般若経の学び : 目次

2008年09月18日 | 心の教育

大乗仏教

言葉を止めると心は爽やか

智慧と瞑想と菩薩

自然な行為としての慈悲

ススキ原で思ったこと

菩薩の大きな願い

仏教とキリスト教のフュージョン?

空と一体は同義語

学びの区切りと継続

空と仏とすべてのものと

菩薩の目標は平等社会

今年のモットー:こだわらず情熱的に

長い長いお経を読む気になっています

学びは続く

大般若経の深い一節

大般若経入手

般若波羅蜜多はコスモロジーである

年頭に当り「MUST化せず精進したい・できるといいな」と思う

エネルギーは実体か?

我は幻の如く夢の如し

私を超える禅定


*般若経典の学びを続けながら折にふれて書いてきた記事が、かなり溜まってきましたので、まとめて読んでいただくと参考にしていただけるかなと思い、目次を作りました。まとめて読んで、感想をいただけると幸いです。



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私を超える禅定

2008年09月17日 | 心の教育

 いろいろな仕事の合間に、断続的に『大般若経』(国訳一切経版、6分冊)を読んでいます。

 先に第6分冊目を読み終え、第1分冊に取り掛かってから、どのくらい経ったでしょう(調べてみたら、もう9ヶ月近くになっています)。

 ようやく第1分冊(六百巻のうち七十五巻まで)を読み終えたところです。

 実に多様な、豊かな学びをさせてもらっていますが、特に最後の七十五巻の「初分浄道品第二十一之一」に「六波羅蜜多に各二種有り、一には世間、二には出世間なりと」とあって、禅定=静慮(じょうりょ)にも俗世間的なものと超世間的なものがあるという注意がなされているのに感じ入りました。


 シャーリプトラが言った、どのようなものが世間的な禅定ですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修しても、拠りどころあって次のような考えをする(場合である)。私は一切の心ある生きものに利益を与えるために禅定を実修する、私は仏の教えに従って優れた精神統一に関して正しく修行している、私は禅定を実修している、等。……彼は三つの要素に執着して禅定を実修している、一には自分という想念、二には他者という想念、三には禅定という想念である。この三つの要素に執着して禅定を実修しているので、世間的な禅定とするのです。

 シャーリプトラが言った、〔では〕どのようなものが超世間的な禅定波羅蜜多なのですか。スブーティが答えて言った、もし菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとしよう、一には私が禅定を修行していると執着しない、二にはそのためにしているのだと心ある生きものに執着しない、三には禅定(そのもの)とその成果に執着しない。これを、菩薩・大士が禅定を実修する時、三つの要素が清浄だとするのです。


 舎利子言はく、云何が世間の静慮(じょうりょ)なるやと。善現(ぜんげん)答へて言はく、若し菩薩摩訶薩、静慮を修すと雖も而かも所依有りて謂ゆる是の念を作す、我れ一切有情を 饒益(にょうやく)せんが為に静慮を修す、我れ仏の教えに随ひて勝等持(しょうとうじ)に於て能く正しく修習す、我れ静慮を行ずと。……彼れ三輪に著して静慮を修す、一には自想、二には他想、三には静慮想なり。是の三輪に著して静慮を修するに由るが故に、世間の静慮と為すと。

 舎利子言はく、云何が出世間の静慮波羅蜜多なるやと。善現答へて言はく、若し菩薩摩訶薩静慮を修する時三輪清浄ならん、一には我れ能く定を修すと執せず、二には為す所の有情に執せず、三には静慮及び果に著せず。是れを菩薩摩訶薩、静慮を修する時三輪清浄なりと為す。


 舎利子・シャーリプトラは、ブッダの弟子の中で智慧が最高と讃えられた人であり、須菩提=善現・スブーティは空の理解が最高と讃えられた人です。

引用したのは、この二人の問答によって、普通の、世間的な、つまり分別知に捉われた禅定と、真の、超世間的な、無分別智による禅定の違いを明らかにしている個所です。

 実体としての私が、実体としての生きものたちのために、実体としての禅定を修行するのだ、と思っている間は、本当の禅定にはならない、というのです。

 私も空、生きものも空、禅定さえも空、禅定の三つの要素も一切空つまり一切無分別となってこそ、ほんものの禅定です。

 「私は、深い禅定ができるようになって、境地が深まって、人の役にも立てるような人間になれた」などと思っているうちは、まだまだなんですね。

 道元禅師が「只管打坐(しかんたざ)」といわれたのは、そういう空三昧の坐禅ということであって、ただ坐っていればいいということではないことを、改めて大般若経を通して確認したという気がします。

 私もまだまだ、だから、これからだ、と思いを新たにしました。

 学びには終わりはない、と思います。




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エネルギーは実体か?

2008年08月14日 | 心の教育

 過去の記事「この世界には実体は存在しない:諸法無我」(2005.12/25)に対して、最近、以下のようなコメント・質問をいただきました。

エネルギーは実体ですね。
「実体」の3条件
①それ自体で存在することができる。
②それ自体の変わることのない本性・本質をもっている。
③いつまでも・永遠に存在することができる。
を満たしているから。そうすると、私や、色々な物体もエネルギーという実体を抱えている(エネルギーの塊)から空ではないのでないでしょうか。お釈迦様の時代には、"エネルギー不変"という概念は無かった(そんな科学が無かった)から止むを得ないと思います。
でも、未だに「すべての存在は非実体である」と言うのはおかしいのではないでしょうか。勿論、質量もエネルギーの一種です。又、エネルギーは形式を変え、分散したり、集中したりします。でもトータルのエネルギー量は変わりません。私はお釈迦様の教えは正しいとおもいつつ、この事で非常に悩んでいます。良きご指導のほどをお願いします。(後略)

 それに対して、コメント欄にはまず以下のように書かせていただきました。


 とても重要なご質問有難うございました。
 とても重要なので、ご質問をその答えを読者のみなさんと共有したく、本文記事でくわしくは書かせていただきます。
 ただ一つだけ、ここでお答えしておきますと
 阿含経などを読んでみても――私の解釈では――仏教においては教えはどこまでも方便だ、と思います。
 それは、「縁起」や「空」といった仏教の基本的教えでさえそうだと思われます。
 ですから、とりあえず空というコンセプトが私たちの知るかぎりのほとんどすべてに当てはまるということで納得し、後は空体験をしてマナ識、アーラヤ識の浄化を進めていく、という修行実践にとりかかることが肝要かと思いますが、いかがでしょうか。


 しかし、私の考えをもう少し詳しく書かせていただき、読者のみなさんと共有したほうがいいと思いましたので、続きを含め記事欄にしました。

 ゴータマ・ブッダの教えの基本線は非常に妥当性が高いと思いますが、ご指摘のとおり、現代のような科学が――自然科学だけでなく、社会科学も人文科学とりわけ心理学も――なかったのですから、足りないところがあって当然です。

 ですから、ブッダの教えと現代科学の理論が万一矛盾したとしても、あまり悩まれる必要はないのではないか、と思いますが、いかがでしょう?

 私たちは、「多くの聖者・賢者が絶対に正しいことを知っていて、それを私たちに教えてくれる。その結果、私たちも絶対に正しいことを知っている人間になれる」ということを期待しがちですが、そういう姿勢は必然的に「~原理主義」に陥って、独善性・排他性を生み出すので、何教、何主義にかかわらず「原理主義」は避けたほうがいい、と私は考えています。

 しかしそれはそれとして、エネルギーは「実体」ではないのか、という問いは理論的にはとても重要だと思いますので、私の考えを書かせていただきます。

 私の知るかぎりの現代科学の考え方では、宇宙はただ一つのエネルギーの塊である以前は物質でも空間でも時間でも、エネルギーでさえない時があった、その状態はもはや「無」と呼ぶほかない(ビレンキンの説)ということになっているようですから、その無から――それとの関わりで――創発したという意味で縁起的であり(①の否定)、無だったものがエネルギーに変化したのですから変わらない本性はなかったというべきでしょう(②の否定)。

 ですから、エネルギーも「実体」とは言い切れないのではないでしょうか。

 ただ、最近の宇宙膨張の観測によれば、私たちのこの宇宙はほぼずっと拡大しつづける――永遠に?――ということになったようですから、無だった過去はともかく未来に向かってはずっと存在するのかもしれませんから、③は当てはまる?ような気もしますが、しかし薄くなり続けるのですから、やはり無常といったほうがよさそうです。

 お答えになったでしょうか?

 さらにしかし元に戻ると、ブッダにとって、仏教にとって、私たちにとってより重要なのは、縁によって生まれてきた形あるさまざまな存在(諸法)、特に私たち人間のこの体と心の形が「空」であり、ということは、すべて形ある存在は実はつながりあっていて一つであるということであり、さらに私たちがそういう言葉で表現されたことそのものを言葉を超えて直接体験することによって、安らかな心になり、他者と自己とが区別はできても分離していないことに気づいた柔らかな心になることだ、と私は捉えています。

 もしすでに修行をしておられるようでしたら、ぜひ理論に滞らず、行を深めていただきたいと思いますし、まだでしたら、よき師を求めて修行をお始めいただけるようお祈りしております。




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今日のことば 16: 不動心(アパティア)

2008年08月10日 | 心の教育

 あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。

 同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。

                       (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4巻44、岩波文庫)



 アウレーリウス、ストア哲学の探求した「不動心(アパティア)」というのは、原語でいえば「アパティア」つまり過剰な感情に陥らない、激情から解放されているということで、何の感情もないということではありません。

 「春の薔薇」、「夏の果実」という表現には、むしろアウレーリウスの豊かな感性が感じられます。

 そういう意味でのアパティアは南泉和尚の「平常心」とも通い合うものがあるような気がします。

 (↑ストア派哲学ではふつう「アパティア」なのですが、アウレーリウスは「アタラクシア」という言葉のほうを使っているようです。補足・訂正します。)



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希望の星の子たち

2008年08月01日 | 心の教育

 例年以上に時間を取られた採点が終わり、ようやく後は出席簿への転記、成績表への転記という作業――これもそうとうな手間です――が残っているというところまできました。

 しかし、採点しながら次のような学生の変化・成長がわかると、繰り返し「大変だったけどやっぱりやってよかったなあ」という感慨をおぼえます(読みやすくするために改行、読点を加えています)。

                       *

 〔中間レポートの感想〕

 「日本のこと好きですか?」と聞かれたら、私は「はい。」とは言えない。テレビを見ると悪いニュースばかりが流れ決して良い国とは言えないからだ。昔と比べるとやはり日本は腐敗しつつあると感じる。

 しかし、私には何か行動を起こし、世の中を変えようなどという考えは全く頭になかった。そして、そのような考えがない自分に対して嫌悪感を感じることもなかった。毎日、自分のことだけを考えることがあたり前だと思っていた。

 しかし、この授業で私の理想が死んでいること、自分がエゴイズムの塊であることに気づかされた。自分が腐敗した人間であること、また腐敗していることに18になるまで気づかなかったことが、私にとってとても衝撃的だった。そして、今まで何も疑問を感じることのなかった自分の軽薄な生き方や、考えに不信感を感じるようになった。

 正直、初回の授業では先生の言葉に反感を持っていた。しかし、授業を受ける度に、先生が正しいことしか言っていないということを実感するようになった。

 以前授業でも言っていたように、先生の授業は「説教」に近いと感じる。そして説教の後は、自分の人間性に毎回へこんでいる私がいる。帰りの電車で今までの自分に対して1人反省会をすることが私の1週間の楽しみになっている。

 これからもこの授業を通して様々な衝撃を受けることを期待している。


 〔期末テストの感想〕

 私は、この授業を受け、自己認識しはじめていると思う。

 今まで何も考えていなかった自然や隣の人も皆自分と同じで宇宙の一体となっていると感じると、環境のことや、周りの人のことを真剣に考えたいという気に初めてなった。

 自分が感情を持って生まれてきて、宇宙のこと、環境のこと、人について感動できる、(自己感動)ができること、宇宙の一部であることは本当にうれしいと感じました。

                        *

 若者のみずみずしい自己反省能力、成長能力に、感動と大きな期待を感じています。

 2大学で800名以上の受講生のもちろんすべてではありませんが、10人や20人でない人数がわずか4ヶ月で変わってくれるのです。

 こうした若者たちがいるかぎり、まだまだ日本に失望、絶望するのは早すぎる、と改めて勇気づけられています。

 成長してくれている教え子たち、希望をくれて有難う! きみたちは、まぎれもなく「希望の星の子」です!!



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宇宙が怖くなくなりました

2008年07月29日 | 心の教育

 「この果てしない空間の永遠の沈黙が、わたしにはおそろしい。」

という、パスカルの有名な言葉がみごとに表現しているように、宇宙を自分と分離した向こう側にあって、やがて私を飲み込む巨大な虚無と捉えると、それは当然言い知れず怖ろしいものです。

 しかし、宇宙と自分が区別はできても分離できない一体の存在だ、と知ると、怖れは克服されます。

 次の学生の感想があまりにも典型的にパスカルと逆だったので、引用・紹介させていただきます。



 この授業を受けてから、宇宙が怖くなくなりました。

 以前は、宇宙と「私」は別だと考えていたので、無限に広がる宇宙の広さ、大きさ、歴史の長さと、「私」の命の小ささ、短さを比べて、恐ろしかったのです。

 今では「私」は宇宙と一つだ、と思えるので安心して夜空を見上げられるようになりました。

 本当に良かったと思います。



 本当によかった、と私も思います。

 期末の採点がまだ終わっておらず、今日も一日取り組んでいたのですが、こうした感想を読むと、苦労が報われる気がします。

 あと一息、暑さに負けずがんばろう!



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「この授業を受けると受けないとでは自分の人生が大きく異なってくるのではないか」

2008年07月20日 | 心の教育

 M大の授業名は「仏教心理論」ですが、意図があって、前期は現代科学の話を主にして仏教の話はほとんどしません。その意図を理解してもらえているかどうかを確かめるために、今回のレポートの課題は「仏教心理論なのに、なぜ現代科学の話をしたか?」としました。

 ポイントをとてもよく摑んでいるレポート(☆A評価)の1つを紹介します(2年生女子)。



 現代の日本人の中には自信がなかったり、生きる気力がなかったり、孤独を感じたりしている人が少なくない。
では、私たちが自信もてたり、生きることをすてきに感じられたりするにはどうしたらいいのか。

 答えの一つに仏教を学ぶことである。日本人の心の中心、価値観の元にあるのは仏教である。今ではなかなか口にされなくなったが、親が子どもを叱るときに言う「悪いことをすると罰が当たる」というのも仏教的な考えの一つである。
 私たち現代人は身近でなくなりつつあるある仏教をもう一度理解することで上記に述べた問題を徐々に解決していくことができる。

 仏教では命の大切さを学ぶことができ、またつながりコスモロジーと重なる。

 つながりコスモロジーとは現代科学での宇宙論である。現代科学では、私たちはもともと一つの宇宙と一体で、その一部であり、その進化のプロセスである、と言われている。
 宇宙は137億年ほどの歴史をもつが、そのうち人間が出現してきたのはごく僅かな時間でしかない。しかし、私たち人間は137億年という歳月によって生み出されたものであることにかわりはなく、またこれからのモノに影響を与えていくモノでもあるのだ。私達の体には宇宙137億年の歴史が入っている。

 このように考えて遡っていくと、私たち人間は皆親戚であり家族であり、星の子であるのだ。したがって誰一人として孤独な人は居ないことになる。
 また、生きていてもつまらないから、と自分の生命を粗末に扱う人が居るかもしれないが、それは間違っている。自分が今までの宇宙の137億年の歴史の結晶であることを忘れてはいけない。
 宇宙から託された命や潜在能力を100パーセント結実し、自分と宇宙は一体と気がつく必要がある。

 これ以外に自信がない、という問題があるが、そもそもの理由は今の社会の風潮にある。
 現代は常に社会の中で他人と比較される。そのため、自分より優れている人を見れば見るほど自分を惨めに感じ、ますます自信がなくなっていく。
 確かに社会の中では比較されることはあるが、家の中でまで、しかも自分自身で自分を他人と比較する必要はあるだろうか。比較のしすぎである。私たちには宇宙の歴史から生まれた様々な能力が備わっている。例えば体力や視力、聴力、歩行能力、会話能カ…などである。これでも自分には全く能力がなく、自信がない、と言えるだろうか。

 これらのように現代科学から私たちは生きる活力を得ることができるのだ。そしてそれが仏教心理にもつながってくる。

 最近良くないニュースが多い。しかも若者の犯罪が多く、悪質である。その犯罪者達が、自分と他人は親戚であり、誰一人として孤独な人は居らず、みんな何かしらの能力をもっているのだ、と知ったら何人の人が思いとどまるだろう。

 つながりコスモロジーの考え方を日本中にまずは広める必要がある。


  感想

 この授業の最初の頃に近代科学の話から、ニヒリズムについて話している時があった。私はその話を聞いて、自分は完全にニヒリズムだと思った。
 自分の人生は自分のためにあると思っていたし、なんだかんだ言って、いつも自分のことばかりを気にしている自分を前々から少し気にしていたからだ。自分がニヒリズムであることが単純にショックだった。きっと認めたくない自分が居たのだと思う。
 それから一気に授業に望む気持ちが変わった。

 初め先生が「私はみんなを親戚と思っている」と言ったとき上手く言っていることが自分の中に入ってこなかったし、どちらかと言えば拒否したくなった。
 しかし、後の宇宙の歴史、つながりコスモロジー、現代科学の話を聞いていく中で徐々に自分の中に入ってきて、いつの間にか自分のものになっていた。だから「みんな星の子なのだ」と言われたときは、うん、うん、とうなずけた。

 また、先週(7月10日)の授業で実際に体を動かしながら自己を認識する授業を受けて、生きることの本当の意味を知った。感動することができるのは人間だけで、とてもすばらしいことだと再認識した。

 それから、特に印象に残っている部分は、社会の中では比較されても、家の中でまで比較する必要はない、というところだ。この部分に強く同意する。例えば学校や会社での成績を比較され落ち込む人が出てきて、その人が家の中でもずっとそのことを考え続けていたならば、きっとその人は死にたくなったり、自分に意味を感じられなくなったりすると思う。自分自身で自分の能力を見つけることはとても大切なのだ。

 今まで自分は周りの人のことを親戚とは全く考えなかったし、自分の行動が次にどう他人に影響するのかもあまり考えなかった。しかし今は反対だ。

 振り返って思う、自分の考え方を良い方向に変える授業は小、中、高、大学通してなかった。この授業を受けると受けないとでは自分の人生が大きく異なってくるのではないか、と私は思う。



 こうしたレポートに対して、「4ヶ月授業を受けたくらいで、『人生が大きく異なってくる』なんてことがあるのか。一時の感動にすぎないのではないか」、あるいは「いい点をもらうために教師を喜ばせるようなことを書いているにすぎないのではないか」といった疑いをもたれる読者もいるでしょう。

 確かに「わかった→感動した→忘れた」という、持続・定着性の問題があることはまちがいありませんが、それに対する対策はすでに少し書きました 1)(詳しいことはまた後日書きたいと思っています) 。

 また実際、「いい点をもらうため」という面の感じられるレポートもあります。しかし、授業時の顔を直接見ていれば、ほんとうに感動しているかどうかはかなり確実に確認できると思います。さすがに、顔まで感動の演技はしていないと思うのですが、どうでしょう。

 それより何より、私の授業を受けた学生たちの中から、「持続可能な国づくりの会」という具体的・建設的な社会行動を起こしている若者が何人も出ていることが、一つの授業効果の証明だと思っています 2)

 レポートの学生も「つながりコスモロジーの考え方を日本中にまずは広める必要がある」といっていますし、もっと積極的に「発信者になる必要がある」といっている学生もいます。

 しかし問題は、「振り返って思う、自分の考え方を良い方向に変える授業は小、中、高、大学通してなかった」ということです。

 「この授業を受けると受けないとでは自分の人生が大きく異なってくるのではないか、と私は思う」というのが、この学生だけの特殊意見、または紹介している学生たちの少数意見にすぎないのならともかく、もっと一般性のある意見だとしたら、教育関係者のみなさんに、ぜひ検討していただきたいと思うのです。

 ぜひ、読者のコメントをお寄せください。




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「私は生きます! 私は変わります。」

2008年07月19日 | 心の教育

 一昨日、M大の最後の授業で、これで夏休みです。

 先週、「これからは出席にカウントしないから、ワークをしたい人だけ来て下さい」というと、試験期間中で準備が大変らしく、それでも出てくる学生は30人くらいになりました。

 その分しっかりとワークができました。

 先週、今週に分けて提出された150通ほどのレポートは、今日で読み終えました。

 読み終えて、「今年もやっぱり頑張って教えてよかったなあ」としみじみ思いました。

 今日は、2年生の女子学生のものを一つだけご紹介します(公表することは予め承諾を得ています)。



 〔授業の要約部分省略〕……先生が授業でおっしゃっていた、「人間は水素と炭素と酸素とちっ素と少しの何か」でできていると聴いたときは、正直言って、「人間を原子つまりモノのように言っているなんて……」と否定的な気持ちになってしまいましたが、私たちが生きている世界、また宇宙も原子からできていて、私たちは「星の子」と聴いたときは、胸から何かがこみ上げてきました。

 宇宙カレンダーを見たときは、人間は、自然の力でできたのだなと思い、いのちのでかさを感じさせられました。

 仏教も、いのちの大切さを教えてくれるけど、私は正直言って、現代科学の説明をして下さった先生の授業のほうが現実的で、よりいのちの大切さを学ぶことができました。

 ニヒリズムの塊であった私を先生はハンマーで砕いてくれました。現代科学は、仏教では説明しきれない、いのちの大切さを教えられる気がしました。
 だから、先生は仏教心理論なのに現代科学の話をしたのではないかと私は思いました。

 また、私は過去または今でもたまに自殺したいと思ってしまう時があります。それは、高校の時少しいじめられたことや、所詮、人間は、エゴイズムでしかない。そういう考えからです。

 でも、私が今、こうして元気に生きていられるのは、お母さん、お父さん、ご先祖様、そして、宇宙の歴史なのです。私のつらさなんか、米粒くらいのことでしょう。ご先祖様たちが今までつらいこともあった中で、子孫に継いでいた中の1人が私なのです。良く言えば、私は宇宙の歴史の中の代表者なのです。これは、今生きている人間全員に言えることです。

 こんな大切ないのちを捨てるわけにはいきません。私は生きます!……ありがとうございました。

 私は変わります。



 「ニヒリズムの塊であった私を先生はハンマーで砕いてくれました」とは、なんとみごとな表現でしょう。

 「そうか、そんな感じだったんだね。ニヒリズムが砕けて、よかった、よかった」と拍手してあげたい気持ちです。

 「こんな大切ないのちを捨てるわけにはいきません。私は生きます!……ありがとうございました。/私は変わります。」とは、すばらしい決心です。

 私の授業を「生きる」「変わる」という決心のきっかけにしてもらえて、ほんとうに本望です。

 今後も少しずつご紹介していきますが、こうした感想をもらうたびに、日本の教師のみなさんに、ぜひコスモス・セラピー=コスモロジー教育を学んでいただきたい!と思うのです。




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宗教と無神論の対立はすでに終わっている?

2008年07月18日 | 心の教育

 「宗教と無神論の対立はすでに終わっている?」


 16日(水)、O大学チャペルアワー(礼拝)での講話の原稿です。


  聖書 : ヨハネの手紙一 4・12

 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです。


 今日参加している学生諸君の多くは、特定の宗教を信じていないのではないかと思います。別の言い方でいうと「無宗教」「無神論」なのではないでしょうか。そして、たぶんそれが正しい考え方であり、それは自分で決めた自分の考え方だと思っていると思います。

 私は、今日、それに対してちょっと疑問を投げかけたいと思っています。

 それは、必ずしもこの大学がキリスト教大学で、この場がチャペルアワーで、諸君にキリスト教に共感を持たせようとか、ましてキリスト教を布教しようという意図から来ているわけではありません。

 私は、「信教の自由・思想の自由」ということをとても尊重していますので、もし諸君がほんとうに自分でよく学んで、よく考えたうえで、ほんとうの意味で自分で決めた結論が「無神論」なのならば、それでいいと思っています。

 しかし、よく学んで、あるいは調べて、よく考え・検討して、ほんとうの意味で自分で決めたのかどうか、そこが問題なのです。

 戦後の日本では、公教育の基本的な考え方は合理・科学主義ですから、はっきり言う言わないは別にして、神話的で迷信的で古い宗教は信じないほうが近代人として正しい、無神論のほうが理性的に正しいのだという教育がなされてきています。
 もしかすると、そういう教育でいつの間にかそう思わされて―思ってきたのではないでしょうか 1) 2)

 確かに、キリスト教も含む伝統的宗教には、前近代的・神話的側面もあります。「神」というコンセプトについていうと、「空の上のほうにいる、輝くような白い衣を着て白い長い髯で厳かな声の超能力のお爺さん」というイメージは神話的です。

 「神を信じる」というと、どこかにそういう超能力のお爺さんがいると信じ込むことだと思っている人が、キリスト教の内部にも外部にたくさんいるようです。

 そしてそういうのが「神」だとすると、それは科学的・合理的には存在することが証明できないどころか、存在しないことが証明できてしまいます。

 例えば、地球は丸いことが、もう宇宙船からの写真でまで証明されていますから、空の上は一方向ではありません。地球のあらゆる場所に空の上がありますから、そうすると神さまの居場所もあらゆる方向になければならず、神さまもあらゆる方向にいなければならないことになり、そうすると、一人・単数の神さまではありえなくなります。

 そもそも、白い髯の超能力者としての神は、望遠鏡でも顕微鏡でも、その他どんな観測機器でも観測することができません。目には見えないのだとしても、例えば赤外線写真やソナー(音波探知機)などのようなその他の方法で存在を確認することができるかというと、それも不可能でしょう。

 科学的に観察・実証できないものは存在しないと考えるのが科学的・理性的だ、というふうに教わりましたね(そういう考え方はむしろ「科学主義的・理性主義的」というべきだと思いますが)。
 したがって、科学的・理性的な教育を受けた人間が、科学的・理性的に「神は存在しない」と思う、つまり無神論になるのは当然ですし、そういう科学的無神論と神話的な宗教が対立するのも当然ということになります。

 しかし、私は、キリスト教の語っている「神」は、かつてはそうした神話的イメージで語られることが多かったにしても、本質的にはそういうものではない、と考えています。
 そのことを非常にはっきり示しているのが、今日の聖書の箇所です。

 ここでは、はっきりと「いまだかつて神を見た者はいません」と、神は観察・観測・実証できないと主張されています。その点に関しては、ある意味で近代の科学合理主義・無神論とまったく同じ前提に立っているといってもいいでしょう。

 しかし、この文書の著者とされるヨハネは、「だから、存在しない」という結論を導き出してもいません。
 といって、これまでキリスト教も含む多くの宗教のように、「見えない・実証できないからこそ、信じるのだ」とも主張していないことに注意してください。

 「イワシの頭も信心から」ということわざがよく示しているように、ほんとうは「イワシの頭」にすぎないかもしれないが、信じ込めばそれが輝いて見えてきてご利益をもたらすことがある、というのが宗教だと考えられがちです。
 「いるかいないかわからないし、いるという証拠はないが、いると信じれば安心できる」というのが信仰だという考え方です。

 しかしヨハネは、まるで角度のちがったことを言っていると思います。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです」というのです。
 つまり、「人間同士が愛し合うことのなかに神が存在する」というのです。

 キリスト教では従来しばしば「神は愛なり」と言われてきましたが、「愛は神なり」と言い換えることもできると思います。

 それぞれの人間は、同じく人間という性質をもち、生き物という性質ももち、同じ地球の空気を吸っており、同じ地球の水を飲んでおり、同じ地球の他の生命である植物や動物を食べさてもらって生きており、その地球は同じ一つの太陽系という惑星システムのなかにあり、太陽系は同じ一つの天の川銀河に他の星々と共に存在しており、天の川銀河は同じ一つの宇宙に存在しています。

 おおきくまとめて言ってしまえばおのおのの人間は同じ一つの宇宙という全体のそれぞれ部分であるというのは、誰も否定することのできない事実ではないでしょうか 3)

 そこに、私たち人間の連帯・愛の可能性も必然性もある、ということができると思います。

 同じ一つの全体の一部同士・部分であることに気づくと、対立し、憎み合い、殺し合う、戦争をするといったことが、いかに宇宙の事実と理にかなわない愚かなことかがわかってきます。
 同じ全体の部分同士ならば、認め合う、協力し合う、助け合う、連帯する、愛し合うことが事実に対応した自然なことであることがわかってきます。

 そうした宇宙の事実と理に目覚めることこそほんとうの「信仰」だ、と私は捉えています。
 そして、そうした目覚めとしての信仰からは、自然・必然的に人間同士の連帯・愛し合うということ生まれてきます。

 逆に言えば、人間同士が連帯・愛し合った時に、そこに宇宙の事実と理が明らかに顕れてくるのです。
 そのことを、ヨハネは、「神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛はわたしたちの内で全うされているのです」ということばで、つまり神という全体的・超越的な存在が私たち人間の中に存在する、その本質である愛が私たち人間によって実現・完成されていくという事実を表現したのだ、と考えていいでしょう。

 こういう理解の仕方においては、「観察・実証できないものは存在しない」という意味での無神論と、「輝く超能力のお爺さん」の存在を根拠不明のまま信じ込むという意味での宗教との対立は超えられています。
 言い方を変えると、「観察・実証できないものを信じ込むことはしない」という無神論の妥当な面と、私たち人間を超えた宇宙的な全体・「Something Great・大いなるなにものか」に目覚めるという意味での宗教の本質が統合されていると思われます。

 この聖書の文書は、おそらく二世紀ころに書かれていますから、そういう意味でいうと千八百年以上も前に、本質的には宗教と無神論の対立はすでに終わっていた、といってもいいと思います。

 しかし、残念ながらキリスト教の歴史を見ると、長い間、神話的な神のコンセプトにこだわってきて、近代では科学と対立するという状態が、まだ十分に克服されておらず、聖書のこうした箇所のような神の理解の仕方がキリスト教の世界全体に行き渡っているとはいえません。

 けれども私は、こうした神の理解の仕方こそ、キリスト教のエッセンスであり、それは現代の無神論・無宗教が正しい・いいと思っている諸君にも、ちょっと考え直してみるに価するものだと思っているのですが、どうでしょうか。ぜひ、考えてみて下さい。



*O大学は、チャペルアワーでこうした話をすることができるような「開かれた(=原理主義的ではない)」キリスト教主義大学です。



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今日この頃

2008年07月16日 | 心の教育

 おとといの夕方、近所の霊園でのウォーキングの途中、今年初めての蝉の声を聞きました。

 昨日は、一つの大学の前期最後の授業でした。

 戦争したり、環境破壊したり、ニヒリズムに陥ったりするこのやっかいな人間という生き物 1) も、まちがいなく宇宙の一部です。

 長い間、なぜ、宇宙は自らのなかにあえてこのやっかいな生き物を創ったのかということを考えてきて、コスモロジーに到達した時に、こういうふうに考えるとすっきり理解できたんです。

 ……と、人間は、宇宙自身の自己認識器官 2)、自己感動器官 3) であり、これから自己覚醒器官になるために創造された、という私のコスモロジー的解釈を伝えました4)

 最終小テストを行なったので、単位を取るために、ふだんサボっている学生も来ていて、700人教室がいっぱいの状態(おそらく6百数十人)でした。

 「授業を始めます」といってもまだガヤガヤしているので、「今学期最後の親父の説教だ」と、「なぜ授業を静かに聞かなければならないのか」についてお説教しました。

 人間は、ことばを使って社会を形成しなければ生きていけない、コスモロジーなしには生きられない動物である 5)

 ことばを軽視すると、人間としての社会生活がちやんとできなくなる。

 授業を受けるとは、社会的に意味あるとされていることについて自分よりも知っているという意味で「目上」にある人のことばを聞くということである。

 授業を静かに、真剣に聞いていないということは、社会の、目上の人間のことばをしっかり聞いていないということであり、それは自分自身が成長できない、ちゃんとした社会人になる準備ができていないということである。

 「親に高い授業料を払ってもらって、授業を受けながら、静かに=ちゃんと聞いていないなど、成長できないという意味で自分が損をしている。それだけでなく、何よりも親不孝そのものだ! いいかげんに、大人になりなさい!」

と叱りました。

 その後は、だいたい静かになりましたが、まだ私語している学生が数人いたので、「何歳だ?」、「生理的にはもう立派な大人だな。いいかげんに、心理的・精神的にも大人になれよ」と叱ると、すなおに「すみません」とあやまり、後は静かになりました。

 この数の大学生を躾けるにはそうとうエネルギーが必要なのですが、コスモロジー的にいうと「遠縁の親戚の子である」彼らのこれからの人生のために必要なことだと思うので、あえてやっています。

 今日は、秋から講義に行くキリスト教主義大学のチャペル・アワー(礼拝)の講話に出かけます。

 明日は、もう一つの大学の前期最終授業です。

 自分の長所を考えてみるワーク 6) 7) 8) 9) とほめあいのワーク 10) をする予定です。

 学生たちの笑顔と瞳の輝きが予想されて、楽しみです。

 ……これで、大学の教師としての仕事は小休止、もうすぐ夏がやってきます。



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朝焼け・夕焼け空は、なぜ赤いか?:コスモス・セラピーの解釈

2008年06月28日 | 心の教育





 朝焼けや夕焼けの空が赤いのは、空が青いのとおなじ原理です。

 つまり、酸素や窒素、水分子などを含んだ地球大気によって、太陽の光のプリズムの一部が散乱されるからですが、昼間とちがって朝と夕方は太陽が斜めに射してくるので、その分、通ってくる地球大気が厚くなり、青などの波長の短い光は先に散乱されてしまい、その後、波長の長い赤も散乱されるために、そちらの色が見える、のだそうです。

 ……という説明は、近代科学の主客分離という方法 1) 2) を前提にしてなされています。

 つまり、私・主体とは関係なく分離して向こうにある客体・対象である朝焼け・夕焼けの理由を客観的に分析して叙述しているのです。

 言い換えると、ばらばらコスモロジー的な捉え方です。

 昨日の記事の学生の言葉を借りると「今まで学校で教えてもらった平べったい知識」です。

 しかし、ここでよく考えてみましょう。

 私たちが実際に見るのは、私たち自身の目で見る、〇年〇月〇日○時○分の具体的で一回きりの朝焼けや夕焼けです。

 その朝焼け・夕焼けの空は、私がその中にいて呼吸している具体的な大気とつながっており、私と区別はできても分離していません(ですね?)3)

 その朝焼け空・夕焼け空が赤いということは、私にとってどういう意味があるか、という意味で「なぜ」と考えてみましょう。

 朝になったり夕方になったりするのは、地球が自転しているからでしたね。

 しかも月が地球に対していつも同じ面を向けるような自転をしているのとちがって、地球は太陽に対して、一日一回り――というかその一回りを一日というわけですが――して、まんべんなくすべての面を向けます。

 もし、自転をしない、または月のような自転をしていたとすると、地球の環境は今とはまったくちがったものになっていたと思われます。

 太陽にいつも向いている面は暑すぎ、背を向けている面は寒すぎて、生命は生きていけなかったのではないでしょうか。

 地球がぐるりと一回りすることによって、地球の表面は適度に暖まったり冷めたり、暖まったり冷めたり……ということを繰り返しているのだと思われます。

 ということはつまり、朝焼けは太陽と地球と地球大気のコラボレーションによって、これから赤や赤外線の照射量が増える、つまり「これからきみたち生命が生きていけるように暖めるよ」というメッセージ、夕焼けは照射量が減っていく、つまり「これからきみたち生命が焼け死んでしまわないように冷ますよ」というメッセージだ、と解釈することも可能なのではないでしょうか。

 これは、単に詩的・メルヘンチックな解釈ではなく、ふくらみがあって心が温かくなるような「生き生きとした現実」の〈主客統合的解釈〉だ、と私は考えています。

 そして、そういう解釈には、とてもセラピー効果(心が癒される)がある 4)、と感じます。

 みなさんは、どうお考え、お感じですか。

 この記事に関して、科学的知識に誤解がある、解釈に無理があると思われた方も、もちろん共感していただけた方も、ぜひコメントしてください。




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コスモロジーは綺麗事?

2008年06月27日 | 心の教育

 いうまでもなく、コスモス・セラピー=コスモロジー教育は万能ではありません。

 おなじ授業をしても、受け手によってかなり違った反応があります。

 特徴的なのは、すでに書いた「実感が湧かない」という問題ですが、それと関連して、コスモロジーが単なる綺麗事に感じられるという問題もあります。



 この世界の大局観が養われる授業だと思う。しかし、綺麗事が多いようにも思える。
 人間は皆元を辿れば辿るほど近い存在であるが、この理由で人類愛が成り立つであろうか。宇宙という大きな物を持ち出して、現実を直視していない気がする。
 世界には多くの言語や文化、宗教がある。言葉の通じない相手とは話す事も出来ないし、文化が違えば、「違い」は例え認め合えたとしても、違和感が残る。宗教が違えば、神の名の下に別の神の子を迫害し、殺戮を行う。
 戦争で肉親を殺された人間に人類愛を唱え、武器を取り上げることが出来るだろうか。
 先生の理屈は、世界の中の平和な地域に生まれた人間だけが持つものだ。その理屈では世界の多くの人間は納得しないだろう。
 私はまだ先生の真意が十分に理解出来ていないのだろうか、次回の授業にまた期待します。
                                                  (4年男)



 私は、先生が話していた、今の世代と昔の世代は個体としてはつながっていないけれど、生命としてはつながっているというのはよくわかりました。
 しかし、「今この生きている瞬間もつながっている。だから孤独な人はいない。」と言うのはどうしてもわかりませんでした。それは人間がただそう思いたいからただのキレイ事なんではないのだろうかと思いました。
 みんな産まれる時も死ぬ時も1人なんだと思います。でもそうぢゃないってどこかで思いたいけれど、孤独なんだろうと思ってしまいます。
                                                  (2年女)



 そうした疑問もあれば、以下のようなかなりストレートな反応もあります。

 もちろん伝える側の気持ちとしては、みんなに元気になってもらいたいのですから、こういうふうにストレートに受け止めてもらえるとうれしいのですが、決して強要しないように、「元気になるかならないかは、きみの自由です」というメッセージも忘れずに発しているつもりです。



人間は宇宙の一部であるから、本質的に孤独な人はいない。つまり、元をたどれば1つのエネルギーであって、私達は宇宙と分離しているのではなく、区別されているだけであるからだ。
 さらに、地球上の生物にはエコシステムと呼ばれる食物連鎖があり、一部のみを注目すると非常に闘争的な生存競争にみえるが、全体から捉えると、その争いは決して弱肉強食などではなく、競争的共存関係を生物全体で築いている。
 今までは、漠然とした不思議な感じで、理解できずにいたが、最近では、とても温かい気持ちで講義を聞いている。それは、何か安心に似た感覚と同じで、宇宙や地球にとても親近感が以前よりわいており、“実は一体なんだ”と少しずつ感じているからだ。
 このように考えていくと、宇宙や地球も私たちと同じように心があって、考える力を持っているのではないかと思う。なぜかというと、私たちは現代科学的に“星の子”であり、1つの同じエネルギーから生まれたからである。
 宇宙の長い長い歴史を私の歴史は同じようにも感じられるようになり、命を愛おしく感じる。これまでは、つきつめればつきつめる程悲しくなるので(いわゆるニヒリズム)考えないようにしてきた自分の存在意義が、この授業によってつきつめればつきつめる程ロマンチックにならざるを得ないと思うようになった。
                                                  (2年女)



 宇宙が自己組織化して、その中で地球がそれ以上近くても遠くてもいけない距離で太陽のまわりをまわっていて、何億、何十億年もかけて雨が降り続き、その中で生命が誕生したという事は、まさに奇跡だと私は思いました。
 しかし私が単純に奇跡だと感じたその出来事を、私の生まれるためのプロセスだと考える事で、自分の命が何か壮大な背景に支えられて、ここにあるのだと思いました。
 また、今私がこうやって生きている事は、そのつながりの歴史に支えられている最中なのだと思いました。
                                                 (2年女)



 毎回、今まで学校で教えてもらった平べったい知識が生き生きとした現実に変わっていくので楽しいです。
 Jupiterとコスモスはまさに仏教心理論の主題歌ですね!! 思わずJupiterの着メロをダウンロードしてしまいました。よく聴いて授業を思い出しています。
 先週の授業で、先生の言っている話はキレイゴトに聞こえるというリアクションがあることを知り驚きました。やはり人は皆ちがった感性をもっているのですね。
 私はキレイゴトになる基準を知らないので、全てリアルな話として聞いています。
 なので、これからの地球が今以上に汚れて住みずらくなってしまわないように、身近なエコから始めたいものです。
 自然は競争的に生きているにも関わらず共存できているのは素晴らしいと思います。人も見習いたいものです。
                                                 (2年女)



 先週と今週の授業では、生命のつながりについて学んだけれど、やはり普段生活しているだけでは気づけなかったこと、改めて考えさせられることがたくさんあってとても新鮮だった。
 今の自分がいるためには何億人もの先祖がいて……という話にも感動したけれど、それ以前にまず生命が存在するための土台の段階で、光合成微生物が何十億年もかかて大気の成分を作ったとか、空の青を作った、というふうに考えると、更に感動しました。私たちは何十億年ものいろいろな生命活動によってつくられた地球に生きているんだなと思いました。
 空気がある、水がある、というのは当たり前だと思っていたけれど、そうではなくて、たくさんの微生物や他の植物、動物によるエコロジーシステム、「命のつながり」によってつくられたすばらしい財産を、我々人間は「与えられて」生きているのだと感じました。
 すべての生命に感謝しなくてはならないのに、自分の利益しか考えず自然を破壊する行為は、まちがっていると思います。
                                                   (2年女)




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『サングラハ』第99号が出ました

2008年06月23日 | 心の教育




 『サングラハ』第99号が出て、昨日はボランティアのみなさんと一緒に藤沢のミーティング・ルームで発送をしました。

 いつの間にか創刊から16年半経ち、あと1号で100号というところまでこぎつけました。

 ここまで持続することができたのは、ほんとうに読者や協力執筆者のみなさんのおかげです。

 一人ではできないことでも、力を合わせればできる、ということを実感しています。

 内容もますます充実していて、うれしいことです。

 目次を見て関心を持っていただけた方、表紙にあるアドレスにメールで氏名、住所をお知らせいただければ、見本を差し上げます。どうぞ、お申込み下さい。


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知ったかぶりへの自戒

2008年06月16日 | 心の教育

 教師、講師という、人にお教えすることを仕事としていると、しばしばそれが固まったアイデンティティになり、知らないことがあっても、なかなか素直に知らないと認めにくく、「知ったかぶり」――典型的な〈マナ識反応〉の一つ――をしてしまいがちです。

 恥ずかしながら、私も若い頃はかなりその傾向がありました。

 さすがに最近、それなりに知っていることも増えてくればくるほど、知らないことのほうが山ほどある……どころか宇宙大にあることが身に沁みてきて、ようやく癖が直ってきたような気が――自分では――しています。

 それでも、知ったかぶりをする危険はゼロではないので、次の『論語』の言葉を自戒の言葉にしています。


 子曰く、由(ゆう)よ、女(なんじ)にこれを知ることを誨(おし)えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。


 知らないことを知らないと自覚することが、本当の知ること・学びの基本だというのです。

 確かに、知らないことを自覚するからこそ、知りたい・学びたいという気持ちになれるわけです。

 基本を忘れないようにしたいと思います。



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コスモロジーへの反応-途中経過

2008年06月06日 | 心の教育



                   女子学生に人気のばら星雲




 昨日は、M大の授業でした。H大よりも話が先に進んでいて、星の創発、さまざまな元素の創発、天の川銀河の創発、太陽系の創発、地球の創発のあたりまで行きました。

 学生たちは、いろいろなとても興味深い感想を述べてくれています(すべて、人間関係学部の女子学生)。以下、いくつかご紹介しておきます。



 まだよく理解できていません。講義の内容はすごく前向きになれるし、現代科学からの知見なので、今までとは違ったプロセスから自分を捉えていくことが出来て、とても楽しいです。
 けれど、現実の社会を見ると、この講義で感じた(まだ理解できていないので感覚だけですが)前向きな気持ちを維持して生きることは難しいです……けれども、本当にこの講義を受講してよかったと思っています。なぜかというと、今までの当たり前に思っていたニヒリズムによるむなしさに問題提起が出来たからです。
 まだ自分の中に完全に入ってきていないので、結論が出せる段階ではないけれど、授業を理解して自分なりのコスモロジーを得たいです。


 典型的な文系人間です。物理や化学の授業は、心の中で「こんなもんが何の役に立つんだ」と思いながら受けていました。習ったことは事実に違いないのに、頭からすっぽり抜け落ちています、知識が。
 それから数年、仏教心理論で理科的な話を聞いて、ぽかーんとなるくらいなら、もっとやっておくんだったと後悔。まさか、自分に関係あることだとは思いもしなかったので。
 宇宙と星とかって言うと、なんだか自分とは遠いもので、離れた所から客観的に眺めるものだと思っていたけど、「みんな星のカケラ」と言われると、50%の疑いと50%の素直な感動に満たされます。うーん、深い。
 今まで漠然ととらえていた生と死を科学的にもとらえられるのなら、まずは自分と関係づけて考えようと思います。


 宇宙のはなしは前々から興味があったので、とても面白かったです。みんな親戚だという先生の考えは、最初は信じられなかったのですが、だんだん、そうだったら面白いなあと思います。そう考えるとなんだかウキウキしてきます。みんな血のつながりがあると思うと、孤独なんてことはないんだなあって。嬉しいことです。
 あと、星が死んで爆発することで新しい元素が生まれるという事実にはおどろきました。星が爆発したことで私が生まれた。“星の子”という表現は星好きな私にとってうれしいです。


 宇宙の話が始まってから、私とつながっている事を抜きにして考えても単純に興味深いお話でした。私が今地球上で、太陽系、銀河の中で、宇宙の中でこうやって生きているのに、自分のいる宇宙の歴史を詳しく知らなかったので、まるで井の中の蛙だと感じました。
 特に、エネルギーレベルで宇宙と私達は一体だというお話に感動しました。
 しかし私は、先生の仰る通り先生のお話を鵜呑みにはしていないので、宇宙の発生が私たちの誕生への準備だというお話はまだ納得できていません。これからの授業で、もっと深めて頂いた上で、判断したいと考えています。


 はかることができないほどの大きな宇宙に銀河系が星くずの集まりができ、惑星ができて私たち人間が誕生した、という先生の話を聞いたとき、とても感動しました。
 私はいつも人と自分を比べてしまい、自分にはこんなこともできないんだとマイナスに考えるくせがあります。
 みんな親戚(遠い)でみんな同じ星の子です、と言われ、心がスーッと楽になり自信が持てました。
 人が夜空の星を見て、キレイだなと思ったり、落ちついたりするのは、みんなが星の子だからかもしれませんね!そう考えると、夜空が恋しくなりました。


 宇宙の話に入ってからはや数回…私の中の全てがひっくり返されたような、自分の中身が新しいものと交換されたような…とにかく驚きと感動の連続です!!
 「感動して鳥肌が立つことって本当にあるんですよ!!」と色々な人に言いたいくらいです。ここ数回の授業中は口が開いたまま受けていました……。
 コスモス・セラピーは超現代的な癒しを私にもたらしてくれました。最近、ささいなことで落ち込んだり、イライラしたり、悲しくなったりしていません。それは頑張ってそう耐えているのではなく、そう思わなくなったのです。宇宙の137億年の中に今、私がいるという奇跡に気付くことができた奇跡をもたらしてくれてありがとうございます。
 初めは180度考えが変わるとは思っていなかったのに、今では180度どころか変わりすぎて計測不能…という状態になりました。
 この世界は楽しいですね。



 それぞれの反応がそれぞれに楽しく、しみじみ今年も教えてよかったなあ――まだ一年の四分の一を過ぎたくらいのところですが――と感じています。

 今年は、このまま順調に行けば、もしかすると2大学あわせて700人くらいのコスモス・ジェネレーション(コスモロジーが自明化して身についた世代という意味)が創発するかもしれません。楽しみです。



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