この秋から行きはじめたキリスト教主義大学での講義で、あらためてニヒリズムとその克服の可能性について話しています。
そのつながりで、久しぶりにニーチェ関連の文献を読んでいます(山崎庸佑『ニーチェ』講談社学術文庫など)。
そこで、以下のようなニーチェの言葉に出会いました。
今日、道徳的なことがらを研究しようとする者には、巨大な研究領域がひらかれる。……これまで人間が自己の「生存」とみなしてきたもののすべて、またこのようにみなすことに存する合理性、情熱、迷信のすべて――これらのものはすでに最後まで探究されているか? しかし人間の衝動がいろいろな道徳的風土に応じてなしとげた、またこれからもなしとげるであろういろいろな成長を観察することは、それだけで、もっとも勤勉な者たちにとっても、あまりにも多くの仕事を提供することになる。……
これらの仕事がすべてなされたとしても、あらゆる問題のなかでもっともむずかしい問題、つまり、科学が行為の目標を奪いさり、破壊しうることを証明してみせたあとで、はたして科学はそれをあたえることができるかどうかという問題が、前面に出てくるだろう。――そうなると、いかなる種類のヒロイズムも満足できぬような実験、これまでの歴史のすべての偉大な仕事や犠牲が光を失うかもしれぬような数世紀の長きにわたる実験こそふさわしかろう。これまでのところ、科学はまだその巨石建築物を建造しなかったが、そのための時もまたやってくるだろう。(ニーチェ『悦ばしい知識』第一章より)
『悦ばしい知識』は1882年に出たもので、つまり125年前のものです。
ニーチェの予言よりはかなり早く、科学が倫理の根拠を示すことができる、「そのための時がまたやって」来つつあるようです。
「力への意志」と「生成」と「永遠回帰」に代えて、「宇宙の自己組織化・自己複雑化」と「進化しつづける宇宙」を科学が語る時代になってきたのです。*
ニヒリズムと格闘して、克服しきれず――と私には見えますが――倒れたニーチェといまだにあちこちをうろうろしているその迷える霊に、「ご苦労さまでした。もう安心して眠ってください」と鎮魂の言葉を贈りたいという気がしています。
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