人なる種は、必ず悩むことあり。
利己主義な悪人でも悩む。真面目な人から、見れば勝手きままに、生きているようで、実に悩んでいる。それは、古参のパートの親分のおばちゃんでも、マフィアのボス、暗殺集団、八九三やくざでも然りなり。
例えていえば、安寧する仕事、公務員にしても、その仕事で悩んでいる。
多くの聖職者を観ても、多くの神主や巫女を見ても、安心立命を得ている者は、非常に少ない。
また、スピチュアルの世界の活動する人、霊能により、セッションをされる人々、レイキで活動される方、全てがその活動をするほど、悩み苦しんでおられる。
宗教やスピチュアルによる、答え合わせは、活動や因果律、心の顕現をもって、道とする。
一時の納得も、また、不安が生まれて、悩むなり。
人は知らないのである。
悩める素晴らしさを。
自死する程の悩みが素晴らしいとは、如何に。
天や地や、動物は、悩んで死ぬことは無い。
悩んで自死すれば、地獄に陥る。そこから、復活することは、皆無のようであるが、それでも、悩む心は、素晴らしい。
そこには、暗黒の世界がある。常にぼやき、恨み、怨み、妬み、嫉み、愚痴をぐちぐち述べ、自らを堕すのみ。
悩み、死んだ人間は、残念であるが、太乙北極真経の炁水は、甘露水となり、自死された存在も最終的には、済う事を此処に記すなり。
悩める、善人と悪人は、幸いである。何故ならば、悩みは、心を常に動かすからである。
心が動く、躍動は、神が授けた、人の幸魂の発儀でもあります。
悩みをもって、人は、あらゆる道を求めようとする。
求道心なり。
坐道を歩む人間も相当に悩むなり。
坐して、悩みごとが無くなることは皆無で御座います。
坐して、悩んで、何のこっちゃと思うかも知れませんが、坐の道は、安楽なる、引退や隠居、出家して、山に入り人との繋がりを捨てる道ではありません。
多くの人々は人との繋がりが無くなれば、悩みも少なくなるようですが、そこに道慈はありません。
坐の道は、人と繋がりを持ちながら、坐して、一時、心を忘れる道でございます。
即ち、坐忘。一時、無敵ワールド。
人としての、生活や働きの中、どうしても社会生活には、人との繋がりがあり、交わります。
嫌いな人、文句を言う人、合わない人、悪口陰口を叩く人、虐めてくる人、優しい人、愛くるしい人、合う人、さまざまな人々と交わり、様々な、ストレスを蒙ります。
坐は、その最中に、そのストレスを軽やかにし、忘れさせる道であります。
扨て、全ての人は、悩んでいます。それが人間なる種であり、縄文人も弥生人も、歴史を振り返れば、幸せな時代であったと、妄想しようが、その時代の人々全ての方に悩みがあったのは真実でございます。
悩みとは、人の暗黒面であるかのようですが、人々が、悩んだからこそ、進化へ、神化への道があったと考えます。
陰極まりて陽、ようですが極まりて陰。
神は陰陽ありて、中府に、スあり。
スは、我無く、意図なき、産心なり。
産む心とは、愛であり、愛の「あ」とは、天であり、「い」とは意志であり、愛とは天の意志でありますが、愛の字句を鑑みるに、旡と心、久を以て愛と完成します。旡は無心であり、心は有心であり。久は時間を表し、即ち愛とは有心と無心との発露こそが悠久の現れであり、悩みもまた、無心と有心とのせめぎ合いでもあります。
故に、多く悩める者にこそ、大愛があり、多くの悩みや経験により、慈しみの心となると考えます。
仁とは、慈愛の意味を持ちます。仁とは人が二人と書き、二人の人がおれば、互い思い遣りをもつ、象徴の文字であり、悩み傷ついた事があるほど、人は優しくなれるのです。
まあ、なんせ、神もまた、悩む存在である。悩める人類の御祖である由縁でございます。
人間
しまつに おえんなあ
ゆれ 動いて
うおうさおう
浮き草さえも
時々かまくび
もたげて刃物になる
いつも 汗かいておる。
気を配りすぎるのも
ほねがおれる
無神経にも
いらいらさせられる
どちらにもかたよらないでと
様々な人間が
用意されている
決めるのは はやすぎる
体の中から突き出てくる声が
本当の声
ゆったり学べばよいのです
愛をいっぱい受けて育ったことを
愛を与える立場になって
人は 初めて知る
小さな者は 暖かさを
柔らかさ かぐわしさを
与えられた喜び
親から受けた愛を
子にいっぱいに注ぐ
それは定められたものです
小さな者を
しっかり抱きしめられる
その 充実感を
大切にしたいものです。
迫登茂子。