コスモス・フォーラム報告

2008年02月13日 | 心の教育

 昨日書こうと思いつつ、いろいろ用事があって、書けなかった一昨日のコスモス・フォーラムの報告を。

 「もしかしたら歴史的事件」は、残念ながら起こりませんでした(最初、「怒りませんでした」と誤変換されました)。

事件は「起こりませんでした」が、私は「怒りませんでした」。

 当日、期待しすぎない範囲で期待しながら、まず2枚の画像を投影し、「星空は私たちの向こうにあるのでしょうか? 私がこちらにいて、向こうに銀河や宇宙があるのでしょうか? それとも、私たちは銀河の中にいる、宇宙の中にいるのでしょうか?」という問いかけをした後で、以下のレジュメのようなことを述べました。











   宇宙(Kosmos)には意志がある――宗教と科学の調和


 もっとも典型的には例えば道元の「尽十方世界一顆明珠(世界はすべて一つの光の玉である)」という言葉が示しているように、仏教哲学的な視点から言えば当然、人間と宇宙は一体であり、その人間の心と宇宙も一体であり、そういう意味で宇宙には心がある・意思があるということも自明のことです。

 それは内面的なアプローチ・瞑想的直観によって把握された命題ですが、外面的アプローチによって形成された現代科学のコスモロジーとほぼぴったりと対応しているのではないか、と私は見ており、今日はその点について科学の専門家の方々のご意見をうかがいたいと思っています。

 アインシュタインの相対性理論以降の物理学、ガモフのビッグバン仮説以降の宇宙論、プリゴジーヌの散逸構造理論、ワトソンとクリック以降の遺伝子の研究、ヘッケル以降のエコロジーの成果など、現代科学の標準的な理論を統合的に理解すると自然に、「137億年前、たった一つのエネルギーの玉(ないし塊)だった宇宙は、ビッグバン以来、エネルギーから物質、物質から生命、生命から心というふうに、自己組織化・自己複雑化という意味で進化し続け、多様なかたちに分化しているが、依然として私たち人間とその心は宇宙と一体である」というコスモロジーが導き出されるのではないでしょうか。そして、私たち人間の心は、宇宙の一部でありながら宇宙を認識しているという意味で「宇宙の自己認識器官」であり、またそういう意味で「宇宙には心がある」ということもできるのではないでしょうか。

 さらに、宇宙進化には自己組織化・自己複雑化という方向性・「指向性」があり、それが宇宙の自己認識器官としての人間の心を生み出したという現在の事実からいわば逆算して推測すると、宇宙には原初から心を生み出す潜在力(ポテンシャル)があり、心を生み出すような「志向性」があった、つまりある意味での意志があると解釈することも十分に可能なのではないでしょうか。

 もしそう解釈することが可能ならば、仏教や他の宗教の核にある神秘主義と現代科学の調和は可能になり、宗教と科学の調和が可能になれば宗教(有神論)と科学(無神論)の対立によってもたらされた近代のニヒリズムは克服されることになり、かつまたそうしたコスモロジーは、理性的・統合的にものを見ることのできるレベルに達した人間同士であれば、普遍的・世界的な合意を得る可能性もあるのではないでしょうか。

 もしそうしたコスモロジーの世界的な合意が可能になれば――あるいはそういう合意が形成されることによってのみ――人類の持続的な平和、人類と自然の持続的な調和のある未来の世界を構想することも可能になるのではないでしょうか。

 そうした大きな合意の先駆けとして、私は今回のシンポジウムに大きな期待を抱いています。


 こうした問いかけに対して、大まかに言えば全面的な賛同は得られませんでしたが、現代科学のコスモロジーを「宇宙の自己組織化・自己複雑化」というラインで理解することと、それをコスモス・セラピー=コスモロジー教育に応用することについては、全員ニュアンスの違いはあっても、承認ないし容認をしていただけたと思います。

 特に、「私たちは星の子」、「私たちは太陽の子」、「私たちは宇宙の子」という言い方をすることについては、全員ご異議はなかったようです。

 このことは、私にとってかなり大きな……70点くらいの成果です。

 現代宇宙論として「人間原理」についての議論が大きなポイントでした。

池内先生の要約をお借りすれば、「弱い人間原理」のポイントは「宇宙を認識していのは人間である」ことと、「この宇宙は人間が生まれる条件(宇宙定数の大きさ)を満たしている」ということであり、「強い人間原理」のポイントは「宇宙は人間を生み出すのを目的としている」ということだそうです。

 そして、池内先生は、「人間原理」には、宇宙は背景であり現場は地球であるという点、人間の生まれたのは偶然かもしれないという点、人間はたかだか600万年前に登場したのであって長い寿命ではないという点、戦争や飢餓や環境問題を考えると必ずしも高等生物とはいえないという点をあげて、欠落点がある、とされ、それに対して「バクテリア原理」――簡単に言えば宇宙の主人公は人間ではなくバクテリアである――というおもしろい説を出されました。

 私は、人間において「宇宙が自己認識」しているだけでなく、「自己感動」をしているし、例えばブッダなどにおいて「自己覚醒」しているという点をあげ、「バクテリアは感動しないと思いますが?」などと、少しだけ反論しましたが、時間が足りないこともあって、徹底討論には到りませんでした。

 このあたりは、宇宙の階層構造と4象限というコンセプトを導入すれば、明快に答えが出るところではないか、と思っていますので、今後、可能ならば議論を続けられるといいと思っています。

 なかでも、司会をしてくださった佐治先生とは、突っ込んでお話しできれば、かなりの大合意に達するのではないか、と予想しています。

 詳しくは、当日の議論の記録が文字起こしされて、たぶん公表もされると思いますので、その時、またお知らせしますし、今後の経過も折に触れご報告しようと思っています。

 当日参加してくださったみなさん、お疲れさまでした。「歴史的事件」は起こりませんでしたが、おもしろかったでしょう? 怒りませんよね?



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コメント (6)
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