの不幸もあり、多くの幸せもあり、多くの魔我津もあり、多くの良識もあり、迫さんのように、救い主もおられます。

私は思います。

地獄を経験しても善き。なんせ、地獄に堕ちねば、その苦悩を知る機会がないから。なんて、事をもっともらしく、述べても、神の道では、余り+プラスとなりませんね。

むしろマイナス。

地獄の悪気に成長が皆無なり。

改心出来ず、善を理解出来ず、我あるのみ。

ゆえに、堕せば、引きかえれないほどのカルマが宿る。

故に人を殺してはいけない。人の心を犯してはならない。人の創造の邪魔をしてはならない。

「人のお役に立ちたいと思います。」

その念じ様 殊勝なり。

たとえ、小さな願いや行いであれど

積もれば、大きな山となるべし。

めぐみを受けし年頃から

めぐみを与える年頃に成長すべし。

なんじの成長の年頃いつなるや。

迫登茂子。

はい。申しわけございません。

神の道に生きて、幾星霜。それは、わずかですが。

私、鬼雷は、いつも進歩がありません。

ああ、やれやれだ。

松の如く、磐座から生えるが如く。

己が道を貫かなければならない。

なんにせよ、私には坐しかない。

ならば、松と同様に、イワ(己の(イ)意志力から、和の(ワ)十音なる神秘なる働き)に根を張らねばなりませんね。




コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする